公教要理 主な部分の説明

使徒信経 

使徒信経とは、使徒たちが教えた信仰の真理の要約です 「使徒信経」は十二箇条から成り立ちます。次のように唱えます。 

  1. われは天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、 
  2. また、その御ひとり子、われらの主イエズス・キリスト、 
  3. すなわち聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれ、 
  4. ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、 
  5. 古聖所にくだりて三日目に死者のうちよりよみがえり、 
  6. 天にのぼりて全能の父なる天主の右に座し 
  7. かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう主を信じたてまつる。 
  8. われは聖霊、 
  9. 聖なる公教会、諸聖人の通功、 
  10. 罪のゆるし、 
  11. 肉身のよみがえり、 
  12. 終りなき命を信じたてまつる。

アーメン 

この使徒信経は、誤ることも、人を誤りに導くこともあり得ない神が、教会を通して私たちに与えられた啓示です。ですから、この十二箇条に含まれていることを全て確かなものと信じること、実際に目で見ることのできるものよりもっと確信をもって信じることが大事です。

「使徒信経」の内容は、神、イエズス・キリストそして教会に関してとくに信じなければならない事柄です。しばしば使徒信経を唱えるのは、信仰の真理を心に一層深く刻み付けるのに非常に役にたちます

第一箇条「われは天地の創造主、全能の父なる天主を信ず」

第一箇条「われは天地の創造主、全能の父なる天主を信ず」は、神は唯一、全能で、天地万物をお造りになったことを教えています。 私たちは、神の存在、理性の働き、すなわち推理によって知ることができるだけでなく、信仰によって確認することができます。

神が父であると言われるのは次の三つ理由からです。 

  1. 神が三位一体の第二のペルソナである御子をお生みになった。
  2. 神御自身がお造りになり、保ち、つかさどっておられる人間の父である。 
  3. 恩恵によりすべての良い信者の父である。 

それゆえ、信者は神の養子と呼ばれます。
※ペルソナとは、知恵と自由意志を備えて独立しているものです。 

「御父」は三位一体の第一のペルソナです。なぜなら、「御父」は他のペルソナから出る御方ではなく、御子と聖霊との源ですから、三位一体の第一のペルソナです。「御父」は「全能」です。「全能」とは、神がお望みになることでおできにならないことはないという意味です。

神は罪を犯すことも、死ぬこともありません。しかし、なんでもおできになるということに矛盾しません。なぜなら、罪を犯すことや死ぬことは能力の顕れではなく、その欠如であって、全く完全な神には見出し得ないものですから、罪を犯すことや死ぬことがなくても、神はどんなことでもおできになると言うのです。

神は無から天地万物を全てお造りになりました。したがって、神は天地の創造主と言います。世界は「御父」だけが創造したのではなく、三位一体の三つのペルソナによって造られました。三位一体の一つのペルソナが被造物に対して働きかけになるときは、の二つのペルソナもひとしく同じ働きをなさるのです。

しかし、天地の創造が特に「御父」に帰せられますなぜならば、神の三つのペルソナはいずれも全能、全知、全善ですが、全能は御父の、全知は御子の、そして全善は聖霊の特性とされて神の全能の顕れである創造は特に「御父」に帰せられるからです

神は無限の善性と知性によって、世界とお造りになった全てのものを保ち、かつ主宰しておられます。「神が望み、お許しにならない限り何事も起こりません」。神は、お望みになり、お命じになることもあり、また、たとえば罪を妨げずにお許しになることもあります。神は、罪を許されるのは、人間が神に与えられた自由を濫用しても、神はそこから善を引き出し、御自分の慈悲や正義をますますあらわすことがおできになるからです

天使について 

神がお造りになったものの中で最も高貴な被造物は「天使」です。天使とは知性を備えた純粋な霊です。天使が神を崇拝し、神に仕え、永遠の幸福にあずかるため、神は天使をお造りになりました。天使は人間の感覚でとらえることのできる姿・形を持っていません。天使は純粋な霊ですから、体に結ばれていなくても存在できます

天使に姿・形を与えてあらわすのは、① 私たちの想像力を補うため、② また、聖書にあるように、何度もこのような姿・形をして人間の前に姿を見せたからです。

天使がみな神に忠実であったわけではありません。それどころか、ある天使は高慢から神と同等になろうとし、神から独立しようとしました。この罪によって、これらの天使たちは永久に天国から追放され地獄に落ちてしまいました。天国から永久に追放され地獄に落ちた天使は悪魔と呼ばれ、その首領はサタンあるいはルチフェルと呼ばれます。 

悪魔は神のお許しがあれば、人の霊魂とからだに大きな害を与えることができます。特に人を罪におとし入れようと誘惑します悪魔が人を誘惑するのは、人をねたみ、人間が永久にほろびることを望み、また神御自身と人間に反映されている神の似姿を憎んでいるからです 

神が誘惑をお許しになるのは、私たちが神の恩恵に助けられ、誘惑にうち勝ち、諸徳を実践して、天国に入るのにふさわしい人間に成長するためです。人間は、警戒し、祈りと犠牲を行なうことによって、誘惑にうち勝つことができます。

