2、初心者がもっている不完全①傲慢

1、これらの初心者は、霊的なことや信心の業において、自分は非常に熱心で勤勉であると感じているので、この得意感から、彼らの不完全さ故に、たびたび隠れた傲慢の芽が出てくる。その結果、彼らは自分の行為と自分自身にいくらかの満足を覚えるようになる。ここから、時としては非常に空しいある種の欲望が生まれてくる。それは、他人の前で霊的なことを話したい、また時には、これらのことを教えられるよりも他人に教えたい、という虚栄的な欲望であって、他人が自分の望む通りの信心を身につけていないのを見ると、心の中でその人を非難する。そればかりか、時にはそれを口に出して言うのである

2・彼らに対して、悪魔はしばしば、これらの業や他の業を、もっとたくさん行おうとする熱心や欲望をあおり立てる。それは、彼らの傲慢やうぬぼれを、増大させるためである。悪魔は、彼らが行うすべての業や徳は、彼らにとって何の価値のないものばかりか、かえって彼らを悪徳に引き戻すものであることをよく知っているからである。そして、彼らのうちにある者などは、自分以外の者がよく思われることを望まないほどのひどい状態になる。

3、また時として、彼らの霊的指導者が彼らの精神ややり方を認めない場合、彼らは、その指導者たちは自分の精神は分からないと判断し、霊的人物でないと考える。彼らは、自分を称賛し、尊敬してくれるような人と語り合うことを望み、反対に、彼らの精神ややり方を砕く人々からは逃げ出し、彼らを憎むようにさえなる。彼らはうぬぼれているので、たいてい多くの決心をするが、ごく僅かしか実行しない。あるときには、他人が自分の精神や信心を知ってくれることを望み、そのために、しきりに外的動作や嘆息や、その他のわざとらしいことをして見せる。またときには、密かにではなく、皆の見ている前で、一種の脱魂状態に陥る。悪魔が彼らに力を貸しているのである。彼らは、人々が自分のこういう状態を知ってくれることに満足を覚え、度々、それを熱望するようになる。

4、多くの者は、自分が他の誰かよりも聴罪師に重んじられ、特別扱いされることを望んでいる。ここから無数の妬みや不安が生まれてくる。彼らは自分の罪を赤裸々に告白することを恥じる。それは、聴罪師の自分たちに対する評価が減らないためであって、罪に彩色をほどこし、そんない悪く思われないようにする。これでは罪を告白しに行くよりも、弁解をしに行くようなものである。そしてときとしては、悪いことを告白するために、他の聴罪師を探す。これは前の聴罪師が、彼らには何の悪もなく、善しかないと考えるようにするためである。このように、彼らはその聴罪師には、常に良いことを言うのを喜び、ときとしては、事実以上に思われるような言葉で語ったりする。

5、そうかと思うと、彼らのうちのある者は、自分の欠点を些細なことと考えている。それでいて、ときとして、自分が欠点に陥るのを見ると、やたらに悲しみ、自分はもう聖人であったはずなのにと思い、自分自身に対して不忍耐になり立腹する。これもまた、もう一つの不完全である。彼らはしばしば、彼らの不完全と欠点とを取り除いてくださるようにと神に切願するが、それは神のためではなく、むしろ、煩わしいことなしに、平安のうちにいる自分を見たいからある。もし、これらの欠点が取り除かれたなら、おそらくは今よりももっと傲慢で、うぬぼれた者になるであろう、ということには気がつかない。彼らは、他の人をほめることはひどく嫌うが、自分がほめられることは非常に好み、ときには自分から望むほどである。

6、ある人たちは、これらの不完全を、数多く、しかも根強く持つようになり、そこから多くの害を受ける。しかし、これらの不完全を持つ程度は、人によって多少の差はある。また、ある者は、一時的衝動、またはそれをほんの少し越えた程度の不完全しかもっていない。とにかく、こういう熱心な時期にあって、こうした不完全のどれかに陥らないような初心者はめったにない。

