祈りの偉大な力 リゴリの聖アルファンソ

「祈りの偉大な力」を短くまとめたものです

救われるためには祈りが必要である

わたしたちは救われたいならば、祈らなければならないことを、聖書ははっきりと教えている。

  • 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」 (ルカ十八・一)。
  • 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ二十六・四十一)。
  • 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ七・七)。

聖書が示しているように、救いを実現するために、祈りは絶対不可欠なものであり、祈りなしには、救いに必要な恵みをいただけない。なぜなら、私たちは、恩恵の助けなしに、どんな善も出来ないからである。

祈りの効果

神は、私たちが祈ることによって、私たちに不足する力を与えてくださる

聖パウロは言った。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ四・十三)。祈りは万能であり、祈ることによって、神は私たちに不足する力を与えてくださる。祈りは悪魔の襲撃に立ち向かう強力な武器であり、どんな災厄からも守り、どんな嵐にも避難できる港であり、同時にあらゆる良きもので満たしてくれる宝物である。

祈りによって、私たちは誘惑に打ち勝つ力を得ることができる

私たちが誘惑にあう時、神は助けることを望まれ、私たちがそれをご自分に懇願するのを待っておられる。祈りは神をなだめ、願うものを得させ、弱さを力に変えて、誘惑に打ち勝つ力を与えてくださる。

しかし、誘惑のときに、自分により頼むならば、神からの力を得ることができず、誘惑に打ち勝つことはできない。

神は不可能なことを命じられない。神が命じられるときは、可能なことを命じられるのであり、すべてが可能となるように私たちを助けてくださる。つまり、私たちが祈ることで、神は私たちにはできない筈のことをする力を与えくださる。

神は、私たちが願うものを必ず与えてくださる

神は私たちの祈りを聞かれると、心を動かされる。私たちのうめきを長く放置せず、直ちに答え、私たちが願うものをくださる。神にはいつでも私たちの祈りを聞く用意があり、その願いをかなえようと待っておられる。神が謙遜に祈る人の祈りをかなえてくださらないことは決してない。しかも、私たちがまだ祈っているあいだに、既に恩恵がくだっているときもある。

神は、私たちが願う以上のものを与えてくださる

私たちが主に恵みを願うと、主は非常な名誉と慰めをお受けになり、あたかも主は私たちに感謝なさるかのようである。それは主が私たちを恵みで満たせるように、私たちが主に道を開いてあげたからである。その結果、神は全ての人たちに良いものを与えたいというご自分の意向を満足させられるのである。神は求められると、惜しみなくふんだんに、常に求められる以上をお与えになる。神の富は無尽蔵で、与えれば与えるほど、さらに増えるからである。

祈りの効果が発揮するために必要な五つの条件

自分に対しての恵みを願うこと

祈りに必要な最初の条件は、祈りが自分自身になされることである。誰も永遠の生命を他人のためにいただくことは権利上できない。しかし、神の約束によって、私たちが他人に祈りは、その人がそれを妨げない限り、その祈りは絶対的な効果を生む。

罪人たちのために祈ること

罪人たちのために祈ることは、彼らに大いなる助けとなり、神が喜ばれることに間違いない。だが、真に神への愛に燃える人は誰でも哀れな罪人たちのために絶えず祈るはずである。神を愛するならば、イエス・キリストが罪人を救うために苦しまれたような愛を人々に示さないといけない。

救いに必要な恩恵を願うこと

祈りに対して与えられた約束は、「救いに必要な恩恵」であり、魂の救いにとって必要でない地上的な恵みには適用されない。私たちが地上的な恵みを懇願しても、神はそれを聴きとどけないことがある。それは、愛からであり、神は憐れみをもって私たちに接したいからである。

信頼をもって祈ること

祈ることで神の恩恵を得ようとするとき、必ず聞き届けられると信じて疑わずに祈ることは大切である。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(ヤコブ一・六)。私たちが神の憐れみを信頼すれば神は喜ばれる。それは私たちが、私たちを創造することで世に示そうとされた神の限りのない愛を褒め称えるからである。

絶えず根気強く祈ること

個々の祈りによって、私たちは願う恵みをいただく。しかし、最終堅忍をいただくには、絶えず祈ること、それを死ぬときまで続けることが必要である。最終堅忍は、私たちがたゆまず堅忍するように力のあるかたによってでしか得られない。それこそ私たちの救い主が何度も述べられたことである。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ十八・一)。

神は、罪人たちには悔い改めに必要な恩恵をお与えになる。

神は全ての人に掟を守るための恩恵を与えている。その恩恵に頼ればそれを避けることができるし、その恩恵を拒むものだけが身を滅ぼす。本人が邪魔しないかぎり、救いに必要な恩恵を誰にも与えることが神の意志である。

御父に引き寄せられなければ、誰も回心できないが、引き寄せられなかったことを誰も口実にすることはできない。神は常に戸口にたち、扉を叩いておられ、神の声は響き、人のこころに語りかけているからである。「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入る」(ヨハネ黙示録三・二十)。

 

神は不可能なことはお命じにならない。

絶対に避けられないことについては、誰も罪とされない。できないことをしなかったという理由で、罪ありとすることほど不当なことはない。人間だって、誰かに不可能なことを命じる掟を課せば、残酷だと非難される。神はそのようなことは決してしない。しかし、掟を守るための必要な恩恵を、自身の怠慢から求めない時は別である。正確に言えば、それは戒めを守るのに必要な直接的恩恵をいただくためにお祈りという間接的恩恵を活用することを怠る人を指している。神は不可能なことを命じられない。神が命じられるときは、可能なことをするようにお求めになる。神が、不可能なことを求められる時は、それが可能になるように助力をくださる。

祈る恩恵は誰にでも与えられている

祈る恩恵は誰にでも与えられているとは、意志・肉体的・精神的な衝動を与えて、祈ることへ導く恩恵がなくても、祈ることができることである。

そうでなければ、祈り始めるために、その力を得るために、他の力が必要となり、その別の力を得るために、また別の力が必要になり、こういうことが無限に繰り返されることになる。

つまり、ある人が祈ろうと思えば、すぐにでも祈ることはできる。それはどんな人であろうと、祈るための特別な恩恵がなくてもできる。

掟を守る恩恵は祈りの果実である

神は不可能なことをお命じにならない。簡単なこと或いはそれほど完全でないことをするためには、私たちは神により大きな助けを願わなくても果たせる。しかし難しい行為を成し遂げるためには神に特別な援助をお願いしなければならない。祈りを活用するか否かは私たち次第である。だから祈らない人は、弁解の余地がない。私たちは、祈るための恩恵には恵まれており、他の助けがなくてその恩恵によって、行動するか、行動するための大きな助けをいただける。掟を守る恩恵は祈りの果実であり、神は祈りの賜物を、掟を課すときに同時にくださるのである。祈る行為の恩恵は、祈りを活用したいと望むすべての人に与えられる。だから堅忍することは誰にでもできる。