神に忠実に従った天使のことを、善い天使、主の御使い、または単に天使と言います。神に忠実に従った天使は、さらに恩恵にかためられ、常に神を直接あおぎ見て、永遠に神を愛し、賛美しています。 

神は天使を御自分の使者としてお使いになりますが、特に私たちの守護の天使としてお送りになります。特に「守護の天使」に祈り、敬い、助力を乞い、その勧めに従い、保護に感謝しなければなりません。

人間について 

神が地上に置かれたものの内、最も貴い被造物は人間です。人間は、霊魂とからだとから成る、理性を備えた被造物のことです。

霊魂は、知性と意志とをもち、神を知り永遠に所有することのできる霊です。それゆえ霊魂は人の最も尊い部分です。霊魂は霊ですから、見たり、ふれたりはできません。人の霊魂は絶対になくなりません。信仰によっても理性によっても霊魂の不滅を証明することができます。 

人は、自由に行動することができます。だれでも、あることをすることも、しないでおくこともできると感じます。また、あることのかわりに別のことをすることができると思っています。例えば、人は、わざと嘘をつく時、心の内で嘘をつかずに黙っていることもできるし、真実を言うこともできと気づきます。

人間の霊魂は霊的、理性的なもので、その働きは自由で、神を知り、神を愛し、永遠の幸福をたのしむことができます。しかし、このような特長は、主の無限の偉大さの反映ですから、人間は、神の似姿、神にかたどられたものと言われます 

神はアダムとエヴァを無罪の状態、恩恵に満ちた状態に置かれましたが、まもなく人祖は罪を犯してこの状態から堕落してしまいました。主は無罪の状態と成聖の恩恵のほかにも人祖とその子孫に特別のたまもの、すなわち「完全性」、つまり感覚を理性に完全に従わせること、「不死性」、またあらゆる苦痛やみじめさからの「免除性」、そして人祖の状態にふさわしい「知性」をお与えになりました。アダムとエヴァは高慢と重大な不従順の罪を犯しました。アダムとエヴァは、神の恩恵と天国に入る権利を失い、楽園から追放され、死も苦しみも免れ得ないものになりました。

アダムとエヴァが罪を犯さなかったならば、この世で幸福に暮したのち、死ぬこともなく神の手によって永遠の生命に入ることができたでしょう。このような賜物は本来人間に備わったものではなく、神が全く無償でお与えになった超自然的なものです。したがって、アダムが神の掟に背いたとき、神がアダムとその子孫からこれらの賜物を取り去られても不正なことではありませんでした。

この罪はアダムだけのものではなく、私たちの罪ともなりました。アダムは人阻として罪を犯したので彼自身が自発的に犯した罪であってもすべての子孫に繁殖によって伝わりました。したがってすべての人は原罪をもって生まれます。 

神はアダムが従順であることを条件として、アダムを通して人類に成聖の恩恵と他の超自然のたまものをお与えになりました。しかし全人類の頭であり父であるアダムが神に背いた結果、人間の本性が神に反抗するようになりました。それで神の恩恵とその他のたまものが剥奪され、神に反抗する態度をとったままの人間の本性がアダムの子孫みなに伝えられるのです。

原罪によって、人は恩恵を失い、知恵が暗み、心は悪に傾くようになり、この世のさまざまな災いに苦しみ、死を持つことになりました。聖母マリア以外、人はみな原罪をもっています。救い主の功徳を予見なさった神の特別の御計らいによって、聖母マリアは原罪を免れました。

アダムの罪の後、神が慈悲をお恵みにならない限り、人は救いを得ることはできませんでした。神が人類にお恵みになった御慈悲とは、アダムに救い主の到来を約束されたこと、そして時が満ちると、悪魔と罪の奴隷となった人間を救うために救い主をおつかわしになったことです。約束の救い主とは使徒信経の第二箇条にある通り、イエズス・キリストのことです。

第二箇条「その御ひとり子、われらの主イエズス・キリストを信ず」

第二箇条「その御ひとり子、われらの主イエズス・キリストを信ず」では、神の御子は三位一体の第二のペルソナで、御父と同じく全能永遠の創造主であること、そしてこの神の御子をイエズス・キリストと呼ぶことを教えています。

第二のペルソナが「御子」と呼ばれるわけは、永遠から、御父の知恵としてお生まれになったからです。そのため、御子は、御父の「みことば」とも呼ばれます。キリストだけが、本性から神の子であり、私たちは神に造られ、神の養子になったにすぎません。イエズス・キリストは神の御ひとり子と呼ばれます。イエズス・キリストを「われらの主」と呼ぶのは、かれが、神として、御父と聖霊と共に私たちを創造されたのみならず、神人として、人間を罪から救ってくださったからです。

イエズスとは、「救い主」という意味です。だから、罪の罰である永遠の死から私たちを救ってくださった神の御子はイエズスと呼ばれます。御父につかわされた大天使ガブリエルが処女マリアに御託身の奥義を告げたとき、神御自身が、イエズスという名をお与えになりました。

