三位一体の教義:聖アウグスティヌスはどう説明しているか②

御父と御子が栄光、偉大、力、知恵、などのすべての本質が等しいならば、なぜ御子は「父はわたしよりも偉大」(ヨハネ14・28)と仰せになったのか

①この言葉は、御子は御父よりも小さいことを言っているのではなく、御子が御父によって存在することを言っています。

御子は、御父から生まれ、御父を見るからこそ、御父と同じことがおできになります。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」(ヨハネ5・19)とある通りです。

御子は「父がなすのと同じことを同じようになす」のです。ですから、御父の働きと御子の働きとは分離せず、等しいのです。

「しもべのかたちをとってご自身をむなしくされた」(フィリ2・6)方である御子は、ご自身の持つ神のかたちによれば御父に等しいが、ご自身がとったしもべのかたちによって御父より小さいのです(フィリ2・6,7)。そのしもべのかたちにおいて、御子は御父だけでなく聖霊よりも小さく、さらにご自身よりも小さいと言えます。なぜなら、御子はしもべのかたちを取ったために神のかたちを失っていないからです。

三位一体の業は非分離であるなら、なぜ聖書には、三位のそれぞれのペルソナが行ったと記されている箇所があるのか

三位一体が、処女マリアから生まれ、ポンシオ・ピラトの下で十字架につけられて葬られ、三日目によみがえって天にのぼったのではありません。それは御子だけです。また、同じ三位一体が洗礼を受けたイエスの上に鳩の姿をして下った(マタ3・6)のではありません。あるいは、主の昇天後、天から激しい風のような響きが起こったとき、三位一体が炎のようにさまざまな舌(言語)となって各人の上に留まった(使徒2・2-4)のではありません。それは聖霊だけです。あるいは、この三位一体が天から「あなたは私の子である」(マコ1・11)と語ったのでもありません。あるいは、キリストがヨハネから洗礼を受けたとき、また三人の弟子がキリストとともに山上にいたとき(マタ17・5)、また「私はすでに光栄を現した、さらに現すであろう」(ヨハネ2・28)という声が響いたとき、御父の声だけが御子に与えられたのです。

全能者なる三位一体は、分離することなく働きますが、被造物を通しては表されるとき、分離されて表示されます。

たとえば、私たちが、御父、御子、聖霊を呼ぶ場合、わたしたちの物体的に響く声をとおして御父・御子・聖霊と呼ぶことができるのは、その音声の各々に固有な時間間隔によって明瞭に分離され、各々の語の音節が間隔をとって場所を占めています。

御父・御子・聖霊の三者はその実体において一つであり、すべての被造物の上にあってどんな時間的運動をも持たず、ご自身が時間と場所の隔てなしに存在し、永遠から永遠にわたって同時に一つであり、同じであり、いわば真理と愛なしにはない永続性そのものとして存在します。しかし私が語る音声においては、御父と御子と聖霊は分離されていて、同時には語ることはできません。

おなじように、三位一体が被造物を通して表されるとき、御父、御子、聖霊の個々に関して表示されます。

御子・聖霊は遣わされるのに、非分離であるなら、なぜ御父はつかわされたと言わないのか。

御子が遣わされたのは、御父に等しくないからでなく「全能の神の光の純粋な溢出」(知恵7・26)であるからです。光りにおいて、溢れ出るものとその源である光とは同じ実体です。それは、光のように光から出るのです。御子はその溢れ出る源であるその方から遣わされたのです。このように神の御言葉は、御言葉の所有者である方から、またみ言葉を生んだ方から遣わされるのです。すなわち、生む方が遣わし、生まれた方が遣わされます。

しかし、生む者と生まれた者が一つであるように、遣わす者と遣わされた者とは一つであります。御父と御子は一つ(ヨハネ10・30)だからです。

聖霊も同じように、神の賜物であるとは御父から発出することであり、遣わされるということも御父から発出することです。

御子も、聖霊を発出しますが、「わたしはあなた方に聖霊を父から遣わす」(ヨハネ15・26)と言われ、御子が聖霊を遣わすのは「父から」と加えたのであって、これは、御父がすべての神的なもの、より適切には神性の原理であることをさしています。

御子と聖霊が遣わされるとは、死すべき者の目に見える物体の姿をとって御父から発出することです。しかし、御父は発出される方ではないので、御父だけは遣わしたと言われ、遣わされたとは言われないのです。