十字架について

 

聖ヴィアンネ 苦しみについての要理より

望むと望まぬとにかかわらず、苦しまねばなりません。善い盗賊のように苦しむ人もあり、悪い盗賊のように苦しむ人もあります。二人ともに苦しむのは同じです。しかし、一方は、自分の苦しみを功徳あるものにすることを知っていました。彼は償いの気持ちでこの苦しみを甘受したのです。そして、十字架につけられ給うイエス様の方に頭を廻して、主の口からあの美しい言葉を聞いたのです。「汝、今日我と共に楽園にあらん」。これに反して、悪い盗賊は、怒号を発し、呪いをあげ、冒涜の言葉を吐きながら、見るも恐ろしい失望の中に息を引き取りました。

苦しみ方には二通りあります。苦しみを愛をもって苦しむのと、愛を持たずに苦しむのとです。聖人方はすべての苦しみを、忍耐と喜びと堅忍とを持って受けていたのです。愛していたからです。私共は怒り、口惜しがり、いやいやながら苦しみます。愛さないからです。神さまを愛するならば、苦しみの十字架を愛し、望み、この十字架の中に喜びを見出すでありましょう。

‥‥私共のために苦しむことを激しく望まれた御者への愛のために、苦しむことができることを幸福に思うでしょう。何を嘆くのですか。かわいそうに神さまを知らず、その限りなく愛すべきことも知らない哀れな未信者たちさえも、私共と同じ苦しみの十字架を背負っているのです。しかし、彼らは私共の慰めを持っていません。

十字架は辛いというのですか。いいえ、十字架は快く、慰め多く、甘美なものです。そこに幸福があるのですから‥‥ただ、苦しみつつ愛し、愛しつつ苦しまねばなりません。十字架の道行きで、辛いのは第一留だけです。私共の最大の十字架は、十字架に対する恐怖です。十字架を背負うだけの勇気がありません。大変間違いです。どんなにしても、十字架はしっかりと私共を捉えて、逃れることはできないのです。

じゃ、失うべきものは何ですか。なぜ、十字架を愛さず、十字架を天国に行くために利用しないのですか‥‥しかし、反対に、大部分の人は十字架に背を向けて逃れます。しかし、逃れようとして、走れば走るほど、十字架は後を追ってきて、彼らを打ち、重荷をもって押しつぶすのです‥‥

賢明でありたいならば、聖アンドレアのように、十字架に進んでいきなさい。聖アンドレアは空にくっきりと彼に向かって立っている十字架を見て、こう言っていました。「おお、良き十字架‥‥賛嘆すべき十字架‥‥望ましい十字架よ‥‥我を汝の腕に受けよ。われを人々の中より引き出し、汝をもって我を贖いし主にわれを連れ戻せ」と。

皆さん、よく聞きなさい。十字架に向かって行く者は、十字架と相対して歩いています。多分、さまざまの十字架を愛し、勇気をもって背負うのです。そして、これらの十字架によってわが主と一致するのです。十字架によって清められ、この世より離脱するのです。心から一切の障害をなくしてもらうのです。水に渡るのに助けとなる橋のように、十字架によって、この世の生活を渡っていくのを助けてもらうのです。

聖人方をごらんなさい。人々が彼らを迫害しない時は、自ら自分を迫害していました‥‥一人の善良な修道士が、あるとき、人々が自分を責めるのを嘆いて申しました。「主よ、わたしが何をしたからといって、人々はこういう仕打ちをするのでしょうか」と。わが主は答えられました。「しかし、私が、何をしたからといって、人々はカルワリオに連れていったのでしょうか‥‥」。その時、修道士はすぐに悟って、涙を流し、許しを願って、以後敢えて嘆こうとはしませんでした。

十字架に出会うと世間の人々は悲嘆にくれます。善良な信者は十字架に出会わないのを嘆くのです。魚が水の中に生きているように、信者は十字架のまっただなかで生きるのです。ごらんなさい。聖女カタリナは二つの冠を持っています。一つは純潔の冠であり、一つは殉教の冠です。この愛すべき聖女は、罪の同意するよりも、どんなに大きな満足を感じていることでしょう。

