14、この夜が霊魂にもたらす益について

霊魂にとって幸運であるこの夜と欲求からの浄化は、霊魂に多くの善と利益とをもたらすものであるから(もっとも、霊魂にはかえってそれらが奪われるかのように思われるにしても)、アブラハムが、その子イザクの離乳の日に、大祝宴を催したと同じように(創21・8)、天においては、神がこの霊魂をむつきから取り出され、腕からおろして自分の足で歩かせ、父や、やわらかくて甘い幼児食の代わりに固い皮のついたパンを食べさせたこと、そして、その霊魂が頑丈な人の食物を味わい始めたことが喜ばれている。事実、この食物は、感覚のこれらの暗闇と無乾燥の中で、感覚の甘い汁から空虚となり乾いている霊に与えられ始めるのであって、これがすなわち、前に述べた、注賦的観想なのである。

これが、乾燥のこの乾ききった暗い夜がもたらす第一の、そして主要な利益である。それは、自分自身と自分の惨めさについての認識である。というのも、神が霊魂に与えられるすべての恩恵の他に(通常、神はそれらをこの認識の中に包んで与えられる)、以前に感じていた豊かさに対する諸能力の、これらの無味乾燥と空虚、そして、霊魂が善行の実行に際して見出す困難は、すべてがうまくいっていた時期には気がつかなかった自分の惨めさと、卑しさとを霊魂に認識させるからである。

これについては、出エジプト記(33・5)の中に、良い例がある。すなわち、神は、イスラエルの子らをへりくだらせ、彼らに自分をわきまえることを望まれ、彼らが今まで普通、砂漠の中で着ていた祭りの日の衣服と装飾とを取り去って脱ぎ捨てることを命じられた。神は、「今からは、祭りの日の晴着を脱ぎ、日常の仕事着を身につけよ。それは、お前たちが、自分にふさわしい待遇をわきまえ知るためである」と言われた。これは即ち、「お前たちが着ている着物は、祭りと喜びの日の着物であるから、自分たちが本来どれほど卑しいものであるかをお前たちに悟らせなさい。だから、その着物を脱いでしまえ。それは、これから先、自分が卑しい服を身につけているのを見ることによって、それ以上のものを着るのは自分にはふさわしくないこと、自分は何者であるかということがわかるためである」と言われたようなものである。これによって霊魂は、前には知らなかった自分の真実の惨めさを知るようになる。というのも、神の中に多くの味わい、慰め、支えを見出して、晴着を着て歩いていた頃は、自分はいくらかなりと、神に奉仕しているような気がして、大いに満足し、喜んでいたからである(というのも、その時は、それをはっきりと自覚しているのではないが、少なくとも味わいのうちに見出す満足感が、いくらかこういう考えを起こさせるからである)。ところが、今、無味乾燥と「よるべなき」の仕事着を着て、はじめて光が闇になると、霊魂は、自己認識というこのきわめて優れた、必要不可欠の徳のうちに、これらの光をより真実に、より豊かに持つようになる。霊魂はもはや、自分を何のものとも思わず、自分に対して決して満足感を覚えることもない。なぜならば、自分からは何もしないし、また、何もすることができないことが分かるからである。霊魂が前に持っていた当初の味わいや、行っていたすべての業、たとえ、それらがどんなにたくさんであったとしても、神は、それらよりも、霊魂が抱いている自分自身に対する不満足と、自分は神に奉仕していないのだと思う悲しみのほうを、すべてに越えて高く評価し、尊重される。あのような業や味わいにおいては、霊魂は、多くの無知と不完全に多くの機会を与えたのである。この乾燥の着物からは、すでに述べたものだけではなく多くの利益も、そして、述べ切れずにおかれるその他の多くの利益も生じてくる。それは、その泉、本源として、自己認識から湧き出てくるからである。

