2 対神徳

人間的徳は対神徳に根ざし、この対神徳は人間の諸能力を神の本性にあずかるようにさせます。対神徳とは、直接に神を対象としたものです。対神徳は、キリスト者を聖三位との交わりのうちに生きるようにさせます。三位一体の神が、その起源であり、動機であり、目的なのです。

対神徳はキリスト者の倫理的生活の土台であり、源であり、これを特徴づけるものです。あらゆる倫理徳に生気を与え、活気づけます。神の子供としてふるまい、永遠のいのちに値する行為をすることができるように、信者の心に神から注がれたものです。それは、人間の諸能力のうちに聖霊がともにおり、働いておられるということの保証です。対神徳は三つあります。すなわち、信仰と希望と愛です。

信仰

信仰は対神徳です。この信仰の徳によってわたしたちは、神と、神がわたしたちに語られ啓示されたこと、また教会が信じなければならないこととして教えるすべてのことを信じます。神は真理そのものだからです。信仰によって、「人間は、自由に自分自身をまったく神にゆだねるのです」。それゆえ、信者は神のみ旨を知り、行うように努めます。「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1∙17)のであり、生きた信仰は「愛の実践を伴う」(ガラテヤ5∙6)のです。

信仰というたまものは、信仰に反する罪を犯さなかった人のうちにとどまります。しかし、「行いを伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2∙26)であり、希望と愛とを伴わない信仰は、信者を完全にキリストに一致させることも、キリストのからだの生きた一部とすることもありません。

キリストの弟子は単に信仰を守り実践するだけではなく、これを公言し、確信をもってあかしし、広めるべきです。「すべての人はキリストを人々の前で宣言し、教会に決して欠けることのない迫害の中にあって、十字架の道をたどりつつキリストに従う覚悟を決めておかなければなりません」。信仰を守りあかしすることは、救いに必要です。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であるといい表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの伸間であるといい表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないという」(マタイ10∙32-33)。

希望

希望は対神徳です。この希望の徳によってわたしたちは、キリストの約束に信頼し、自分たちの力ではなく聖霊の恵みの助けに寄り頼みながら、わたしたちに幸せをもたらしてくれる天の国と永遠のいのちとを待ち望みます。「約束してくださったのは真実のかたなのですから、公にいい表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」(ヘブライ10∙23)。「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠のいのちを受け継ぐ者とされたのです」(テトス3个7)。

希望の徳は、すべての人の心に神がともしてくださった幸福へのあこがれにこたえるものです。人間の行動を活気づけるさまざまな希望を吸収し、それを天の国を目指すように浄化し、失望から守り、見捨てられた状態の中で支え、永遠の至福の期待で心を晴れ晴れとさせてくれます。希望の躍動は自己愛(「利己主義」)から守り、愛の幸せへと導きます。

キリスト者の希望はかつての選ばれた民の希望を踏襲し、これをまっとうするものですが、その起源と原型はアプラハムの希望にあります。アブラハムはイサクに関する多くの約束を神から受けましたが、彼の心は、イサクをいけにえにする試練によって浄化されました。「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、……多くの民の父となりました」(ローマ4∙18)。

キリスト者の希望は、真福八端を告げるイエスの説教の冒頭ですでに示されています。真福八端はわたしたちの希望を、新しい約束の地である天に向けて高めます。そして、イエスの弟子たちが受けるはずの試練のときにはずっと、その中で述べられている道を示し続けます。しかし神は、イエス・キリストとその受難の功徳とにより、わたしたちを「欺くことのない希望」(ローマ5∙5参照)のうちにとどまらせてくださいます。わたしたちは、「魂にとって頼りになる、安定したいかりのようなもの」である希望をたずさえて、「イエス〔が〕わたしたちのために先駆者として入って行〔かれた〕」(へブライ6∙19-20)ところまで歩いていくのです。希望はまた、救いのための戦いにおいてわたしたちを守る武器のようなものです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望をかぶととしてかぶりましょう」(一テサロニケ5∙8)。希望は、試練のさ中にあっても喜びをもたらします。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍〔ぶ〕」(ローマ12∙12)ことが大切です。わたしたちの希望は祈りの中で、とくに、わたしたちが希望を込めて望んでいるあらゆる内容が要約されている「主の祈り」の中で表現され、祈りながら育てられます。