一人の修道士は体に井戸綱をつけていたほど、苦しみを愛していました。この綱は皮を剥ぎ、少しずつ肉に喰入って、そのために蛆がわいていました。修道士たちは彼を修道院から追い出すように願いました。彼は満足そうに、喜んで岩の洞穴の奥の方へ行って隠遁しました。しかし、その晩、院長は「そなたは修院の宝を失った」という声を聞きました。すぐに、この善良な聖人を探しに戻りました。人々は蛆の出所を見ようとしました。院長は肉を剥がさせて、その綱を取り除かせました。そして、彼はついに全快しました。

苦しみの中にあって、神さまにまったく身を捧げている霊魂は何という楽しみを感じることでしょう。油をたくさん入れた酢のようなものです。酢はあくまでも酢です。しかし、油はそのすっぱさを和らげて、ほとんど感じなくなるまでにします。

隣の小教区の、この村のごく近くに、重い病気に患って骨ばかりになっている大変惨めな子供がいました。私は言いました「かわいそうに。大変苦しいだろう」。すると、彼が答えました。「いいえ、神父さま。昨日の痛みは今日は感じません。今日の痛みは明日感じないでしょう―よくなりたいかい―いいえ。病気になる前は、私はいたずらでした。また、いたずらになるかもしれません。これでいいのです‥‥彼は酢だったのです。しかし、油がそのすっぱさを消していました‥‥このことが分からないでしょう。あまりにこの世的だからです。聖霊が宿り給う子供等は、私共を恥じ入らせます。

神さまがさまざまの十字架を遣わし給うと、私共は力を落とし、嘆き、つぶやき、終始ふわりとした綿の箱の中にいたいと思うほどに、自分を悩ます一切のことに対して敵意をいだくのです。私共が身を置かなくてはならないのは、茨の箱の中です。

天国に行くのは十字架によってです。病気、誘惑、苦痛等、十字架は私共を天国に導くに必要なだけ十分にあります。これらすべてはやがて過ぎ去ってしますでしょう‥‥私共より先に天国に行っている聖人方をごらんなさい‥‥神さまは私共に体の殉教をお求めになりません。心と意志との殉教を求め給うのです‥‥わが主が私共の模範です。十字架をとり、主に従いましょう。

十字架は天国の階段です‥‥神さまの御前で苦しむのは、何と慰め多いことでしょう。夕の糾明のときに、一人でこうつぶやくことができるのはなんと幸福でしょう。「さあ、私の霊魂よ、そなたは今日は二時間、あるいは参事官をイエスさまのように過ごした。主と共に鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架につけられたのだ‥‥」と。ああ、死のために何という宝でしょう‥‥十字架上で生涯を送った者は、何と立派な死を遂げることでしょう。私共はけちん坊がお金を追いかけ回すように、十字架を追いかけ回さねばなりません‥‥審判の日に私共を安心させてくれるのは十字架だけです。この日が来るときには、私共は自分の不幸をどんなに幸福に思い、屈辱をどんなに誇りに思い、犠牲によってどんなに富むことでしょう。

誰かが「金持ちになりたいが、どうすれば良いでしょう」と尋ねるならば、皆は「働かねばならない」と答えるでしょう。そうです。天国に行くためには苦しまねばなりません。わが主はキレネ人のシモンその人をもって、この道をお示しになってくださったのです。主はその共に、十字架を背負ってご自分の後に従うように呼びかけ給うのです。

神さまは、私共が十字架を忘れないように望んでおられます。ですから、いたる処に十字架が置かれているのです。道に、高い所に、公共の場所に、それは私共が「ごらん、神さまはどんなに私共を愛してくださったことでしょう」と言うことができるようにです。十字架は世界を抱擁しています。世界の隅々に立てられています。万人のために十字架の断片があります。

河をわたるために書けられた美しい石橋のように、天国への道の途中に十字架があります。苦しまない信者は、この河を、いつでも足の重みでこわれそうになっているもろい橋、針金の橋を渡るのです。十字架を愛さない人も多数救われるでしょう。しかし、本当にやっとのことです。ちょうど、青空の中の小さな星のようなものでしょう。

