4、初心者がもっている不完全③邪淫

みだらな衝動について

この邪淫という悪徳に関しては、彼らは、多くの不完全を持っている。その多くは霊的邪淫とでも呼ぶことができる。なぜなら、たびたび霊的修練の最中において、本人にはどうにも抵抗できないような仕方で、感性の中にみだらな衝動や行為が生じてくるからであり、しかも時としては、精神が深い祈りに沈んでいるときや、ゆるしの秘跡や聖体の秘跡にあずかっているときに起こるからである。これらは、本人には手の下しようのないことであって、次の三つの原因のうちのどれかから生じるのである。

  1. 第一の原因は霊的事柄の中に自然性が見出す喜びからしばしば生じてくる。なぜなら、精神と感覚が喜びを感じるので、その楽しみによって人間の各部分がその部分らしく、またその性質に応じて享楽の方へ動かされるからである。その時、よりすぐれた部分である精神は、神を味わい楽しむように動かされ、より劣った部分である感性は、感覚的な味わいと楽しみの方へと動かされる。なぜなら、より劣った部分は、それ以外のものを持つことも、得ることもできないからであり、したがって、自分に最も近いものを取るのである。すなわち、それは、みだらな官能的な喜びである。それで、霊魂が精神においては神との深い祈りに沈んでいる時、一方では、感覚によって、本人はこれを大いに嫌悪しているのであるが、乱れや衝動や官能的行為を受動的に感じるのである。
  2. 第二の原因は悪魔である。悪魔は霊魂が祈りに沈んでいる時、霊魂を不安にさせ、乱そうとして、自然性の中にこれらのみだらな衝動を起こそうと力を尽くす。もしも霊魂が少しでもそれを気にするなら、それは霊魂にひどい害を与えることになる。なぜなら、霊魂はこれを恐れ、これに対して戦いを始めようとするため、祈りに身が入らなくなるからであって、これはまさに悪魔の望むところである。しかも、そればかりでなく、ある者たちは、すっかり祈りを止めてしまう。彼らには、あのような修行をしているときには、普段よりも余計にそのようなことが起こる。なぜなら、悪魔は彼らに霊的な業を止めさせるために、他の時よりもっと、このようなことを起こすからである。そして、ただそればかりではなく、悪魔は非常に醜いみだらなことを、いかにも生々しく映し出すことすらある。そして、時々、このようなことは、その霊魂の進歩を助ける何らかの霊的な業や人などに密接に関連しているのである。このようにして、悪魔は霊魂に恐怖を与え、縮み上がらせようとする。
  3. 第三の原因は、大抵、このようなみだらな衝動や映像に対して、これらの人々がすでに抱いている恐怖である。なぜなら、彼らが見たり、扱ったり、考えたりしていることの中に、突然に記憶がよみがえってきて恐怖を生じ、その恐怖が彼らの責任ではないこのような行為に関して、彼らを苦しめるからである。

この感覚的部分が、これから述べる暗夜の浄化によって改められるならば、もう、これらの弱さはなくなる。なぜなら、もはや受け入れるのは感覚ではなく、むしろ、霊の中に感覚が受け入れられているからである。その結果、感覚的部分もすべてのことを霊がするような仕方で受け取るようになる。

ある人にもつ好意について

また、ある時には、これらの霊的な人々のうちに、霊的なことを話すにつけ、行うにつけ、自分たちが目の前にしている人々を意識して、度外れて活気づき、自身たっぷりになるようなことが起こる。そして、空しいかかわりを持つのである。これも、実は、霊的邪淫から生まれてくるもので、それは普通、意志の満足感を伴って起こってくる。

霊的な道を歩みながら、これらのうちのある人々は、他の人々に対して愛情を抱くようになるが、それも多くの場合、邪淫から起こることであって、霊からではない。それは、このような愛情を思い起こすことで、神に思いをはせることや、神への愛が大きくなるのではなく、かえって、良心の呵責が増えることによりそれと分かる。なぜなら、愛情が純粋に霊的である場合には、それが増せば増すほど、神への愛が増し、それを思えば思うほど、神を思うことも増し、ますます神を望ませるようになるからである。

霊魂が暗夜の中に入れば、これらすべての愛は正しく整えられる、暗夜は神による愛を強め浄化するとともに、他の愛を除去し、滅ぼし去るからである。しかし、これも最初のうちは、後に説くとおり、この二つの愛のいずれをも見失わせてしまうものである。