わたしたちは、神を愛し、そのみ旨を行う人々に神が約束された天の栄光を希望することができます。どのような場合にも、だれもが、神の恵みに助けられて最後まで耐え忍び、キリストの恵みによって行ったよいわざに対する神からの永遠の報いである天の喜びをいただけると希望しなければなりません。教会は希望をもって「すべての人々が救われ」(一テモテ2∙4)るように祈り、天の栄光の中で花婿であるキリストに結ばれることを切望しているのです。
「希望しなさい。希望するのです。あなたはその日、その時を知らないのです。よくよく目を覚ましていなさい。あなたが確かなことを疑い、短い時を長く感じている間に、すべては矢のように過ぎ去るからです。よく考えてごらんなさい。努力すればするほど、神に寄せるあなたの愛が明らかとなり、決して終わることのない幸せと法悦の中であなたの愛するかたと一緒に喜ぶことになるのです」。

愛は対神徳です。この愛徳によってわたしたちは、すべてに超えて神を神ご自身のゆえに愛し、神への愛のゆえに隣人を自分自身と同じように愛します。

イエスは愛を新しいおきてとされます。弟子たちを「この上なく」(ヨハネ13∙1)愛されることによって、ご自分が受けている御父の愛を表されます。弟子たちは互いに愛し合うことにより、自分たちにも示されているイエスの愛に倣います。だからイエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15∙9)、さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのおきてである」(ヨハネ15∙12)といわれるのです。

霊の実であり、律法の完成である愛があれば、神およびその御子キリストのおきてを守ります。「わたしの愛にとどまりなさい。……わたしのおきてを守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15∙9-10)。

キリストはわたしたちがまだ「敵」であったときに(ローマ5∙10)、わたしたちへの愛のためにいのちをささげられました。キリストはわたしたちに、ご自分と同じように敵をも愛し、もっとも遠くにいる人の隣人となり7、キリストを愛するように、幼子や貧しい人々を愛することを求められます。
使徒聖パウロは愛の特徴について比類のない描写をしています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(一コリント13∙4-7)

使徒パウロはまた、愛がなければ「〔わたしは〕無に等しく」、どんな特別なたまものも、奉仕も、徳であっても、愛がなければ、「わたしに何の益もない」ともいいます。愛はあらゆる徳にまさるものであり、対神徳の中でも第一のものです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」(一コリント13∙13)。

すべての徳は、愛によって生かされ、導かれながら実行されます。愛は「完成させるきずな」(コロサイ3∙14)であり、諸徳を諸徳たらしめるものです。これらを関連させ、相互に秩序づける、キリスト者としての徳の実践の源泉であり結びでもあります。愛徳は人間が持っている愛するという能力を支え、浄化し、神的愛の超自然的完全さへと高めます。

キリスト者は、愛に生かされた倫理生活を実践することによって、神の子の自由を得ます。このようなキリスト者は、もはや、卑屈な恐れを抱く奴隷や報酬を求める雇われ人としてではなく、「まずわたしたちを愛してくださった」(一ヨハネ4∙19)かたの愛にこたえる子として神のみ前に立つのです。
「わたしたちが罰を恐れて悪から遠ざかるのであれば、奴隷のようであり、報酬に引かれれば、雇われ人のような者になります。ところが、善そのもののため、また、わたしたちにおきてをお与えになるかたへの愛に駆られて従えば……、子供と同じようなものにしていただけるのです」。

愛の実は喜び、平和、あわれみです。愛は慈善と兄弟的忠告とを求めます。思いやりがあり、相互愛を生み、私欲を求めず、寛大です。それはまた、友情であり交わりです。
「愛はわたしたちの全行為の完成です。そこにわたしたちの目的があり、わたしたちは愛に駆られて、愛を目指して走ります。そしてその愛に到達すれば、その中で憩うでしょう」。