キリストとは「聖油を注がれた者」という意味で、古代には王、司祭、預言者は聖油をそそがれるならわしでした。イエズス・キリストは、王の王、最高の司祭であり、預言者ですから、人となられた神の御子はキリストとも呼ばれます。古代の王・司祭・預言者とちがって、イエズス・キリストは実際に聖油を注がれ聖別されたのではありません。イエズス・キリストの中には、初めから、完全な神性が宿っていましたから、全く霊的、神的な性格をもつ注油だったのです。 

神が、アダムとエヴァに救い主の来臨を約束され、太祖にもその約束を繰り返されたこと、さらに救い主の来臨を示す預言や前表によって、人類はイエズス・キリストの来臨に関する知識を持っていました。 

イエズス・キリストが、本当の救い主であり、約束のあがない主であることは、
救い主についての預言と、旧約聖書にあらわれる救い主の前表が、イエズス・キリストにおいてすべて成就したことからわかります。 

「救い主」についての預言は、救い主がお生まれになる民族、家系、場所と時間、おこなわれる奇跡の数々、御受難と御死去の詳しい経過、御復活と御昇天、さらに、霊的、普遍的かつ永遠の王国である聖なるカトリック教会についてなどがあります。旧約聖書に出てくる救い主の前表の主なものは、罪なきアベル、大司祭メルキセデク、イザァクの犠牲、兄弟に裏切られたヨゼフ、預言者ヨナ、退避祭の小羊、モイゼが荒野に建てた青銅の蛇などです。 

イエズス・キリストが本当の神であることは、次の四つからわかります。 

  1. 「これは、私が喜びとする愛子である。これに聞け」とおおせられた御父の証言 
  2. 驚くべき奇跡の数々によって確認されたイエズス・キリスト御自身による証言 
  3. 使徒たちの伝えた教え 
  4. カトリック教会に絶えることなく継承されている聖伝 

イエズス・キリストが行われた主な奇跡は、御自分の復活の他に、病気をいやし、盲人やつんぼをなおし、死人をよみがえらせることなどがありました。 

第三箇条「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」

第三箇条「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」は、神の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。 

イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、神の三つのペルソナが一緒に参与されました。神の御子の御託身は、善性と愛の働きの結果ですが、これは聖霊に帰せられますから、「聖霊によりて」と言います 

神の御子は人となられた結果、神であることをおやめになることなく、神の御子は人となられても、神であることに変わりはありませんでした。人となられた神の御子、イエズス・キリストは神であると同時に人です。すなわち、真の神、真の人なのです。神であると同時に人であるイエズス・キリストは、人性と神性の両方を持っておられます。 

しかし、イエズス・キリストには神としてのペルソナと人間としてのペルソナとがあるのではなく、人となられた御子には、たった一つのペルソナ、すなわち神としてのペルソナしかありません。 

イエズス・キリストには、神の意志と人間の意志との二つがあります。またイエズス・キリストには自由意志がありました。しかし、悪をおこなうことは出来ませんでした。それは、悪をおこなうことは完全な自由ではなく、自由の欠陥を意味するからです。 

神の御子と聖母マリアの御子は同じひとつのペルソナです。つまり、真の神であり、真の人であるイエズス・キリストです。童貞マリアは、真の神であるイエズス・キリストの御母ですから、神の御母です。聖マリアは聖霊の働きと恵みとによってイエズス・キリストの御母となられました。

聖マリアは終生処女です。聖母は、童貞のなかの童貞と呼ばれています。 

第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られた」

第四箇条「ボンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ死して葬られ」では、イエズス・キリストがその尊い御血で世の罪をあがなうため、ポンシオ・ピラトの管下で苦しみを受け、十字架につけられ、死去され、葬られたことを教えています。 

「苦しみ」とは、イエズス・キリストが御受難において体験されたもろもろの苦痛を意味します。 イエズス・キリストは人として死去されました。神としては、苦しむことも死ぬこともないからです。しかし、十字架の責めは、あらゆる責苦の中で最も残酷で屈辱にみちたものでした。 

イエズス・キリストを十字架の刑に処すよう命じたのは、ユダヤ地方の総督ポンシオ・ピラトでした。ピラトは、救い主イエズス・キリストの無罪を認めながら、卑怯にも、エルサレムの人々の脅しに折れたのです。 

イエズス・キリストはユダヤ人やピラトの手から逃れようと思えばできました。しかし、御父の御旨に従い私たちを救うために、すすんで敵の前に姿を現わし、捕らえられ、苦しみ、死ぬ運命に御自分をゆだねられたのでした。 

イエズス・キリストは、カルワリオの丘で、十字架につけられました。イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与え、ヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、神に対する人間の罪のあがないを成就されました。 

私たちの罪を贖うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではありませんでした。それは、人間が罪によって神に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に神でなければなりませんでした。 人間が罪によって侮辱を与えた神は無限に偉大な御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。 

イエズスは、あれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。しかし、イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、神の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、人間には、神の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。 

イエズスが死去されると、太陽は暗み、地はふるえ、墓が開き、多くの死者がよみがえりました。イエズスの御遺体は、十字架にかけられた所の近くにあった、丘の岩に堀った新しい墓に葬られました。 

