13、霊魂の歌三行の説明

愛にもだえ炎と燃え立ち

この愛の燃焼は、自然性の不純さの故に、燃え上がるまでには至っていないため、あるいは、前に述べた通り、霊魂が自分自身を理解していない結果、自分のうちに愛の燃焼に必要な平和な場所をつくっていないため、大抵の場合、初めはそれを感じないものであるが(時としては、このようなことがあろうがなかろうが、神に対する何らかの焦燥を直ちに感じ始めることもあるが)、霊魂は進めば進むほど、自分がますます神の愛に燃え、神の愛に熱中しているのを感じ取るようになる。ところが、このような愛や感情が、いったいどこから、どのようにして生まれてくるのかは知ることも理解することもない。時として、自分のうちに、この炎と燃焼が非常に増大していくのを見、愛の焦燥のうちに神を熱望するようになる。ダビデは、この夜の中に居て、自分自身について次のような言葉をもって、このことを言っている。「私の心は燃え上がったので―すなわち、観想の愛において―私の腎臓も変わった」(詩編73・21)と。これは、感覚的な生き方から霊的な生き方に移ったことを意味し、それは無味乾燥と全ての欲求の停止ということである。ダビデは続けて言う。「そして私は無に帰せられ、滅ぼしつくされたが、私はそれを知らなかった」と。なぜなら、霊魂は自分がどこを通っているのかも知らずに、今まで味わうのを常としていた上の事すべてについても、下の事すべてについても、全く無に帰せられている自分を見出すからである。そして、それが、どのようにしてであるかわからないが、自分が愛に燃え立っていることだけに気が付くのである。そして、時として、この愛の燃焼は、霊の中であまりにも激しくなるので、すなわち、神に対する焦燥は霊魂の中で非常に大きいので、この渇きの中で骨はひからび、自然性は麻痺し、その力と熱は愛の渇きの激しさのあまり、消え衰えてしまうかと思われるほどである。というのも、霊魂は、この愛の渇きが生きているものであることを感じるからである。ダビデが「私の魂は生ける神に渇いている」(詩編42・3)と言ったとき、彼はこの渇きを持ち、感じたのであって、それは「私の魂が覚えた渇きは生ける渇きであった」というほどの意味である。この渇きは、生きている渇きであるために、私たちは、これが霊を殺す、ということができる。しかし、注目すべきことは、この渇きの激しさは、継続的ではなく、いくらかの渇きをいつも感じるとはいえ、時々起こるだけである、ということである。

ところで、はじめのうちは、普通、この愛を感じることはなく、無味乾燥や空虚を感じるということに注意したい。その時、やがて燃え上がってゆく愛の代わりに、あの無味乾燥と諸能力の空虚さの中で霊魂が持っているのは、自分は神に奉仕していないという、悲しみと危惧を伴った神に対する不断の注意と心遣いである。霊魂が、神への愛ゆえに悲嘆にくれ、心配しながら進んでゆくのを見るのは神にとって、少なからず、み心を喜ばせる生贄である(詩51・19)。あの秘密の観想が、この注意と気遣いを霊魂に置くのである。それはしばらくの間、観想が霊魂に与える無味乾燥によって、自然的な力や愛情から感覚が、すなわち、感覚的部分が、いくらか浄化されて、この神的愛が霊の中に燃え立つまでのことである。しかし、その間は、ちょうど治療を受けている病人のようで、霊魂にとっては、このほの暗く、乾燥した欲求の浄化の中では、すべては苦しみである。霊魂は、自らを、前に述べた愛にふさわしいものとするために、多くの不完全から癒され、多くの徳を身につけるのである。それは、詩の次の一行について説かれる通りである。すなわち、

おお、すばらしい幸運!

神は、下級部分の感覚を浄化し、霊に一致させるために、感覚を暗くし、推理をやめさせることによって、霊魂を感覚の夜の中に置かれる。またその上に、もっとあとでは、ついに霊を浄化し神と一致させるために、霊魂を霊的夜の中に置かれるため、霊魂は―たとえ、自分はそうとは思えなくても―この夜から多くの利益を受けるのである。そして、この夜を通して、下級部分の感覚の束縛や絆から抜け出たことを、すばらしい幸運と見なすのである。それで霊魂は、この一行、すなわち、「おお、すばらしい幸運!」と言うのである。この、すばらしい幸運に関しては、ここでは、この夜の中で霊魂が見出す数々の利益を記しておくのがよいであろう。これらの利益ゆえに、霊魂は、この夜を通り抜けることは実にありがたい幸運だと感じている。これらの利益すべてを、霊魂は次の一行の中に含ませている。すなわち、

気づかれずに、私は出て行った

この「出た」とことばにより、感覚的部分に束縛され、非常に弱々しくされた霊魂が、非常に煩わしく危険な働きによって神を探し求めていたことをわからせる。というのも、七つの罪源のところで述べた通り、一歩ごとに、無数の不完全と無知につまずいていたからである。この夜が、上よりのものであろうと、下よりのものであろうと、すべての味わいを消し去り、すべての推理を暗くし、徳を得させるために、この他の数えきれないほどの多くの善を霊魂にもたらすことによって、霊魂は、これらすべての不完全や無知から解放されるのである。霊魂には、非常に苛酷で、逆行するように思われること、そして、霊的喜悦には、まったく逆と見えることが、どうして霊魂の中に、こんなにも多くの善をもたらすのかを知るのは、この道を通って歩いている者にとって、大きな慰めに満ちたことであり、喜ばしいことである。これらの善は、この夜を通して霊魂が愛情や働きに応じて、一切の被造物から離れ、永遠のものに向かって歩いてゆくことによって獲得されるものであり、それは大きな幸福であり、幸運である。その一つは、すべてのことに関する欲求と愛情を消し去るという大きな善のためであり、他の一つは、私たちの救い主が言われたような(マタイ7・14)、生命へ導く狭い門を通り、細い道を通って入って行くことを耐え忍び、そこに堅忍する者は、ごく僅かであるからである。というのも、狭い門とは、この感覚の夜のことだからであって、そこに入るために霊魂は、感覚のすべてとは縁のない信仰に根差して感覚を脱ぎ捨てて赤裸になる。これは後に、狭い道を通って歩いて行くためであり、この細い道とは、もう一つの、霊の夜のことである。純粋な信仰のうちに、神の方に向かって歩いて行くために、霊魂は後に、ここに入る。この純粋な信仰こそ、霊魂が神と一致するに至るための手段である。この道は極めて狭く、暗く、恐ろしいので―その暗さや困難さは、感覚の夜とは比べものにならない―、この道を通って歩いて行く人は極めて少ない。しかし、その利益は、感覚の夜のとは比較しようもないほど優れて大きいのである。感覚の夜の利益について、今、いくらか話そうと思うが、それはできる限り簡潔にし、そして、もう一つの夜の方に移って行こうと思う。