5、初心者がもっている不完全④憤怒

多くの初心者は、霊的喜びの中に持っている欲のため、これらの喜びを持つと共に、憤怒の悪徳に関する多くの不完全をも持っている。なぜなら、霊的なことの中に見出す味わいや喜びが取り去られると、当然、彼らは味気なく感じるからである。そして、自分が感じている味気なさのために、自分のしていることには不機嫌で、どんな小さなつまらないことにも、非常に怒りやすく、時としては、それは周りの人々にとって、耐え難いほどである。このようなことは度々、祈っていたときに、感覚にも捉えられるような、非常に快い潜心の体験をしたあとに起こる。ところが、今は、そのような快い味わいが取り去られてしまったので、自然性は当然、不愉快、不機嫌になる。それはちょうど、幼児が、その味を楽しんでいた乳房から離されたときのようである。このような自然の動きにおいては、この不愉快な気持ちに自分をまかせてしまわない限り、別に罪にはならない。それは、暗夜の無味乾燥と苦しみによって、浄められないといけない不完全である。

また、これらの霊的な人々の中には、別の形で霊的憤怒に陥る人もあって、彼らは、他の人々に注意し、他の人々の罪に対して、ある種の熱情にかけられて憤怒する。また、時々は、彼らを腹立たしい気持ちでとがめたい衝動にかられる。そして、時には実際にそうするのであって、その場合、自分こそ善徳の持ち主であるかのように振る舞う。これはみな、霊的温和に反することである。

また他の人々は、自分が不完全な者であることに気づくと、不遜にも不忍耐をもって自分自身に対して憤る。このことに関しては、彼らはひどくせっかちで、たった一日で、聖人になりたがっているかのようである。彼らのうちの多くの人は、たくさんの決心をし、偉大なことをもくろむ。しかし、彼らは謙遜でもないし、自分自身により頼むことを止めないため、決心をすればするほど、ますます不完全に陥り、ますます苛立つ。神が望まれる時に、それを与えてくださるのを待つだけの忍耐を持っていないのである。これもまた、前に述べた霊的温和に反することで、これらすべてからは、暗夜の浄化のよらない限り癒されることはない。もっとも、ある人々は、進歩したいという望みに関して、あまりにも気長で、神も、それほどであって欲しいとは思われないほどである。