イエズス・キリストが死去された時、その神性は肉体からも霊魂からも離れず、霊魂だけが肉体から離れました。 

イエズス・キリストは全ての人間のために死去され、すべての人間の罪をあがなわれました。 

イエズス・キリストは全人類のために死去されましたが、イエズス・キリストを認めない者、掟を守らない者、また、私たちのために残してくださった聖性に達する手段を利用しない者は、救われない可能性があります。 

人が救われるためにイエズス・キリストの御死去だけでは充分でなく、私たち一人一人が主の御受難と御死去のもたらす恵みを正しく受け入れねばなりません。この恵みは特に秘跡を通して与えられます。しかし多くの人は秘跡を受けず、受けても正しい受け方をしないので、主の御死去もその人たちには無意味なものとなるのです。 

第五箇条「古聖所に下りて三日目によみがえり」

第五箇条「古聖所に下りて三日目によみがえり」では、イエズス・キリストの霊魂が御体を離れ、古聖所に下ったあと、三日目に再び御体に戻り、それ以後離れることがなかったことを教えています。古聖所とは旧約時代の義人の霊魂がイエズス・キリストの来臨と罪のあがないを待ちつつ止まったところです。 

旧約の義人の霊魂がイエズス・キリストの御死去の前に天国に入れなかったのは、アダムの犯した罪のため、天国の門が閉ざされており、まず最初にイエズス・キリストがこの閉ぎされた扉を開く必要があったからです。事実、イエズス・キリストの御死去によって、天国の門はふたたび開かれました。 

イエズス・キリストが御復活を三日目まで延ばされたのは、本当に死去されたことをはっきり示すためでした。イエズス・キリストの御復活は、他の人間の復活とは異なります。イエズスは御自分の力でよみがえられたのに対し、他の人間は神の力によってよみがえったからです。 

第六箇条「天に上りて全能の父なる天主の右に座し」

第六箇条「天に上りて全能の父なる天主の右に座し」では、イエズス・キリストが御復活後四十日目に弟子たちの目の前で天にのぼられたこと、そして、神としては全能の父なる神と同じ威光を持ち、人としては全ての天使と聖人の上に位され万物の主となられたことを教えています。 

イエズス・キリストが、御復活後、御昇天まで四十日間も地上にお残りになったのは、何度も姿を現わし、本当に復活されたことを示し、使徒たちに、さらに教えを与え、ゆるぎない信仰を持たせるためでした。 

イエズス・キリストが天に昇られたのは、次の三つのためです。

  1.  御死去によって御自分のものとなった王国を治めるため
  2. 私たちのために、栄光の座を用意し、御父である神のもとで私たちの代願者、弁護者となり、
  3. 使徒たちに聖霊をお遣わしになるためでした。 

イエズス・キリストは昇天されたと言い、聖マリアは被昇天されたと言います。なぜなら、神であり人であるイエズス・キリストは、御自分の力によって天にのぼられたのに対し、御母マリアは、最も尊い御方とは言え被造物にすぎず神の御力によって天に上げられたからです。 

「座す」とは、イエズス・キリストが永遠の光栄を有しておられることを示し、「全能の父なる天主の右に座すとは、すべての被造物の上に立つ輝かしい位置を占めておられることを意味します。

第七箇条「かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう」

第七箇条「かしこより生ける人と死せる人とをさばかんために来たりたもう」では、世の終りに偉大な権能と栄光をもってイエズス・キリストが天より下り、すべての人間の善悪を裁き、それぞれに報いをお与えになることを教えています。 

人はみな、死後すぐに、私審判においてイエズス・キリストの裁きを受け、もう一度公審判で裁きを受けます人がみな公審判において裁かれるのは、次の四つの理由からです。 

  1. 神の光栄のため 
  2. イエズス・キリストの光栄のため 
  3. 悪人たちのこらしめのため 
  4. 肉親も霊魂と同じように栄光を受けるため 

この世では、しばしば善人が苦しみ、悪人が栄えているのを目にしますが、公審判のときには、神がどれほどの正義をもってこの世を統治しておられるかがみんなにわかります。公審判ではこのようにして神の栄光が現われます。 

人間による不正な裁きをお受けになったイエズス・キリストは、公審判において全ての人の前に、最高の裁判官として姿を見せることにより、御自分の栄光をお現わしになります 

悪人にさげすまれ死んでいった多くの聖人は、公審判で全ての人の前で称賛を受け、その栄光を現わします。 

公審判で悪人の受ける恥辱は非常なもので、特に、正しい人々を圧迫した者やこの世で善人、人格者として敬われるように体裁をつくろってきた人たちは、すべての人の前で、過去に犯した罪や隠れた罪までもあらわにされます。 

第八箇条「聖霊を信じます」

第八箇条「聖霊を信じます」では父と子のペルソナと同じく、永遠、無限、全能の神であり、万物の創造者かつ私たちの主である、三位一体の第三のペルソナ聖霊が存在することを教えています。 

聖霊は、御父と御子を一つの源として、そこから意志と愛とによって出る御方です。三つのペルソナがみな永遠から存在すると言うのは、御父は御子を永遠からお生みになり、聖霊は御父と御子から同じく永遠の昔から出ているからです。 

