10、第一の歌の一行目を解説し、暗夜について説明しはじめる

ある暗い夜に

私たちが観想と呼んでいるこの夜は、人間の感覚的部分と霊的部分とに応じて、二様の闇または浄化を引き起こす。その一つの夜は、感覚的なものであり、感覚を霊に適合させながら、感覚によって霊魂を浄める。もう一つの夜は、霊を神との愛の一致へと準備し、これに適合させながら、霊によって霊魂を浄め、赤裸にする。感覚的な夜は普通のもので、多くの人々、つまり、初心者に起こる。それで、まずこの夜について述べよう。霊的な夜は、非常に稀で、すでに修練を積んだ進歩者のものであるから、これはあとで論じる。

第一の夜は、感覚にとって苛酷なものであり、恐ろしいものである。第二の夜は、何にも比べようのないほどであり、霊にとって恐ろしいもの、驚くべきものである。順序としても、感覚的な夜が始めに起こるものであるから、まずこれについて簡単に語ろう。これは普通のものであるため、これについて書かれたものは多く見つけられるであろう。しかし、あえてこれを先に説明するのは、霊的夜のことを、一層はっきりと説明したいからである。この霊的夜については、書かれたものも極めて僅かであるし、話されることもまれで、経験する人も非常に少ない。

ところで、これらの初心者が、神の道を行く歩み方は低級で、自己愛や、自分の好みにしっかりと結びついている。神は、彼らを前進させ、愛のこの低い段階から、より高い神の愛の段階へと、彼らを引き上げようと望まれる。また神は、感覚や推理の業から神を探し求めている彼らの不完全を解放して、もっと豊かに神と交わることのできる霊的な業の道に、彼らを置こうと思われる。彼らはすでに、ある期間にわたって、黙想や念頭に堅忍しながら徳の道で修練を積んだ。その中で見出した味わいや楽しみによって、彼らは世間的なことは嫌いになり、神からいくらかの霊的力を得て、その力で被造物への欲求をある程度、制御するに至ったのである。これによって、彼らは、以前もっと楽であった時期に後戻りすることなく、神のために少々の重荷や無味乾燥を忍ぶことができるであろう。

そして神は、最も良いと思われる時、すなわち、彼らが、こういう霊的修業のなかで、大いに甘味な味わいを楽しんでいる時、そして、神の恵みの太陽が一層明らかに彼らを照らしていると思える時に、この光をすべて闇に変え、これまで彼らが望む時はいつでも、神のうちに味わっていた甘味な霊の水の泉や門を閉じられる。

神は、彼らは弱く未熟であったため、今までは、彼らに門を閉じることはなかった。しかし、今、神は、彼らを想像と推理の感覚によって、どこを通って行けばよいかわからないほどの暗闇の中に放置される。神は、彼らをあまりにもひどい無味乾燥の中に放置されるので、彼らは前に常に、楽しみや味わいを見出していた霊的なことや善業の中に、甘味さを見出さないばかりでなく、かえって、そこに苦みや不快を見出すのである。なぜなら、今、神は、彼らがいくらか成長しているのを感じられ、彼らを丈夫にし、赤児のおくるみから引き出すために、彼らを甘い乳房から引き離し、腕から降ろし、自分の足で歩くことに慣れさせようとされるからである。彼らにとって、これは全く真新しいことに感じられる。なぜなら、すべてがひっくり返してしまったように思われるからである。

これは、普通、潜心の習慣を身につけている人々に、一層速く起こってくる。なぜなら、彼らは後退する機会から一層遠ざけられているし、この世のものへの欲求を、もっと速く正しく直すことができるからである。大抵の場合、霊的な道に入った後は、この感覚の夜に入るまでに、それほど時間がかからない。そして、ほとんどの人がこの夜の中に入る。

この感覚の浄化は、一般的なものであるため、これについては、聖書からいくらでも引用箇所を取り出すことができる。聖書のどの箇所にも、特に、詩編と預言書の中に、多くの例を見出すことができる。それゆえ、その引用に時間を費やそうとは思わない。なぜなら、こういう聖句を見出すことのできない人は、自身の浄化の経験を知れば充分だからである。