2 救いの営みにおける叙階の秘跡

旧約の祭司贖

選ばれた民は、神によって「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19∙6)とされました。しかしイスラエルの民の内部でも、神は十二部族の一つであるレビ族を選び、他の部族とは区別して、典礼の務めにあたらせました。神ご自身がこの部族の嗣業です。,旧約の祭司職を開始する際には特別な聖別式がありました。祭司たちは「罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。

しかし、神のことばを告げ、いけにえと祈りとによって神との交わりを取り戻すために定められたこの祭司職は、救いをもたらす力はなく、たえずいけにえを繰り返す必要があって、決定的聖化をもたらすことはできなかったのです。ただキリストのいけにえだけが、決定的聖化をもたらすことができました。

しかし、教会の典礼は、アロンの祭司職とレビ族の務め、また、七十人の「長老」の制度にも新約の叙階された役務者の前表を認めています。したがって教会は、ラテン典礼の司教叙階の聖別の祈りの中で、次のように祈ります。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神……、あなたは恵みのことばによって、ご自分の教会におきてをお与えになりました。あなたは初めのときからアブラハムに始まる正しい人々の一族をあらかじめ定め、指導者と祭司たちをお立てになりました。そして聖なる場所で奉仕する者が欠けることのないようにされました」。

教会は司祭の叙階では次のように祈ります。
「聖なる父、全能永遠の神、……すでに旧約時代から、……あなたは民を導き、聖なる者とするためにモーセとアロンを民の上に立て、彼らを助け、ともに働く人々を民の中からお選びになりました。こうして知恵に富む七十人の人々に、モーセが受けた霊を分け与えてくださいました。また、アロンの子孫にも、彼らの父に与えられた満ちあふれる恵みを授けてくださいました」。

助祭叙階のための聖別の祈りでは、教会は次のように祈ります。 「全能の神よ、……教会は新しい神殿として成長し、発展していきます。そのためにあなたは、すでに旧約の時代から、幕屋での奉仕の務めのために、レビの子らをお選びになったように、聖なる務めを担ってあなたの名に仕える、三つの段階の奉仕の務めをお定めになりました」。

キリストの唯一の祭司贖

旧約の祭司職のすべての前表は、「神と人との間の唯一の仲介者」(一テモテ2∙5参照)であるキリスト・イエスのうちに実現されました。「いと高き神の祭司」(創世記14∙18)メルキゼデクは、キリスト教の伝承ではキリストの祭司職の前表と考えられてきました。キリストは「メルキゼデクと同じような大祭司」(ヘブライ5∙10、6∙20)であり、「聖であり、罪なく、汚れなく」(ヘブラィ7∙26)、しかも「唯一のささげものによって」、すなわち、十字架上の唯一のいけにえによって、「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(ヘブライ10∙14)かたです。

キリストのあがないのいけにえは、ただ一度で成就された唯一のものです。しかしそれは、教会のエウカリスチアのいけにえにおいて現在化されています。キリストの唯一の祭司職についても同様のことがいえます。それは職位的祭司たちによって現在化されていますが、そのことによってキリストの唯一の祭司職が損なわれることはありません。「だから、キリストだけが真の祭司であって、他はその奉仕者にすぎないのです」。

キリストの唯一の祭司贖への二通りの参加

大祭司であり唯一の仲介者であるキリストは、教会を「父である神に仕える祭司の王国」となさいました。信者の全共同体がそれ自体として祭司的団体です。信者は祭司、預言者、王であるキリストの使命にそれぞれの召し出しに応じて参与し、洗礼による祭司職を果たします。信者は洗礼および堅信の秘跡によって「聖なる祭司職をもつ者となるよう聖別されます」。

司教および司祭の職位的、位階的祭司職とすべての信者の共通祭司職とは、「それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の祭司職に参与して」おり、「相互に秩序づけられ」ながらも、本質的に異なるものです。信者の共通祭司職は洗礼の恵みから発出する、信仰∙希望∙愛の生活、霊による生活の中で実現されるものですが、職位的祭司職は共通祭司職に奉仕し、すべてのキリスト者の洗礼の恵みの展開を助けるものであり、キリストがたえずご自分の教会を築き導くために用いられる手段の一つです。そのために、職位的祭司職は固有の秘跡、つまり叙階の秘跡によって受け継がれるのです。

頭であるキリストの代理者として

叙階された奉仕者が教会的奉仕を果たすときには、キリストご自身がそのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師としてご自分の教会に現存されます。叙階の秘跡の力によって司祭は頭であるキリストの代理者として行動するという教会の教えには、以上のような意味があります。
「〔奉仕を果たすのは〕同じ祭司イエス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけです。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリストご自身の力と名により行動できるようになるのです」。
「キリストはすべての祭司職の源です。事実、旧約の祭司はキリストの前表であり、新約の祭司はキリストの代理者として行動するからです」。

教会の頭であるキリストの現存は、叙階された者、とくに司教と司祭の役務を通して信者共同体の中で目に見えるものとなります。アンチオケの聖イグナチオの美しいことばによれば、司教は父である神の生きている像(テユポス∙トゥー∙パトロスτύπος του Πατρός)のような存在なのです。

このように役務者の中にキリストが現存されるからといって、役務者が支配欲、誤謬、罪などの、あらゆる人間的弱さから免かれているというわけではありません。役務者たちのすべての行為の正しさが聖霊の力によって一様に守られているわけではありません。ただし秘跡を授ける場合には、その保証があります。したがって、教会の役務者が罪びとであっても、彼らによって授けられた秘跡が恵みをもたらすのを妨げることはありません。しかし、彼らの多くの行為の中には、福音への忠実さを欠き、教会の使徒的活動の実りを損なう人間的弱さを示すものが見受けられます。

この祭司職は奉仕の役務です。「主がご自分の民の牧者たちにゆだねられた任務は真の服役です」。まったくキリストと人々のためのものです。それはことごとくキリストとその唯一の祭司職に従属し、もともとは人々と教会共同体のために制定されたものです。叙階の秘跡は「聖なる権能」を与えますが、これはキリストの権能にほかなりません。したがって、その権威は、愛によって一番低い者となり、皆に仕える者となられたキリストの模範に従って行使されるべきです。「主は、ご自分の群れのために尽くすことはご自分に対する愛のあかしであると明言されました」。

…「全教会の名で」

教会の役務者は、単に頭であるキリストを代表する務めを信者共同体に対して果たすだけではなく、教会の祈りを神にささげるとき、とくにエウカリスチアのいけにえをささげるときには、全教会の名で行動します。

「全教会の名で」という表現は、役務者が共同体から委任された者であるという意味ではありません。教会の祈りと奉献はその頭であるキリストの祈りと奉献から切り離すことはできません。それはつねに、教会の中で教会によって行われるキリストの祈りです。キリストのからだである全教会は、聖霊と一致して、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」父である神に祈り、自らをささげているのです。頭と肢体とが一つとなったからだ全体が祈り、自らをささげます。そのため、からだの中でとくにその役務者である者は、キリストの役務者と呼ばれるだけではなく、教会の役務者とも呼ばれます。役務としての祭司職が教会を代表することができるのは、キリストの代理者であるからです。