三位一体の第三のペルソナが特に聖霊と呼ばれるのは、御父と御子の息吹(霊発)と愛によって出る御方だからです。 

聖霊には特に人を聖化する働きが帰せられています。いうまでもなく、三つのペルソナ同じように人を聖化します。人を聖化する働きが特に聖霊に帰せられるのは、聖化は愛の働きであり、愛の働きはすべて聖霊に帰せられているからです。 

聖霊は、ペンテコステの日、すなわちイエズス・キリストの御復活の五十日後、御昇天の十日後に、使徒たちに下られました。この日を聖霊降臨の日と呼びます。聖霊降臨前の十日間、使徒たちは、聖母マリアや他の弟子たちと一緒に、最後の晩さんの高間に集って、イエズス・キリストが約束された聖霊を待ち望み、心を合わせて祈っていました。 

聖霊は、使徒たちの信仰をさらに確固たるものにし光と剛毅と愛と豊かな恵みで彼らを満たされました。聖霊が送られたのは使徒たちだけではなく、全教会と神の教えを信ずる全ての人々のために送られました。 

聖霊は、からだの中の霊魂のように、恩恵とたまものによって、教会に生命を与え、真実と愛の王国を教会の中につくりあげ、信者がまちがいなく天国への道に導かれるようお助けになります。 

第九箇条「聖なる公教会と諸聖人の通功」

第九箇条「聖なる公教会と諸聖人の通功」では、イエズス・キリストが教会と呼ばれるひとつの可視的な共同体を地上におたてになったこと、またこの教会に属する者はすべて互いに一つに結びついていることを教えています。 

聖霊に続いて、すぐあとに教会について述べるのは教会の聖性は聖霊に由来するものであり、聖霊はすべての聖性の源であることを示すためです。 

教会ということばは、召集された人々の集団、あるいは集いという意味です。 神が特別の恩恵により私たちを教会に招いてくださいました。それは、私たちが信仰の光を受け、神の掟を守ることによって、しかるべき礼拝を神にささげ、永遠の生命を得ることができるためなのです。 

広い意味で教会に属する人々は一部の人々は天国に居て、「勝利の教会」を、他の一部は煉獄に居て、「潔めの教会」を、そしてこの地上に居る人々は「戦いの教会」を形づくっています。 

この色々な部分は、唯一の教会、同じ体を形成していますが、それは共に、イエズス・キリストを頭にいただき、同じ霊に生かされ、永遠の幸福を求めるという同じ目的において結ばれているからです。なお、ある者はすでに天国の幸福を得、またあるものは、それを待ち望んでいます。 

使徒信経の第九箇条は、おもに現在私たちが属している教会、つまり「戦う教会」について教えています。カトリック教会とは、この世に生活し、同じキリストの信仰と掟を受け入れ、同じ秘跡にあずかり、正しい牧者、とくに教皇に従う、洗礼を受けた人々の団体のことです。 

教会の構成員となるには、まず洗礼を受け、イエズス・キリストの教えを信じ宣言し、同じ秘跡にあずかり、教皇と他の正しい牧者の権威を認めることが必要です。 

教会の正しい牧者とは、全教会の牧者であるローマ法王すなわち教皇と司教のことです。さらに、司祭とくに主任司祭は、司教や教皇に従いつつ、司牧にたずさわります。 

教皇が全教会の牧者である理由は、イエズス・キリストが最初の教皇、聖ペトロにこうおおせになったからです。「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。私は天国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな天でもとかれるだろう。」そしてさらに、「私の小羊を牧せよ、私の羊を牧せよ」ともおおせになりました。 

洗礼を受けていても教皇を頭と認めない人々の集団がたくさんありますが、教皇を頭と認めない者はだれもイエズス・キリストの教会には属していません。 

イエズス・キリストの教会と人間が創設したのにキリストの教会であると自称する団体や宗派とは次の四つの特徴によって簡単に区別できます。つまり、イエズス・キリストの教会だけが、一・聖・公(カトリック)・使徒継承という四つの特徴を備えています 

真の教会が「一」であるのは、同一の可視的な頭、教皇のもとに、同一の信仰と礼拝と掟において結ばれ、同じ秘跡にあずかるからです。ほかに教会はあり得ません。なぜなら、神は一つ、信仰は一つであるように、唯一の真の教会のほかに教会は存在せず、存在することもできないからです。国や教区単位の信者の集まりも教会と呼びます。しかし、それは全世界的な普遍の教会の部分をなすもので、この部分が集まって唯一の教会を形成しています 

真の教会が「聖」なのは、その目に見えない頭であるイエズス・キリストをはじめ、大勢の教会の構成員も信仰も掟も秘跡も聖であって、この教会の外にまことの聖性は存在せず、存在することもできないからです。 

真の教会が「公(カトリック)」、すなわち、普遍であるというのは、時代、場所、年令、生活環境にかかわりなくすべての信者をふくみ、世界のすべての人間がこの教会に属するよう招きを受けているからです。 

真の教会が「使徒継承」なのは、今の教会が歴史的に何ら中断されることなく、使徒たちの時代まで遡ることができるからです。教会は使徒たちが信じ、教えた事柄をすべて信じ、教えています。さらに、使徒たちの真の後継者である牧者に導かれ、治められています。 