その第一には、神との交わりに際して、霊魂は、もっと慎み深くなり、もっと礼儀正しくなる、これは、至高の御者との交わりには、常になくてはならないものである。ところが、霊魂が味わいたいと慰めに満たされていた時には、これはなかった。なぜなら、霊魂が感じたあの快い味わいは欲求をして、神に関して必要以上に大胆にさせ、慎みも謙遜もなくさせたからである。これはちょうど、モーゼにおこったことで(出エジプト3・2~6)、神が、自分に話しかけられたことを感じたとき、彼は、あの味わいや欲求に目がくらんでいたので、もし、神が彼に、立ち止まって、靴を脱ぐように命じなかったらば、彼は何の思慮もなく、あえて神に近づいたことであろう。これによって、神との交わりには欲求を赤裸にし、敬意と慎みとをもって臨まなければならないことが示されている。モーゼは、この命令に服したとき、大変思慮分別のある者になったのである。それで、聖書によると、彼は敢えて近づこうとはしなかったばかりでなく、目を揚げることさえしなかったのである。なぜなら、それは、欲求と味わいの靴を脱ぎ捨てることによって、神の御前で自分の惨めさを深く悟ったからであって、これこそ、神のみことばを聞くのに、ふさわしいことであった。これと同様に、神はヨブにも、彼と話しをするために準備させられたが、それは、ヨブ自身が言っているような、彼が神のうちに見出すのを常としていた喜悦や光栄のうちにではなく(ヨブ1・1-8)、かえって、彼を芥の中で裸にし、捨てられた状態にし、さらには友人たちからは迫害され、苦悶と悲痛に満たされ、地は蛆だらけになっているという有様の中であった(ヨブ29、30)。「貧しい者を芥の中から上げられる」(詩13・7)至高の神は、こうしたさなかに、低く降られ、顔と顔を合わせて彼と語られ、彼にご自身の英知の測り知れない崇高さをあらわされるという仕方で、自らを示されたが、そのようなことは、彼が隆盛であった時には決してなかったことであった(ヨブ38~42)。

ここで、この夜と感覚的欲求の無味乾燥の中にある他のすぐれた益についても述べるべきであろう。それはすなわち、(「あなたの光は闇の中に輝きのぼる」(イザヤ58・10)との預言者のことばが実現するためであるが)、この感覚的欲求の暗夜において、神は霊魂を照らされるであろう、ということである。それは、単に霊魂に自分自身の惨めさ、卑しさについての認識を与えることによってである。なぜなら、感覚的な欲求や味わいや支えが消えてなくなってしまうと、理性は純潔に、また、自由になって、真理を悟るにふさわしくなるからである。感覚的な味わいや欲求は、たとえ霊的なことに関するものであっても、霊を眩ませてこれを妨げるからであり、それに引き換え、感覚の無味乾燥と動きのとれない状態は、イザヤが言っている通り(28・19)、さらに、理性を照らし活発にするからである。この困惑によって、神は次のことをわからせてくださる。すなわち、空虚で障害の除かれた霊魂の中において―神的作用には、この空虚であることと、障害の除かれた状態であることが要求される―神はどのようにして、観想のこの暗く無味乾燥の夜を通して、超自然的に、霊魂を神的英知のうちに教え導いてゆかれるか、ということをわからせてくださるのである。このようなことは、最初の頃の甘い汁や味わいによってはわからせてくださらなかった。

このことを、同じ預言者イザヤが、次のように述べながら、非常によく教えてくれる。「神は、誰にご自分の知識を教えようとしているのか?また、誰にみことばを悟らせようとしているのか?それは乳離れした子に、乳房を離れた子にである」(28・9)と。これによって、この神の働きを受けるためには、最初の頃の霊的甘味の乳もいらず、霊魂が味わうのを常としていた感覚的諸能力による甘味な推理の乳房に頼ることもいらず、かえって、前者がなくなることと、後者を断念することが必要であるということが明らかになる。それ故、神を聴くためには、霊魂は自分の足でまっすぐに立ち、感覚も愛情も離脱しきっていなければならない。それは、預言者が自分自身について言っている通りである。彼は言う、「私は、私の見張り所に立ち―これは即ち、欲求を捨て、の意である―、しっかりと足を地につけて歩こう―これは即ち、感覚を使って推理せずに、の意である―、それは、神から私に告げられることを観想する―すなわち、理解する―ことができるためである」(ハバクク2・1)と。これで、この乾ききった夜から、まず、自分自身についての知識が生じ、そこから、神についての知識が生じることが明らかになった。だからこそ、聖アウグスティヌスは神に向かって言ったのである。「主よ、私に私自身を知らせてください。そうすれば、私はあなたを知るに至るでしょう」(ソリロキア2)と。哲学者たちが言う通り、一つの極端は、他の極端によって知られるからである。

