8、初心者がもっている不完全⑦怠惰

霊的怠惰に関しても、彼らはより一層霊的なことにはものうさを覚えるのが常であって、それらは感覚的味わいや楽しみに反するような霊的なことなので、それから逃避する。というのも、彼らは霊的なことのうちに、あれほど舌鼓を打っていたので、それらのうちに味わいを見出せなくなると、嫌悪を覚えるからである。ひとたび、祈りのうちに欲求が求めていた満足を見出すことができなかったとすると(なぜなら、彼らを試みるために、遂には神がそれを取り上げることがあるからである)、再び祈ろうとは思わなくなるし、時には、それをすっかり止めてしまったり、いやいやしたりするようになる。こうして、この怠惰のゆえに、彼らは完徳の道(つまり、神のために、自分の意志と好みを否定する道)を、自己意志の味わいと楽しみのあとに置き、そうして、神の意志よりも、自分の意志を満足させるために歩んでゆく。

彼らの多くは、自分が欲することを、神も欲するようにと望み、神が欲することを、自分も欲するようにするのは憂鬱で、自分の意志を神の意志に合わせることには嫌悪を覚える。ここから度々、彼らには、自分の望みや好みに合わないようなことは、神の意志ではないと考えたり、また、反対に、自分が満足を感じる場合には神も満足であろうと信じたりすることが起こる。彼らは自分によって神を測るが、神によって自分を測ることをしない。これは、神ご自身、福音書の中で、「神のために自分の意志を失う者はこれを得、それを得ようとする者はそれを失う」(マタイ16・25)と言って教えておられることに反対することである。

これらの人々は、また、自分にとって好ましくないことが命令された時にも嫌気を感じる。彼らは、霊の歓喜と味わいの方へと歩いてゆくので、完徳につきものの剛毅や努力を要することに対しては非常にだらしなく、まるで甘やかされて育った人間のように悲し気に逃げ出す。そして、霊の歓喜の宿る十字架につまずくのである。より霊的なことになればなる程、一層嫌悪を覚える。なぜなら、自分の意志の勝手気ままと味わいのうちに、霊的なことに携わろうというのが彼らの念願であるから、キリストが言われた生命に至る「狭い道」(マタイ7・14)に入ることは、彼らにとって悲しみであり、また嫌なことなのである。