真の教会が「ローマ教会」とも呼ばれるのは、一・聖・公・使徒継承という四つの特徴が聖ペトロの後継者であるローマ司教を頭と仰ぐ教会にのみ見出されるからです。 

イエズス・キリストの教会は、一つの真に完全な社会として構成されており、この共同体の中心には、人間に見られるように、霊魂とからだをみとめることができます。教会の霊魂は、信仰、希望、愛、恩恵と聖霊の賜物さらに、罪のあがない主キリストと聖人たちの功徳からくる天上の宝などの内的、霊的を要素から成っています。教会のからだは、信者の集まりや礼拝と教職、さらに秩序と統治に関する可視的、外的要素から成っています。 

救いを得るには、カトリック教会に属するだけでは充分ではなく、生きた肢体でなければなりません。生きた肢体とはすべての義人、すをわち、実際に神の恩恵を持っている人たちのことです。教会の死んだ肢体とは、大罪を犯したままの状態にいる人たちのことを言います。 

教会の前表であったノアの箱船の外では、だれも大洪水を免れなかったのと同じように、使徒継承のローマ教会外において救いを得ることはできません。旧約の太祖や予言者その他の義人が救われたのは、彼らが来たるべきキリストを信じ、すでに霊的に教会に属していたからです。 

過失なく、つまり悪意なしに教会に属さない人も、洗礼を受けているか、あるいは少なくとも受ける望みを持つ人で、まじめに真理を求め、できるだけ神の御旨を果す努力をするなら、教会のからだからは離れていても、教会の霊魂には結ばれていると言えますから、救いの道を歩んでいることになります。 

カトリック教会に属しながら、その教えを実践しない人は、死んだ肢体ですから救われません。成人が救われるためには、洗礼と信仰だけでは充分ではなく、信仰に合ったおこないが必要なのです。 

教会が教える真理を全て信じなければなりません。イエズス・キリストは、信じないものはすべて亡ぼされると宣言なさいました。 

教会の命じることを全て果さなければなりません。キリストは教会の牧者たちに次のようにおおせになったからです。「あなたたちの言うことを聞く人は私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむ人である。そして、私をこばむ人は、私をお送りになった御方をこばむのである。」 

教会が信ずべきことを提示するとき、誤ることはありません。なぜならイエズス・キリストの御約束によって、教会は絶えず聖霊のお導きを受けているからです。 

カトリック教会は不可謬です。従って、教会の決定する教義を拒否する人は信仰をうしない、異端者となるのです。 

カトリック教会は迫害を受けることはありますが、決して崩壊したり、破滅してしまうことはありません。約束されたように、キリストは世の終りまで教会と共においでになりますから、教会は世の終りまで存続します。 

カトリック教会が激しい迫害を受けるのは、神である創立者が迫害をお受けになったから、また、教会が悪徳、悪習を非難し、情欲をうち砕き、不正義と誤りを排斥するからです。 

信者はみな、教会に対する限りない愛を表明し、教会に属する自分が大きな恵みをいただいた幸福なものであることを自覚し、できる限りの手段を尽して、教会の栄光と発展に貢献しなければなりません。 

教会の信者の間には注目すべき区別があります。命令するものと従うもの、教える者と教えを受ける者の区別がそれです。 

教会の、教えにたずさわる部分を教導教会(教える教会)と呼びます。教会の、教えを受ける部分を聴従教会(聴く教会)と呼びます。教会内のこの区別を定められたのはイエズス・キリスト御自身です。 

教導教会と聴従教会とは、唯一の教会の二つの異った部分を構成しているにすぎません。ちょうど、人間の体において、頭は他の部分と異なりますが、すべてが一つにまとまって唯一の体を構成しているのと同じです。 

教導教会を構成しているのは、教皇を頭とする全司教団です。司教は全世界に散在していますが、公会議では一同に会します。聴従教会を形成しているのは、すべての信者です。教会内で教える権能を有するのは、教皇と司教およびこれらの人々から委託を受けた他の聖職者たちです。 

教導教会の指導には従わなければなりません。イエズス・キリストが使徒たちを通して、教会の牧者に「あなたがたの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は私をこばむのである」とおおせになりましたから、教導教会の指導に従わない人は永遠の罰を受けることになります。 

教会は教導権のほかにも特に、聖なることがらを司どる権能、掟を定め、その掟の遵守を要求する権能をもっています。教会の権能は、信者全体から与えられたものではありません。これは異端的な考えです。教会の権能は神からのみ与えられたものなのです。 

この権能を行使できるのは、教会の位階聖職者、すなわち、教皇と教皇に従う司教に限られています。教皇は、ローマ司教の座を占める、聖ペトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者、可視的教会の頭のことです。 

教皇が聖ペトロの後継者であるのは、聖ペトロが彼自身の内にローマ司教の位と教会の頭としての位をあわせ持っていたからです。聖ペトロは神の御旨に従って教皇座をローマに定め、そこで没しました。それゆえ、ローマ司教に選ばれたものが、同時に教会の全権能の後継者となるのです。 

