三位一体の教義:聖アウグスティヌスはどう説明しているか①

三位一体の教義  『神はただご一体でありながら、そのうちには「御父」と「御子」と「聖霊」の三つのペルソナがあります。三者は唯一の神性を分かち持つのではありません。三者がそれぞれ神です。しかし、三つの神ではありません一つの神です。三者の区分は、それぞれの起源の関係に由来します。「父が生み、子が生まれ、聖霊は発出します」。また、神の三者は、相互関係のうちにあり、それぞれに上下関係はありません。「父は子に、子は父に、聖霊は両者に対するものとして表されています。この相互関係を除けば、三位のすべてが一つです。この一体性のゆえに、父全体は子のうちにあり、また聖霊のうちにあります。子全体は父のうちにあり、また聖霊のうちにあります。聖霊全体は父のうちにあり、また子のうちにあります』。(カテジークス253~256抜粋)さて、この難しい教義を聖アウグスティヌスはどのように説明しているのでしょうか。ペルソナとは、知恵と自由意志とを備えて独立している実体、を意味します。

神はただご一体でありながら、そのうちには「御父」と「御子」と「聖霊」の三つのペルソナがあります。

御子は神である

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1・1-3)。

ここで言は神と共にあったの「神」は御父です。また言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)とあるように、言は御子イエスです。ここでは、すべてのものは御子によって造られたことを言っています。

このことは、御子は造られた被造物でないことを意味します。 神でないすべての実体は被造物であり、被造物でない実態は神です。したがって、ヨハネ1・1-3では、御子は真の神であることを証明しています。

また、御子が神であることは、1ヨハネ5・20に明瞭に書かれています。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」。

この他にも、聖書を読めは、御子は神であることがわかるところがたくさん書かれています。

「聖霊」は神である

「神の霊に仕える私たちこそ真の割礼者である」(フィリピ3・3)。神の霊は聖霊のことを言っています。聖パウロはここで、神の霊すなわち聖霊に仕えるものこそ、真のキリスト者であることを言っています。

聖パウロはローマ書1・25では、被造物に仕えるのではなく、ただ神に仕えなさいと命じています。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」。申命記でも、「あなたの主なる神をあがめ、彼のみ仕えよ」(6・13)とあり、偶像に仕えることは禁止されています。

聖霊は神であるので、使徒が仕える「神の霊」 は被造物ではありません。被造物でない実体は神です。したがって聖霊は神です。ですから、使徒パウロは「知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、‥‥自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6・19、20)とすすめます。*1コリント3・16に「あなたがたは、神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいる‥‥」と書かれています。ここから、神の霊とは聖霊のことであることがわかります。

聖霊は、単なるエネルギーや力ではありません。「 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(1エフェソ4:30)。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(ローマ8:27)。「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている』」(使徒10:19)。聖霊は、お悲しみになり、執り成し、話される、とあるからです。 

「御父」と「御子」と「聖霊」は一つである(三位一体) 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」 (マタイ28:19) 。ここで使用される「名」はギリシア語では単数形です。三つの名があるので普通は複数であるが単数であることから、「父」と「子」と「聖霊」は一つであることを表しています。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように」(ローマ11・36)。「神から」の神は御父を表し、「神によって」の神は御子を表し、「神に向かって」の神は聖霊を表しています。ここで栄光が神にありますようにの神は、ギリシア語では単数形です。ここでも、御父、御子、聖霊が一なる神であることを示しています。

三者の区分は、それぞれの起源の関係に由来します。「父が生み、子が生まれ、聖霊は発出します」。また、神の三者は、相互関係のうちにあり、それぞれに上下関係はありません。

御父と御子の相互関係。御父は御子をお生みになります。

「キリストは神の力であり知恵である」(1コリント1・24)。これは次の意味です。「キリストが神の力であり知恵であるのは、彼自身が、力であり知恵である御父からがお生みになった力であり知恵だからです。御父はその生んだ知恵によって知恵であるために、御子と共に知恵であります」。

御子は御父の本質です。御子は御父の力と知恵であり、御父の言にして似姿です。一方、御父は本質ではなく、本質の産出者であり、ご自身との関係において存在するのではなく、その生んだものとの関係において存在し、その生んだ大によって大であるということです。

しかし、御父はその生んだ知恵、力によって知恵ある者となりはじめるのではありません。

「聖霊は御父から発出する」(ヨハネ15・26)

 聖霊は独り子のように生まれたのではなく、御父から出て与えられる実体のため、御子とよばれません。また私たちのように神の恩恵によって養子として生まれ造られたのでもありません。

御子も聖霊を発出します。ヨハネ20・22で主が弟子たちの顔に息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われたとき、その息は、聖霊が御父からだけでなく御子からも発出することを、ふさわしい仕方で証示したものです。

聖霊によって御父と御子のペルソナは結合されます。聖霊は御父と御子の間の愛であり、聖霊によって、生まれた者は生む者から愛され、かつ生む者を愛します。

聖霊は御父と御子を結び、さらにこの両者の下に私たちを結びます。ゆえに聖霊は「至高の愛」とも呼ばれます。

「御父」「御子」「聖霊」は上下関係はありません。

御父の存在は御父自身ではなく御子に関係するのであり、御父はその存在を生み、その存在によってご自身なのです。御子は、御父の姿を完全に現しています。御父と御子は、最高の等しさと最高の類似性があり、御子と御父は等しいのです。

神において愛が知恵よりも小さいとすれば、知恵は自らの存在ほどには愛されることはないでしょう。愛は知恵と等しいので、知恵が自ら存在する通りに愛されることができるのです。そして知恵は、既に論じたように御父に等しい。ですから、聖霊も御父と等しい。そして等しいのであれば、その実態に属する最高の純一性のゆえに、すべてにおいて等しいのです。

「御父」「御子」「聖霊」は非分離です

「御父」「御子」「聖霊」は、一つの神であり、実体的に分離されることはありません。そして、その働きも分離することはありません。「御父」が行ったことは、同時に「御子」「聖霊」も行ったことであり、「御子」が行ったことは、同時に「御父」「聖霊」が行ったことであり、「聖霊」が行ったことは、同時に「御父」「御子」が行ったことであります。

「御父」に対して言われることは「御子」「聖霊」に対しても言われることであり、「御子」言われることは「御父」「聖霊」に言われることであり、「聖霊」に言われることは「御父」「御子」に言われることであります。