「禁欲」 聖アウグスティヌス

 

聖アウグスティヌス「禁欲」を短くまとめたものです。


 

1、「口から出て来るものは、心から出るので、これこそ人を汚す」

「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。
口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。つまり、悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」。(マタイ15・11、18、19)

私たちは口で語りますが、口を使って心を説明します。その口から出るものは、心から出るものです。心から悪いものが出てきたとき、それに同意したならば、心は汚されます。逆に心から悪いものが出てきたとき、それを拒否すれば、心は汚されることはありません。

主は「悪意は心から出る」と仰せになり、どんなものがそれに含まれているかを示すために「殺意、姦淫」、その他を付け加えたのです。主はそれらのすべてを言及していませんが例をあげることにより他のものも理解させようとしました。

悪意を行おうとした人が能力なかったり、状況が悪いため悪意を実行しなかったとしても、心の口から出る悪意がその人を汚しているのです。

人は、心の口に禁欲の戸が置くことによって、心の口から出る悪意に抵抗し、拒否することができます。

2、「肉では罪の法則に仕えています」

「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことをことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(ローマ7・18)
わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(ローマ7・25)
 

私たちは肉において欲望の衝動を持ったことをによって、肉では罪の法則に従っています。それを持ちたくなかったけれども、持ってしまったのです。

私たちの内には悪い欲望がありますが、その欲望を同意しないことによって私たちは間違った生き方をしていません。しかし、私たちは欲望に同意することなく、また禁欲によって抑制しても、私たちは肉は罪の法則に従っているため、その時でさえ、欲望は働き続けます。

したがって、許されていないことを喜ぶならば、私たちのうちに悪い欲望がすぐに生じます。また、私たちは、短いこの世において欲望を抑制し続けなければいけません。禁欲を休んだ瞬間から、悪い欲望がすぐに生じるからです。

3、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます

あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、罪という欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神にささげなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(ローマ6・12-14)
「兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8・12-14)
 

私たちは、この世にいる限り、罪という欲望が私たちの体を支配しないようにするために、欲望と戦っています。欲望に服従すれば、その欲望が私たちを支配することになります。

ですから私たちのうちに存在する欲望が支配することを許してはいけません。そのために五体を禁欲なものとなるようにしなければなりません。五体は神のための義の道具となるべきです。

律法は善を命じますが、律法だけでは、私たちはそれを守ることができません。しかし、私たちは恵みの下にいて、恵みは、律法の命じるものを守る力を与えてくださいます。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」。 ここで「肉」は「人」を意味します。例をあげると「御言葉は肉となった」(ヨハネ1・14)、「すべての肉は、神の教えを仰ぎ見る」(ルカ3・6)などに見られます。ですから、これは「あなたがたは人として歩んでいる」と言っています。

ではどうすればいいかというと、神と共に歩むことが必要です。独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです」(2コリント3・5)。 人は皆、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13・1)あなた自身に従って生きてはいけません。そのときからあなたは死んでしまいます。

罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです」と言われても自分自身に信頼しようとしてはいけませんそれを戒めるために直後に「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と付け加えたのです。

罪があなたを支配しないようにさせているのは恵みなのです。また「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きますという言葉を聞く時、この善を私たちの霊だけで行ったと思わないように気をつけよう。

というのは、わたしたちの霊は死に至ろうとしているというよりむしろ死んでいるので、私たちが肉的な感覚を享受することがないように、彼は直ちに「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と付け加えて述べたのです

このように、私たちが霊によって肉の業を絶つように、神の霊に導かれるのです。神の霊が禁欲を与え、それによって私たちは欲望を抑制し、支配し、克服するのです。

4、禁欲の行いは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけることです

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争いねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです(ガラテア5・16-24)  

欲望は、体の欲求だけでなく、心の衝動に対しても言われます。それらに従うならば人間は、自分自身に従って生きていて、神に従って生きているとはいえません。

しかし、禁欲を行い、神の霊に従って生きるならば、その人の業は神のものとなります。神の霊に結びついている人間の望むところは、肉に反するのです。つまり、自分自身に反するのです。