教皇がイエズス・キリストの代理者であるのは、この世においてイエズス・キリストの代りに教会を統治するからです。教皇が可視的教会の頭であるのは、不可視的な教会の頭であるイエズス・キリストと同じ権能をもって、可視的教会を治めるからです。 

教皇の位とは、この世のあらゆる権能のうち最高のもので、全ての牧者、信者の上にたち、最高かつ直接的権能を行使できる位のことです。信仰と道徳に関する決定を下すとき、教皇は不可謬です。教皇が不可謬なのは、イエズス・キリストの御約束と聖霊の絶えまのない援助によります。 

教皇は全教会が受け入れるべき信仰と道徳に関して、全力トリック信者の牧者、教師としての資格と最高かつ教皇の権威をもって、教義を決定するとき、誤りを犯すことはできません。

教皇の決定した教義を信じない者も、疑いを持つ者も、信仰に反する罪を犯します。また頑固に不信仰の状態にとどまれば、カトリック信者ではなく異端者になります。 

神が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、教会が教える真理を私たちが確信して受け入れるためです。 

教会は第一バチカン公会議において教皇は不可謬であると決定しました。もしこの決定に反論する者があれば、異端者となり、破門されます。 

教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのではありません。すでに聖書や教会の聖伝の中に含まれていた、教皇の不可謬性についての教えは神によって啓示された真理であるので、ドグマすなわち信仰箇条として信じなければならないということを、色々な誤った新説に対処するために、決定したにすぎないのです。 

信者はみな、教皇を父、牧者、普遍の師として仰ぎ教皇に心から一致しなければなりません。神のお定めにより、教会内で教皇の次に尊敬されなければならないのは、神のお定めにより、司教です。司教とは、教皇に従属しつつ、委託された司教区にある教会を統治するように聖霊によって定められた牧者のことです。司教は自分の教区の聖職者、信徒、すなわち全信者の正当な牧者、父、師そして頭です。 

司教が正当な牧者と呼ばれるのは、自分の教区の信者を治める権能が教会の法と定めに従って司教に与えられているからです。教皇は使徒の頭である聖ペトロの後継者であり、司教団は教会の普通の統治に関して使徒たちの後継者です。

聖職者であれ、信徒であれ、信者はみな教皇と一致している司教に一致しなければなりません。聖職者、信徒を問わず、信者はみな司教を敬い、愛し、尊ばなければなりません。また、司牧と教区の霊的指導に関係のある事柄において、司教に従わなければなりません。 

司教を助けるのは、司祭、とくに主任司祭です。主任司祭とは、司教のもとにあって、小教区と呼ばれる教区の一部を治め指導するよう任命された司祭です。 

信者は主任司祭と一体となり、かれの言うことを素直に受け入れ、小教区の統治に関する事柄については、尊敬と恭順の態度を示さなければなりません。 

使徒信経の第九箇条の「諸聖人の通功」は、教会の中では、全ての信者を緊密に結ぶ絆によって、教会に属する内的、外的な霊的善が信者すべての共有物であることを教えています。 

教会の内的な共有善とは、秘跡を通して受ける恩恵、信仰・希望・愛、イエズス・キリストの無限の功徳、聖母マリアと諸聖人のゆたかな功徳、教会で実践されるすべての善きおこないの実りなどのことです。 教会の外的共有善とは、秘跡、ミサ聖祭、公けの祈祷、さらに信者同志の一致を計るその他諸々の外的な宗教行事のことです。 

内的共有善を享受できるのは、神の恩恵を持った信者であって、大罪を犯した状態にいる人は信者と言っても、共有善を享受することはできません。 

信者を結びつけ、信者同志の一致を可能にするのは神の恩恵です。ところが大罪を犯した者は神の恩恵を持っていませんから、霊的共有善を享受することはできないのです。大罪を犯した状態にある信者は、教会の内的、霊的善を剥奪されていますが、全く、善の恵みを受けないのではありません。キリスト信者として、消えることのない印章を持っていますから、他の信者の善業や祈りに助けられて再び改心の恵みを得ることができます。破門され教会から離れていない限り、大罪の状態にある者でも教会の外的共有善にあずかることはできます。 

この通功(交わり)をもつ人を総称して諸聖人と呼ぶのは、すべての信者が聖性に至るよう招きを受けており、洗礼の秘跡によって聖化されていること、その上なかにはすでに完全な聖性に達した人もいるからです。 

諸聖人の通功は、天国と煉獄にも広がっています。凱旋の教会、潔めの教会、戦う教会の三つは、愛によって一致しているからです。また聖人たちは私たちと煉獄の霊魂のために神に祈り、私たちは聖人を敬い、栄光をささげ、さらに、ミサ聖祭、献金、免償その他の善業を代願として煉獄の霊魂にささげます。 

諸聖人の通功にあずかれないのは、死後の世界では永罰を受けている人々、この世では真の教会に属さない人々です。真の教会に属さないのは、未信者、ユダヤ教徒、異端者、棄教者、離散者、それに破門された人々です。 

未信者とは、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人のことで、これには偶像崇拝者のように虚偽の神を信じ崇拝する者と唯一の神の存在を認めながらも救い主がこの世においでになったことや、来たるべき御者であることさえも信じない者とがあり、これには回教徒などがあります。 