霊魂がここで、神から受け取ると私たちが言うあの光を、もっと豊かに受けるために、無味乾燥と孤独の中にこの感覚の夜が持っている効果をより完全に明らかにするために、ダビデの句を引用しよう。その句の中には、神のあの崇高な知識に触れるために、この夜が持っている大きな効果がはっきりと描かれている。彼は言う。「水のない乾いた地、道もない荒れ果てた地で、私はあなたの御前に出る。あなたの力と栄を見ることができるために」(詩63・3)と。ここで、ダビデが以前持っていた多くの霊的喜悦や味わいが、神の光栄を知るための準備であり手段であると言わずに、かえって「乾いた荒れ地」という句のうちに表している。感覚的部分の無味乾燥と支えなしの状態がそれである、と言っていることは、まことに驚嘆すべきことである。さらに、彼が盛んに用いていた神についての概念や推理が神を見、感じるための道であるとは言わず、かえって、「道なき地」という句で表している。神について考えることのできないこと、また想像力を使ってする考察の推論によって歩むことのできないことが、それである、と言っていることも、全く驚嘆に値する。このように、神を知り、自分を知るためには、このような無味乾燥と空虚とを伴う暗夜がその手段である。ただし、ここで得られる知識はもう一つの精神の夜のそれほど完全でも豊富でもない。なぜなら、ここでの知識は、もう一つの夜で得られる知識の糸口のようなものだからである。

霊魂はまた、この欲求の夜の無味乾燥と空虚の中にあって、霊的謙遜を引き出す。これは、霊的傲慢と言った第一の財源とは正反対の徳である。霊魂は、前に述べた自己認識によって獲得するこの謙遜を通して、何もかもうまくいっていた時代に、この傲慢の悪徳に関して陥っていたあの不完全のすべてかた浄められる。なぜなら、霊魂は、自分が非常に乾ききった惨めなものであることを知っているので、以前と違って、自分のほうが他の人よりも優れていると思ったり、勝っていると考えたりすることは、第一衝動すら起こらなくなるからである。それどころか、反対に、他の人々のほうが、ずっと自分より優れているということを認めるようになる。

そして、ここから隣人愛が生まれてくる。なぜなら、他の人々を尊敬するようになったからであり、自分は非常に熱心であるのに引き換え、他の人は少しもそうでないと思っていた頃にいつもしていたようには、もう、他の人々を裁くようなことはしないからである。ただ自分の惨めさのみを知り、それは目の前から離れない。それで、決してそれを忘れるようなことはなく、また他の人の上に目を注ぐだけの余裕もないくらいである。このことをダビデは、自らこの夜のさなかにあって、鮮やかに述べて言う。「私は黙し、卑しくされ、よいことのうちに沈黙を守った。私の苦しみは一変された」(詩39・3)と。彼がこう言ったのは、彼の霊魂の善いものがすっかりなくなってしまったように思えたからであり、それについて言うべき言葉もなく、またそのような言葉を見出すことも出来なかったばかりでなく、自分の惨めさを知って、あまりにも苦しんでいたため、他の人の善いことについて黙想したのである。

ここにまた、霊的な道における服従と従順が成立する。霊魂は、自分がどんなに惨めなものであるかをよく知っているので、ただ、教えられることに聴き従うばかりでなく、誰かが自分に道を示し、自分がしなければならないことを言ってくれるように望むようになる。ことが思いのままになっていた時に、時々起こしたような感情的なうぬぼれは、彼らから奪い去られたのである。そして、遂には、第一の罪源である霊的傲慢のところで述べたような、その他の不完全も全部、これと一緒に一掃されてしまう。