15、この夜が霊魂にもたらすその他の利益について

霊的なことを、あれもこれもと貪り、その中に見出す欲求や味わいの欲にひかれて、この修練にも、あの修練にも決して満足を覚えることのなかった霊魂は、今は、この乾ききった暗夜の中で、霊的貪欲に関して持っていた多くの不完全について、すっかり改められてゆく。それは、霊的なことの中で、今までのような喜悦や味わいを見出すことがなく、かえって、味気無さと苦しみを見出すので、非常な節度をもって霊的なことを行うようになるからである。神は、この暗夜の中に置く人々に、通常、謙遜と敏捷さの徳を与えられる。それには味気無さが伴っているが、それは、命じられたことを、ただ神のためにのみ行うためである。そして、多くの霊的なことは、もうそこに味わいを見出せなくなったので、二度と利用としなくなる。

霊的邪淫に関しても、霊魂が霊的なことの中に見出す感覚のこの無味乾燥のために、先に述べたような多くの不純から解放される。というのも、普通、この不純は、霊から感覚の中に溢れ出た喜悦に由来するからである。

ところで、霊魂がこの暗夜の中で、第四の罪源、すなわち、霊的貪食に関して解放されるさまざまな不完全については、先に述べたところで知ることができる。ただし、そこで、そのすべてが述べられているわけではない。なにしろ、その数は数えきれないほどであるから。それで、私はここでも、それについて詳しく述べるつもりはない。なぜなら、重大なことばや教えを述べなければならない、もう一つの夜の方に移るために、もう、この夜については、打ち切りたいと思うからである。霊魂が、この夜の中で、この霊的貪食という悪徳に関して、先に言ったもの以外、数えきれないほどの利益を獲得するということを理解するためには、前に述べたような、すべての不完全から解放されるということ、そして、そこには記さなかったもっと数多くの、そして、もっと甚だしい悪や憎むべき醜いことからも解放されるということを言えば十分であろう。経験が教えるように、多くの人々がこのような不完全に陥ったのは、霊的貪食に関する欲求を改めなかったからである。というのも、神が霊魂をこの乾ききった暗夜の中に入れられると、情欲は抑えられ、欲求は制されるので、霊魂はもう、上のことにも下のことにも、どんな味も感覚的な喜びを味わえなくなってしまうからである。しかも、これはいつまでも続くので、霊魂はその情欲と欲求に関して抑制され、改善され、制御されてしまう。そうして、情念と情欲の力を失い、味わいとは縁のない不毛なものとなる。それはちょうど、誰も乳房から乳を吸わなくなると乳を出さなくなるのに似ている。このようにして、霊魂の欲求が枯渇すると、この霊的節制を通じて、他に驚くべき利益が次々に霊魂の中に現れてくる。なぜなら、欲求と情欲とが消え去ると、霊魂は霊的な平和と静けさのうちに生活するようになるからである。というのも、欲求と情欲の支配していない所には乱れがなく、ただ、神よりの平和と慰めがあるだけである。

ここからまた、もう一つの、第二の利益が生じてくる、それは、自分は霊的な道を後戻りしているのではないか、という怖れと憂いのうちに、思いを絶えず神に向けていることである。これは、欲求のこの無味乾燥と浄化における大きな利益であって、決して小さいものではない。というのも、霊魂を鈍くし、暗ませる欲求と愛好によって霊魂にこびりついた数々の不完全から、霊魂が浄められるからである。

この夜には、霊魂にとって非常に大きな他の利益も含まれている。それは、たとえば、忍耐や寛容などの徳を修めるようになることである。これらの徳は、この空虚と無味乾燥の中でよく修練される。また、神への愛にも大いに進歩する。なぜなら、業の中に見出す喜悦にひきつけられたり、味わいを覚えたりすることによって動かされるのではなく、ただ神のためにのみ行うからである。ここでまた、剛毅の徳も修練される。なぜなら、霊魂は、その業の中に見出す味気無さと困難のさなかにあって、弱さから力を引き出し、強いものとなるからである。そして最後に、霊魂は、この無味乾燥の中で、対神徳をはじめ、枢要徳、倫理徳などのあらゆる徳によって、肉体的にも霊的にも修練されるのである。

この夜を通して、霊魂は今述べた四つの利益を獲得する。すなわち、平和を楽しむこと、絶えず神を思い、神に心を寄せること、霊魂の清さ、そして、先に述べたばかりの、諸徳の修練である。ダビデは自らこの夜を経験し、次のように言っている。「私の魂は慰めを拒んだ。神の思い慰めを見出し、自らを鍛え、そうして私の霊は弱り果てた」(詩77・4)と。そして、すぐに言い添えている。「私は夜、心に思いを起こし、自らを鍛え、私の霊を掃き浄めた」(詩77・7)と。これはすなわち、すべての愛好からの浄化の意味である。

先に述べた他の三つの霊的悪徳、つまり、憤怒と嫉妬と怠惰の不完全に関しても、霊魂は、この夜の中で自らを浄め、これらの悪徳と正反対の徳を獲得する。なぜなら、この夜のさなかにおいて、神が霊魂を鍛えられるこの無味乾燥や困難や、その他の誘惑や労苦によって、柔和にされ、謙遜にされた霊魂は、神に対しても、自分自身に対しても、また隣人に対しても柔和になるからである。それで、もはや自分の欠点について自分自身に対してひどく腹をたてることもなく、他の人の欠点について隣人に怒ることもなく、神が自分を速やかに聖人にしてくださらないからといって、神に対して横柄な不平不満を抱くこともなくなる。