神さまのために、苦しみ戦う輝かしい太陽のようにきらめきましょう。愛の炎と化した十字架は、火の中に投げ入れられて灰になってしまう、茨の束のようなものです。茨は堅く痛いものですが、灰はやわらかなものです。立派なブドウの実を圧搾機に入れてごらんなさい。甘美な果汁が出てくるでしょう。

十字架という圧搾機にかけられた霊魂も、その霊魂を養い強める果汁を出します。十字架を持たない時、私共はやせこけてしまいます。聖なる委託をもって十字架を背負うならば、甘美、幸福、快さを感じます。‥‥まさに天国の始まりです。神さま、聖母、天使、聖人方が私たちを取り囲んでいます。私共の味方になって見ています。苦難の試練を経た善良な信者が来世に行くのは、人々がある人をバラの床に移すようなものです。茨は芳香を滲み出します。十字架も甘美を発散します。

しかし、茨を手に握りしめ、十字架を胸にしっかり抱きしめねばなりません。そうすれば、この茨や十字架の中に含まれている液汁がしたたり落ちるのです。反対に、逆境は私共を十字架のもとにたたずませてくれます。そして、十字架は天国の入り口に連れて行ってくれます。人々に踏みつけられ、蔑まれ、うとんぜられ、打ち砕かれねばなりません‥‥苦痛の生活の中にあって平穏な魂の持ち主でないと、この世で幸福ではありません。このような人は、神さまの子供としての喜ぶを味わっています‥‥すべての労苦もわが主とともに苦しむならば、甘美なものです。

苦しむこと。それが何でありましょう。それは一瞬の出来事でしかありません。もし、天国に行って一週間過ごすことができるならば、この一瞬の苦しみの価値を悟るでしょう。余り重い十字架や余り試練には出会わないでしょう‥‥十字架は神さまがご自分の共に贈り賜う贈物です。毎朝、神さまにわが身を犠牲として捧げ、一切を自分の罪の償いとして需要されることは、何と美しいことでしょう。十字架に対する愛を願わねばなりません。そうすれば、十字架は甘美なものとなるでしょう。

四年か五年の間、私はこのことを経験しました。大変な讒言に会い、反対され、怒鳴りつけられました。ああ、私は十字架を背負い続けました‥‥ほとんど背負いきれない程でした。私は十字架に対する愛を願いました。「本当にここにしか幸福がない‥‥」と私はつぶやきました。十字架の出処を決して見てはなりません。神さまから来るのです。いつも神さまが私共の愛を試すためにこの十字架を送り給うのです。

(聖ヴィアンネの精神より抜粋)

聖コルベ神父の十字架の話

最上の質まで到達するには、どうすればよいだろうか。極端に言って、聖人になればよい。この点に関し、マキシミリアン神父は徹底していた。

「私は、みなさんが聖人になること、しかも、大聖人になることを要求します」「ですが、神父さま、それはちょっと欲張りすぎはしないでしょうか」

「そんなことはありません。聖性は、ぜいたく品ではなく、義務です。まず、キリストは『なんじらの天の父の完全にましますごとく、なんじらも完全なれ』とおおせられました。

それに、難しいことではありませんよ。‥‥ちょっと、白墨がありますか」みな驚いて神父をながめた。神父は微笑みながら言った。

「これは、簡単な数学の問題ですよ。今すぐ、黒板の上に、聖性の公式を書いてあげましょう。どんなに簡単なことかわかりますよ」。こう言って若い聴衆が目をまるくしているまえで、ゆっくりと、次の公式を書いた。

v=V

「これが私の公式です。おわかりですか。小文字のvは、私の意味です。大文字のVは神の御意志です。この二つが+の形に交錯すると十字架が生まれます。十字架をなくそうと思ったら、あなたがたの意志を神の御意志に合わせるだけです。

神の御意志とは、あなたが聖人になることです。ごく簡単ですよ。従いさえすればいいのですから」。

実は、これこそ、偉大な霊的著述の骨子であり、内的生活の最上の切り札なのである。もっとも偉大な聖人たちだけが、もっとも根本的な離脱に同意することによって、「十字架をなくすこと」に成功したのである。

(アウシュビッツの聖者コルベ神父から抜粋)