完徳に進む謙遜な人

しかし、この時期に完徳に進歩してゆく者は、全く別の仕方で、また、非常に異なった性質の霊によって進む。なぜなら、彼らは謙遜によって進歩し、大いに徳を積むので、自分のことを無に等しいと思うばかりではなく、自分には極めてわずかしか満足していないからである。そして、自分以外のすべての人々を、自分より、はるかに優れているものと思い、彼らのように神に仕えたいとの願望から、彼らに対して、一種の羨望というべきものを持っている。というのも、彼らは謙遜のうちに歩んでいるのであるから、熱心になるにつれ、また業を行えば行うほど、またそれらに喜びを感じれば感じるほど、神がどれほど多くを受けるに値する方であるか、そして自分が神にしていることが、いかに僅かであるかが、ますますよくわかるようになるからである。それで、神のために多くのことをすればするほど、自分自身に満足しなくなる。

愛とまごころによって、神のためにしたいと望んでいることは非常なものなので、自分のしていることなどは、すべてが無としか思えないのである。愛のこの気がかりは彼らをせき立て、彼らをとらえてしまうので、もう他の人が何をしているか、何をしていないかなどということには、全く留意しない。もし、気を留めるとすれば、それはただ、自分以外の人はみな、自分よりもずっと勝っているということだけである。その結果、自ら自分をつまらない者と思い、他人もまた、自分をつまらない者とみなし、無視し、自分のことなどは顧みてくれないように欲するのである。しかも、それだけではなく、人が彼らのことをほめ、尊敬を示すことがあっても、彼らは決してそれを信じることができない。そして、自分たちについて、そのようなよいことを言うことは不思議なことだと思っている。このような人たちは、深い落ち着きと謙遜のうちに、自分たちを進歩させてくれる人なら誰からでも教えてもらいたいと熱く望んでいる。

これと全く反対なのは先に述べた人々の場合で、彼らは人に教えることばかりを望み、誰かが彼らに教えようとしようものなら、そんなことはもう知っている、と言葉をさえぎってしまう。しかし、今言ったような人々は、誰かの先生になりたいなどという望みはみじんも持っていないので、もしも、命じられるならば、今歩いている道を捨てて、直ちに命じられた道に入り、それを歩んでゆく。なぜなら、自分は何事にも的外れであると思い込んでいるからである。他の人がほめられることを、彼らは大いに喜び、ただ自分たちがその人々のように神に奉仕していないことだけを悲しむ。自分のことは話ししたくない、というのも、自分のことなどは、霊的指導者にさえ話すのが恥ずかしいと思うほど、つまらないことと見なしているからであって、自分のことは、言葉を費やす価値すらないものと考えている。それに引き換え、彼らは、自分の徳よりも、自分の過失や罪について語ること、また人々がそれを知ってくれることを望む。それで、自分のことや自分の精神を高く評価してくれない人に自分の霊魂を打ち明けようとする。

これが、単純で、純潔で、真実である霊魂の特徴であって、神のみこころに非常によく適うものである。というのも、このような謙遜な霊魂の中には神の上智の霊が住まわれるので、直ちにその霊魂を動かし、自分の宝は密かに内に貯えさせ、悪は外に出すように仕向けられるからである。なぜなら、神は、この恵みを、他のさまざまな徳と共に、謙遜な霊魂に与えるからであり、傲慢な霊魂にはこれを拒まれるからである。

こういう人たちは、神に奉仕する人のためなら、自分の心臓の血まで与えるであろうし、人々が神に奉仕するためなら、できるかぎりのことをするであろう。そして、自分が陥る不完全の中にあっては、神に希望を置きながら、柔和な精神と、神に対する愛のこもった畏敬のうちに、謙遜にそれを忍んでゆく。

しかし、はじめから、このように完全に歩んでゆく霊魂は、すでに述べたとおり、稀であり、ごくごく僅かである。したがって、人々がこれと反対のほうに陥らないということだけでも、私たちは満足しなければならないだろう。それで、後で述べるように、神は、これらすべての不完全から浄化させたいと思われる霊魂を前進させるために、暗夜の中に置かれるのである。