三位一体の固有性について:聖ヒラレウスによる説明

 

「御父における永遠性、似姿における形、賜物における使用」 

永遠という語で、御父はそこからご自身の存在を得ているどんな存在も持たないこと、御子は御父から存在を、そして御父と同じく永遠性を受け取ります。他方、似姿はその対象を完全に現すときはそれと等しいが、その場合も対象と似像とは別のペルソナです。似姿の中に形を指示したのは全き調和を持つ美のためです。またその形は、最高の等しさと最高の類似性があり、不調和、不等、不類似はどこにもなく、似姿はその対象と同一のものとして相応します。そこには第一の最高の生命があり、生きることと存在することとは別でなく、知解することは生きること、存在することであって、すべては一つです。この似姿は御言であって、そこにはどんな欠如もなく、全能にして知恵ある神の作品のようです。また、生きていて、不変的な理性根拠に満ちています。すべてのものはそこにおいて一つです。それ自身がそれと一つです。その一によって一なのです。こうして、神はそれによって造ったすべてのものを知っておられます。時間は過ぎ去り継続しますが、神の知識においては何ものも過ぎ去りません。造られたものは造られたゆえに神によって知られるのではなく、むしろ神によって不変的に知られていたからこそ造られたゆえに造られたもは可変的なのです。  

それゆえ、御父と似姿とのこの言い難い抱擁は、享受なく愛なく歓喜なくては存在しません。使用とは、この愛、喜び、幸いないし至福という人間の言葉でふさわしく言い表されるものです。それは三位一体における聖霊です。聖霊は生まれないが、生む者と生まれた者との甘美であり、溢れる寛容と豊かさとで被造物全体に—-その受容能力にふさわしく—-浸透しつつ、被造物が秩序を保持し、あるべき場所に休みを得るようにするのです。  

神は三位一体です。その足跡はふさわしい仕方で被造物の中に現れています。すべてのものの最高の起源、完全きわまりない美、至福に満ち満ちる喜びは、三位一体の中にあります。それゆえ、これらの三つのものは互いに限定されているように見えながら、自らにおいて無限であります。しかし物体的存在の中には、三つが同時にあるほど一つとなったものはなく、どんな場合でも二つのものは一つのものよりも大きい。けれども、至高の三位一体においては、一つのペルソナは三つのペルソナが同時にあるようにあるので、ある二つのペルソナが、一つのペルソナよりも大きいことはありません。これらはそれ自身において無限です。こうして、各自は各自において、全体は各自において、各自は全体において、さらに全体において存在し、全体が一つです。  

神は唯一であり、しかも三位一体であります。このことを部分的であれ、鏡を通して謎におていて見る人は(1コリント13・12)、神を知って喜び、神をあがめて感謝します。他方、これを見ない人は敬虔を通して見るように心を向けなさい。見えないからと言って悪に乗ってはいけません。