ユダヤ教徒とは、モイゼの法を信じても、洗礼を受けず、イエズス・キリストを信じない人たちのことです。 

異端者とは、洗礼を受けていながら、神によって啓示され、カトリック教会が信ずべきこととして教える真理を頑固に拒絶する人々のことで、アリウス派、ネストリウス派、プロテスタントの宗派などがあります。 

棄教者とは、信仰を棄て去った者、つまり、それまで持っていたカトリックの信仰を外的なおこないによって否定する人々のことです。 

離教者とは、どの教義をはっきりと否定するということはなくても、イエズス・キリストの教会、つまり、正しい牧者から自発的に離れてしまうキリスト教徒です。 

破門された者とは、非常に重大な罪を犯したため、教皇または司教によって破門の罰を科せられ、教会にその名に価しない者として追放された人のことですが、教会はこの処置により、この人たちの改心を期待しているのです。 

破門は、非常に恐ろしいことです。なぜなら、この罰は教会が、反抗したり、強情な態度をとる者に、科する罰のうち最も重く、恐ろしいものだからです。破門された者は、公的な祈り、秘跡、免償のめぐみを剥奪され、有罪判決または宣言判決があれば、教会の埋葬を受けることもできません。 

破門された者や教会に属さない全ての人々に、正しく忠告したり、祈ったり、善業を通じて、また、主に対しては、神の御慈悲によってかれらが信仰をとりもどし、諸聖人の通功にあずかることのできる恩恵をお与えになるように願うなどして、助けの手をさしのべることができます。 

第十箇条 「罪のゆるし」

使徒信経の第十箇条では、イエズス・キリストが教会に罪をゆるす権能をお与えになったことを教えます。 

教会は、どんなに多くても、重大であっても、すべての罪をゆるすことができます。それは、イエズス・キリストが、つなぐ力と解く力を教会にお与えになったからです。 

教会内で、罪をゆるす権能を行使するのは、まず第一に、この全権能を持つ教皇、ついで、司教と司教のもとにある司祭です。 

教会はイエズス・キリストの功徳にもとづいて罪をゆるしますが、この目的のために制定された秘跡、特に洗礼と告解を通して罪のゆるしを与えます。 

第十一箇条「肉身のよみがえり」

第十一箇条「肉身のよみがえり」では、すべての人間が復活すること、すなわち、霊魂が生前有していたからだにふたたび合わされることを教えています。 

「肉身のよみがえり」(死者の復活)は、何でもおできになる全能の神の御力によって実現されます。 

死者の復活は、世の終りに起こり、続いて公審判が行なわれます。 

神が肉体の復活をお定めになったのは、霊魂が肉体と共に善業、悪業をしたかぎり、肉体と共に、報いや罰を受けるべきだからです。 

選ばれた人々の体と罰せられた人々の体には大きなちがいがあるでしょう。選ばれた人々の体だけが、復活されたイエズス・キリストと同じように、光栄に輝く体の特徴を得ることができるのです。 

選ばれた人々の体を飾る特徴には次のようなものがあります。 

  1. 受苦不能性 〜 この恵みによって、どんな悪や苦しみの束縛も受けず、食べたり休息したりする必要などからも解放されます。 
  2. 輝き 〜 この恵みによって、太陽や星のように輝くことができます。 
  3. 敏捷性 〜 一瞬のうちに疲れることもなく場所を変え、地上から天国へ移ることもできます。 
  4. 精敏 〜 復活されたイエズス・キリストのように、物体を障害とせず貫通することができます。 

罰せられた人々の体は、栄光に輝く体の特徴を得ることができず、永遠の罰の恐ろしい印を身につけなければなりません。 

第十二箇条「おわりなき命」

最後の箇条「おわりなき命」ではこの世の命を終えたのちにも、来世があり、選ばれた人たちは永遠のしあわせを楽しみ、罰せられて地獄におちた人々には永遠の苦しみが続くことを教えます。 

栄光にみちた、天国の幸福がどんなものかを、いま理解することはできません。天国の幸福は、私たちの限られた理解力のはるかに及ばないことである上、天国の善とこの世の善を比較することはできないからです。 選ばれた人々の幸福とは、すべての善の源である神を永遠にあおぎ見、愛し、所有することです。 

罰せられた人々の不幸とは、永遠に神を見ることができず、地獄で永遠の苦しみを受けることです。 

今のところ天国や地獄にいるのは霊魂だけですから天国の恵みや地獄の災いを受けるのは霊魂だけです。しかし、体の復活のあとでは、永遠の幸福も、永遠の苦しみも霊魂と体が共に受けることになります。 

天国の幸福は選ばれた人々みなに、地敬の苦しみは罰せられた人々みなにとってそれぞれその本質と永遠性においては同じですが、一人一人の徳、不徳に応じて、いずれにも程度と段階の差があります。 

「アーメン」

「アーメン」ということばは、「そうでありますように」という意味です。従って、使徒信経の終りにある「アーメン」は、「上に述べた通りです」という意味を表わし、言いかえれば次のようになります。「この十二箇条に述べられていることはすべて真実であることを信じ、実際に目で見ているより確かをものとして信じます。」