それで、嫉妬についても、今は、他の人々に対して愛徳を持っている。なぜなら、たとえ多少の嫉妬を持っているにしても、それは他の人が自分よりも重んじられ、自分より優れているのを見て苦しんだ頃のとは違って、邪悪なものではないからである。というのも、今では自分がどんなに惨めなものであるかをよく知っているので、喜んで他の人の優位を認めるからで、その嫉妬は―もし、それを感じるとすれば―それらの人々に倣いたいと望む聖なる嫉妬で、これは非常に大きな徳である。

霊的で感じる嫌悪や倦怠も、やはり、以前のように邪悪なものではない。なぜなら、以前のは、時として、霊魂が持っていた霊的味わいから来たものだったからである。そして、それが見出せないときには、霊魂は何とかしてそれを持とうと努めたのであった。しかし、ここで感じる倦怠は、この喜悦の不足を原因とするものではない。なぜなら、欲求のこの浄化においては、神は、これらのすべてのことに関する味わいを霊魂から奪いとってしまわれたからである。

今まで述べたいろいろの利益の他にも、この乾ききった観想を通じて、他の数えきれないほどの利益が得られる。なぜなら、この無味乾燥と試練のさなかに、神は度々、霊魂が思いもかけないときに、霊的甘味や、純粋愛や、霊的知識などを霊魂に与えるからである。時としては、非常に繊細な霊的知識を与えられる。これらの一つ一つは、以前に味わったものよりも、ずっと有益で、価値の高いものである。とはいえ、初めのうちは、霊魂はそのようには思はない。なぜならば、ここで与えられる霊的作用は繊細であるため、感覚はそれをとらえることができないからである。

最後に、霊魂はここで、感覚的欲求や愛好から浄められるので、霊の自由を獲得し、次第に聖霊の十二の果実をわがものにするようになる。さらにまたここで霊魂は、悪魔と世間と肉と言う三つの敵の手から見事に解放される。なぜなら、あらゆることに関する感覚的喜悦や味わいが消え去ると、悪魔も世間も肉も、霊を攻撃する武器も力も失うことになるからである。

したがって、この無味乾燥は、神の愛の中を霊魂が純粋に歩むようにさせる。なぜなら、今は、以前喜悦を味わっていた頃におそらくそうしていたように、その業が与える味わいや楽しみによって、その業のほうに動かされることがなく、ただ、神を喜ばせるためにだけ業を行うからである。何もかも、うまくいっていた時には、おそらくそうであったように、うぬぼれたり、自己満足に陥ったりすることなく、かえって、自分に対しては疑い深く、恐れを抱き、自分自身に満足することなどはみじんもない。ここに、聖なる畏れがあるのであって、この畏れは徳を保ち、それを増す。また、この無味乾燥は、すでに述べたとおり、情欲や自然的な活力を消し去ってしまう。なぜなら、ここでは、もしそれが、神ご自身が時として霊魂に注がれる喜悦でなりならば、霊魂が何かの霊的な業や修練の中に、自らの努力によって、感覚的喜悦や慰めを見出すことなどは、前にも言ったとおり、ほとんどあり得ないことだからである。

この乾ききった夜の中では、神に対する注意と、神に仕えたいという焦燥とが増す。なぜなら、霊魂が依存し、欲求を養い育てていた官能の乳房が、ひあがってゆくと、無味乾燥と赤裸の中に残るのは、ただ、神に仕えたいという熱望だけだからである。これは非常に神を喜ばせるものである。なぜなら、ダビデが言っているように、「悲嘆にくれる霊は、神のための生贄である」(詩51・19)から。それで、霊魂は、自分が通ってきた、この無味乾燥の浄化において、今まで述べたような大変貴重な利益を、これほどたくさん引き出し、獲得したことを知ったのであるから、私たちが解明してきている歌の中の、先に揚げた三行で、決して言いすぎているのではない。すなわち、

おお、すばらしい幸運!
気づかれずに 私は出て行った

これは、感覚的な欲求と愛好の束縛と隷属から、気づかれずに出た、つまり、前に述べた三つの敵に妨げられることなく脱け出した、ということである。前にも言った通り、これら三つの敵は、まるで綱でするかのように欲求と喜悦で霊魂を縛り上げ、神の愛の自由のほうに向かって自分自身から抜け出てゆかないように、引き止めてしまう。前に述べたとおり、これらの欲求や喜悦がなければ、三つの敵は霊魂を攻撃することはできない。

こうして、不断の抑制によって、霊魂の四つの欲情、すなわち、喜悦、悲嘆、希望、恐怖がしずめられ、絶え間ない無味乾燥が感性の自然的欲求を眠らせ、感覚と内的諸能力は完全な調和のうちに保たれ、その推理的腹ら気を停止する。これは、たとえて言うなら、霊魂の下級な部分の部屋とそこに住んでいるすべての人のようなもので、これを、霊魂は、我が家と呼んで、次のように言う、

我が家はすでにしずまったから…