16、第一の歌の最後の行の説明

もはや、この官能の家はしずめられたので、すなわち、官能は抑制され、感覚の浄化というこの幸いな夜によって、情欲は消され、欲求はしずめられ眠らされたので、霊魂は、霊の道を歩きはじめるために外に出た。この道は、進歩しつつある人、また、進歩した人の道であって、照らしの道とも、注賦的観想の道とも呼ばれる。これによって、神は、霊魂自身の推理も、霊魂の側からの能動的な協力もなしに、御自ら、霊魂を養い、霊魂の力を回復させてゆかれる。これが、前にも述べたとおり、霊魂における感覚の夜であり、浄化である。この夜は、のちに、神の愛の神的一致に至るために、もう一つの、より重大な霊の夜に入いるはずの人々においては、通常、大変な苦悩と感覚的な誘惑とを伴っているもので、それは、人によって長短の差はあるにしても、とにかく長期間、継続する。(普通、そこに至りつくのは、すべての人ではなく、わずかな人だけである)なぜなら、ある人々にはサタンの使い(2コリント12・7)、すなわち、姦淫の霊が襲い掛かってくるからであり、強烈で醜い誘惑によって、彼らの感覚を打ち砕き、想像の中には一層鮮やかに映る醜悪な映像や、恐ろしい警告で霊を苦しめる。彼らにとって、これは、時として、死よりもひどい苦しみである。

また、ある場合には、この夜のさなかに、冒涜の霊が彼らに加えられる。これは、その人のあらゆる概念や思念の中を、耐え難い冒涜の言葉をもって歩き回り、時としては、想像の中に非常な力をもって煽動的な冒涜を入れるので、ほとんどそれを口外せずにはいられなくさせるほどである。これは当人にとってはひどい責苦である。

他の場合には、イザヤが「まよいの霊」(19・14)と呼んでいるまた別の汚らわしい霊が、彼らを苦しめる。それは、彼らを堕落させるためというよりも、彼らを鍛えるためである。この霊は、感覚を暗くするので、彼らを無数の不安と困惑とで満たし、彼らの判断力をひどく混乱させる。それで彼らは、何ごとにも決して満足できず、他の人の勧告にも意見にも頼ることができなくなる。これは、この夜の最も深刻な刺激、恐怖の一つであり、霊的夜において起こることに非常に近いものである。

この夜と感覚の浄化において、神は、普通、このような嵐と苦しみを、のちにもう一つの夜に移ししれるつもりの人々に送られる。(もう一つの夜には、すべての人が達するわけではない)。それは、彼らが責めさいなまれ、叩きのめされ、このようにして、感覚や諸能力を、やがてもう一つの夜で与えられるはずの神の英知との一致のために準備し、訓練し、鍛えてゆくためである。

なぜなら、もしも霊魂が、苦しみと誘惑とによって試みられることも、練り鍛えられることもないなら、霊魂はその感覚を神の英知に備えて、活気づけることができないからである。だからこそ、集会の書は、「試みを受けなかった人が何を知っているのだろう。試されたことのない者が知っていることは一体何か」(34・9~10)と言っているのである。また、エレミアも、この真理を鮮やかに証明して言っている。「主よ、あなたが私をこらしめられたので、私は教え諭されました」(31・8)と。神の英知に分け入るためのこの種のこらしめのうち、一番ふさわしいものは、ここで述べているような内心の苦しみである。これによって、今まで自然的な柔弱さ故にひきつけられていたあらゆる味わいや慰めから、感覚が一層浄められるのである。そして、のちに高められるはずの霊魂は、この高揚に備えて、真に低く卑しめられるのである。

ところで、神が霊魂を、このような感覚の断食と苦行の中に置かれる期間がどの位であるかは、これを確実に言うことはできない。なぜなら、すべての人に同じ仕方で、同じ誘惑が襲ってくるとも限らないからである。というのも、これは、各々が持っている浄められるべき不完全の多少に応じて、神ご自身によって測られることだからである。さらに、また、神がその霊魂を上げようと望まれる一致の愛の度合いに応じても、この卑しめの激しさの度合いや、期間の長短は、それぞれさまざまなのである。

苦しむための素質と力を持ち合わせているものには、浄化も一層激しく、一層迅速である。ごく弱い者に対しては、彼らが後に引き返すことがないように、大きな寛容と、軽い誘惑とをもって臨まれ、感覚にも通常通りの糧を与えられるが、その代わり、この夜を通して導かれる期間はずっと長くなる。したがって、彼らは、この世において完全な純潔に達するのに暇どり、そのうちある者は、決してこれに達することがない。彼らはこの夜の中にすっかり入っているわけでもなく、また、完全にその外にいるわけでもない。なぜなら、たとえ前進はしなくても、彼らが謙遜と自己認識の中に留まっているようにするために、神は、しばらくの間、または、数日間にわたって、彼らを誘惑や無味乾燥の中で鍛えられ、そして、他の場合、また、ある期間は、彼らがおじけづいて世間の慰めを探しに戻らないよう、慰めをもって助けに来られるからである。他のもっと弱い霊魂に対しては、神は、彼らをご自分の愛のうちに鍛えるために、顕れたり隠れたりするかのようにして、彼らと交わる。それは、突き放されることがなければ、彼らは決して神に近づくことを学ばないからである。

しかし、愛の一致という極めて幸福で高い段階に進むはずの霊魂は、たとえ神が、どんなにすみやかに彼らを導かれたとしても、経験によって明らかな通り、通常、非常に長期間この無味乾燥と誘惑の中で過ごすものである。さて、これで、いよいよ、第二の夜について論じ始める時となった。