しかし、神のために行っていることは、結局は自分自身のためにもなります。私たちの衝動は、罪の法則によって得てしまったものですが、禁欲により神に従うことにより、神から癒しを与えられ、ますます禁欲を行えるようになります。

その結果、生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2・20)と言うことができるようになります。というのは、私ではないときの私はもっと幸福なので、人間に従ったどんな悪い衝動が生じるときでも、心で神の律法に仕える人はそれに同意することなく、「そういうことを行っているのは、もはやわたしではない」(ローマ7・17)と言うのです。

その結果は非常にすばらしく、この世においても大きな恵みが与えられます。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」。

禁欲とは、知恵の喜びに対立するあらゆる喜びを、完全に抑えることです。禁欲は、ある意味で肉の欲望そのものを十字架につけるのですから、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラテア5・24)と言ったのです。 これが禁欲の行いです。

5、上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさいあなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 だから、地上的なものを捨て去りなさい。すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。(コロサイ3・1-10) 

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」は、キリストと共に、(心において)復活した人に対して言っています。彼(パウロ)は、あなたがたは「死んだ」と言っていますが、むしろそれゆえに、あなたがたは「生きている」のです。

なぜなら、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」からです。このように死んだ人たちの声が「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2・20)という言葉なのです。

それゆえ、命が神の内に隠された人たちは、地上のものである自分の体の諸部分を捨て去るように忠告を受け、励まされているのです。すなわち「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。

しかし、神の命に隠されている人が、まだ淫らな行いをし、悪い欲望と貪欲な情欲に仕えているという意味ではありません。彼が禁欲を行うことによって捨て去ることを望んでいるものは、私たちが心は同意しないのに、体の各部分が動かないのに、まだ生きていて、自分自身を妨害する衝動の他なりません。そして大きい衝動には、禁欲の大きな用心をもって配慮しなければなりません。

私たちの思いは、ある意味で悪い衝動のそそのかしと、ささやきによって影響されるにしても、しかし、悪い衝動を喜ばないようにそれを避け、より大きな喜びをもって上にあるものに向かうのです。それらの衝動の内に住まず、それらから逃げ去るように、この話でそれらの衝動を言っているのです。

私たちが自分に役立つものとして聞き、またご自身の使徒をとおしてこのことを命じるかたの助力によって聞くならば、それがなされるのです。すなわち、「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」。

しかしながら、彼がそれらの悪について述べたとき、次の言葉を付け加えています。「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 実際、彼は、たとえこれらの悪に生きるとしても、自分の信仰だけで救われると考えないように忠告します。

しかしながら、彼が「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」と言うとき、彼は、あなたがたが、そのときもはやこのような悪の中にいなかったことを十分に示していますなぜなら、あなたがたの命はキリストと共に神のうちに隠されていたので、それらの悪に対してあなたがたは死んでいたのですから。

しかし再度「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」と彼は言います。すでに、捨て去っているものに対して再度捨て去りなさいと言うのは、私たちが生きている間は、諸聖人さえも、この禁欲を行うことを続けねばならないからです。

邪悪な快楽、不潔な欲望、肉的な醜い衝動に対して、聖性の甘美、純潔の愛、霊的活力、禁欲の美が抵抗します。それらの悪は、それらに対して死に、同意しない人たちによって捨て去られます。それらの悪は、間断のない禁欲によって復活しないように阻止されることによって、捨て去られるのです。

安全だと思ってそれらの悪を捨て去ることを止めるすべての人に対して、それらの悪そのものが直ちに心の砦に踊り出て、そこから心を突き倒して、自分の従者にし、卑しく醜い捕虜にしてしまいます。そのとき、罪は人間の死ぬべき体を支配して体の欲望に従わせるでしょう。そのとき、人間は自分の体の諸部分を不義のための道具として罪に渡す(ローマ6・13)でしょう。そして、その人の最後の状態は前よりも悪くなるでしょう(マタイ12・4)。

というのは、始めた争いを放棄して、善い戦士や征服者の捕虜となるよりは、この種の戦いを始めないほうがずっと耐えやすいのですから。それゆえ、主は「始める者は救われる」とは言わず、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10・20)と言うのです。