6、初心者がもっている不完全⑤霊的貪食

霊的貪食とは、霊的修行に身を委ねるようになった当初、そこに見出す味わいを通じて、初心者に生じるものである。なぜなら、これらの初心者の多くは、この種の修行の中に見出す喜びや味わいに引き付けられてしまって、神が喜ばれる精神の清さや慎みよりも、その霊の味わいの方を求めるからである。それで、これらの味わいを追い求めることのうちにある不完全の他に、彼らが、もうすでに持っている甘い味わいは、徳が育ち固められるのに適した中庸の限界を越えて、極端から極端に彼らを走らせてしまう。そして、秩序もなく、他人の忠告も聞かずに、自分の弱さが耐え得る以上のことをして、ある者は苦業によって自らを殺し、他の者は断食によって衰弱してしまう。彼らは、忠告を聞くどころか、かえって、そのようなことに従わねばならない人を、極力避けようとする。さらに、ある人々に至っては、反対のことが命令されているにも関わらず、あえて、それをやってのけさえするのである。

彼らは、不完全きわまりない人々であり、理性のない人間であって、服従と従順とを(これが、理性と賢明さに関する苦業であって、そのために、神にとっては他のどんな苦業よりも最もみ心にかなった快い生贄である)、肉体の苦業の後に置いている。体の苦業は、服従と従順を顧みないならば、野獣の苦業にすぎない。したがって、野獣と同様に、欲求や、そこに見出す喜びによって動かされることになる。このように、すべて極端なことは悪徳であり、このような行き方は自分の意志を行うのであって、徳において進歩するよりも、むしろ悪徳を増すばかりである。なぜなら、このような行いで、霊的貪食と傲慢とを身につけるからで、それは、彼らが従順のうちに歩んでいないからである。

彼らの多くは、自分の望みに同意してくれるような霊的指導者に執拗に迫り、力ずくでそのようにさせてしまう。もし思うようにならなければ、子供のように悲しみ、不機嫌になる。そして、したいと思っていたことをさせないと、彼らは自分の好みや自分の意志に依存しているので、これが自分の神だと思っている。ところが、人々が彼らからそれを奪い取り、神の意志に従わせようとすると、彼らはたちまち憂鬱となり、力を落とし、怠りがちになる。彼らは、自分が喜んでいることと、満足していることが、神に奉仕していることであり、神を満足させることだと思っている。

そうかと思うと、また他の人々は、この快い味ゆえに、自分自身の卑しさや惨めさに少しも気づかず、神の偉大さに対して払うべき愛のこもった尊敬や畏敬に全く無関心である。それで、頻繁な聖体拝領の許可を得ようと聴罪司祭に迫り、執拗にこれを願うことも辞さないのである。最も悪いことは、キリストの役者であり分配者である人の意見も聞かず、許可も受けずに、大胆にも自分の意見だけに頼って、度々聖体拝領をし、しかも、この事実を隠そうとすることである。彼らが聖体拝領するのは、神を崇め、謙遜な心で神を賛美するというよりも、むしろ聖体拝領のうちに味わいや、ある種の感情を求めているにすぎない。こういう気持ちで一杯になっているので、もし、何の味わいも、感覚的な感動も得られなかった場合には、彼らはまるで何もしなかったように感じる。これは、この至聖なる秘跡がもたらす効果のうち、感覚に触れるようなことは、最も小さいものであることを悟らず、神を非常に低く評価することである。なぜなら、神が与えられる恵みのうち、目に見えない効果の方が、はるかに大きいからである。それで、彼らが信仰の目をこの秘跡の上に向けるように、神は、度々あのような味わいや感覚的喜びを取り除かれるのである。それなのに、彼らは、まるで把握し得るもの、近づき得るものであるかのように、神を感じ、味わいたがる。しかも、それは聖体の秘跡においてだけではなく、他の霊的修業においても同様なのである。これらのことは皆、極めて重大な不完全であり、神の本性にも大いに反するものである。なぜならそれは、信仰において不純なことであるから。

彼らは祈りをするときも、これと同様で、祈りの務めは、すべて、感覚的な味わいや信心を見出すことにあると考え、霊魂の諸能力や頭を疲れさせながら、いわゆる腕づくで、これを引き出そうとやっきになる。そして、そのような味わいが見出せなかったときには、自分は何もしなかったのだと考えて悲嘆にくれる。結局、彼らは小さな子供と同じで、理性によって動かされ、行動しているのではなく、楽しみや味わいによって、そうしているのである。彼らは、霊の慰めや味わいを求めているので、本をいくら読んでも読み足らず、今この黙想をしているのかと思うと、こんどはまた別の黙想に移る、という有様で、神に関することにおける楽しみや味わいを追っていく。神がこのような人々に、このような味わいを拒まれるのは、大変正しく賢明なことであり、慈愛のあらわれである。なぜなら、もしこれを拒まれないとすれば、彼らはこの霊的貪食のために、悪徳において限りなく大きくなってしまうからである。したがって、彼らにとって、暗夜に入ることは、極めて必要なのである。

このように、これらの味わいや楽しみに傾いている者は、またもう一つの大変大きな不完全を持っている。それは、十字架の険しい道を行くことにおいて、きわめて怠惰で、だらしないことである。それというのも、味わいや楽しみによりかかっている霊魂は、当然のことながら、自己を否定する苦しみ、苦味がつくづく嫌になるからである。

私たちの行為の完全さと価値とは、その数の多さや味わいにあるのではなく、それをするに当たって、自分自身を否定することにあると認めなけれればならない。それで、神が彼らを暗夜に入れて、浄めてくださろうとなさるまで、彼らは、自分たちの側からもできる限りを尽くして、この自己否定に努力しなくてはならない。