第6項 倫理的良心

「人間は良心の奥底に法を見いだします。この法は人間が自らに課したものではなく、人間が従わなければならないものです。この法の声は、つねに善を愛して行い、悪を避けるよう勧め、必要に際しては……心の耳に告げます。人間は心の中に神から刻まれた法を持っているからです……。良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響きます。

1 良心の判断

人間の心に存在する倫理的良心は、時宜に応じて、善を行い悪を避けるよう人間に命じます。また、正しい選択を承認し悪い選択をとがめて、具体的にどのような選択をすればよいかを判断します。良心は最高善であるかたに準拠した真理の権威を明らかにします。人間はそのかたに引き付けられ、そのおきてを受け入れます。賢明な人間は、良心の声に耳を傾けることによって、神の声に従うことができます。

倫理的良心とは理性の判断であり、人間はそれによって、自分が行うつもりであったり、現在行っていたり、すでに行ってしまった具体的行為の倫理的善悪を見分けます。人間はそのすべての言動において、正しいと知りえたことに忠実に従う義務があります。人間が神法のおきてを認識できるのは、まさに良心の判断によってなのです。 良心は「心の法です。けれどもキリスト者は、良心がそれだけのものだということには承服しないでしょう。良心は命令ではないし、責任観念や義務観念、また脅迫や約束の観念を伝えるものでもないからです。……良心は、自然と恵み双方の次元において隠れたところからわたしたちに語りかけ、わたしたちに教え、わたしたちを治めておられるかたの使者なのです。良心とは、キリストの代理者たちのうちの最たるものなのです」。

良心の声を聞き、それに従うためには、一人ひとりの者が完全に自分自身に立ち戻る必要があります。わたしたちは生活のために反省や究明、あるいは自分に立ち戻ることを忘れてしまう恐れがあるので、この内省はいっそう必要になります。 「あなたの良心に立ち戻り、その良心に尋ねなさい。……皆さん、内面に立ち返り、何を行うときにも、その証人である神のみ顔を見つめなさい」。

人間の尊厳というものは倫理的良心の正しさを前提とし、また要求するものです。倫理的良心は倫理の根本原理を把握し、さまざまの理由やさまざまの価値を実践的に識別することによって、具体的な状況の中でこれらの根本原理を適用した上で、これから行おうとしているかすでに行ったかした具体的行為についての判断を行います。理性の法則で明らかにされている倫理的善に関する真理は、現実の具体的な場においては、良心の慎重な判断によって認識されます。この判断に従って選択する人を、賢明な人と呼ぶのです。

良心は、行われた行為の責任を担わせます。人が悪いことをしたときには、良心の正しい判断が、当人に善の普遍的真理を示すと同時に自分が行った具体的選択の誤りを示し続けます。良心のこの判断は、犯した過ちを証明しながら、請うべきゆるしや、さらに行うべき善、また、神の恵みによって不断に培うべき徳などについて思い起こさせてくれます。
「わたしたちは、神のみ前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(一ヨハネ3∙19-20)。

人間は倫理的決定を行うにあたって、良心に基づいて自由に行動する権利を持っています。人は「自分の良心に反して行動するよう強制されてはなりません。それかといって、とくに、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてもなりません」。

2 良心の形成

良心は培われ、倫理的判断は照らされなければなりません。よく形成された良心は、正しくて誠実です。良心はその判断を、理性に従いながら、創造主の英知の望みである真の善に基づいて形づくっていきます。悪い影響を受けやすい人や、自らの判断を好んだり、権威ある教えを拒否するという罪の誘惑に陥りやすい人には、良心の教育が不可欠です。

良心の教育は一生涯の務めです。良心の教育によって、幼いころから、子供たちは倫理的良心によって知らされた心の中にあるおきてを認識し実行できるようになります。賢明な教育によって徳がしつけられ、恐れや、自己愛(利己主義)、高慢、人間的弱さや過ちから生じる罪責感に基づく怒りや自己満足などから守られ、いやされます。良心の教青は自由を保証し、心の平和を生みだします。

良心の形成にあたっては、神のことばがわたしたちの道を照らしてくれます。これを信仰と祈りとをもって吸収し、実践しなければなりません。さらに、キリストの十字架に照らしてわたしたちの良心を究明しなければなりません。わたしたちは聖霊のたまものに支えられ、他の人々のあかしや助言に助けられ、教会が認可した教えによって導かれるのです。

3 良心に従って生活する

倫理的選択を前にした良心は、理性と神法とに基づいた正しい判断を下すことも、反対に、それとは異なる誤った判断を下すこともありえます。

人間は時として、倫理的判断が不確かなものとなり、決定を下すのが困難な状況に立たされることがあります。しかし、いつも、正しいこと、よいことを求め、神法のうちに表された神の意図を識別しなければなりません。

そのために人間は、それまでの経験と時のしるしとを、賢慮の徳や、思慮深い人々の助言や、聖霊およびそのたまものの助けなどによって理解するように努めます。

あらゆる場合に適合する幾つかの基準があります。
――よい結果を求めて悪を行うことは、決してゆるされません。
――「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7∙12)56という「黄金律」。
――愛徳はつねに、隣人とその良心とを尊重することを前提とします。「兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(一コリント8∙12)。「あなたの兄弟の妨げ、つまずき、やる気をなくさせる機会となるようなことはしないほうがよい」(ローマ14∙21プルガタ訳)。

誤った判断

人間はつねに、自分の良心の確かな判断に従わなければなりません。故意に良心に反して行動するならば、自分で自分を断罪することになります、とはいえ、倫理的良心が無知の状態にあって、これからしなければならない行為もしくはすでに行った行為についての誤った判断を下すこともあります。

この無知はしばしば、本人の責任に帰せられます。「真と善の追求を怠り、罪の習慣によってしだいに良心がほとんど盲目になってしまった」ときがそうです。このような場合は、人は自分が犯した悪の責めを負います。

キリストやその福音を知らないこと、人々からの悪い模範、情念のとりこ、良心の独立についての誤った考え、教会の権威やその教えを拒否すること、回心や愛の欠如などは、倫理的行為における判断を誤らせる原因となりえます。

これに反して、避けることのできない無知や、倫理的主体の責任とはいえない間違った判断などに基づく場合は、犯した悪の責めはその人には帰せられません。しかし、これが一種の悪であり、善の欠如、秩序の逸脱であることに変わりはありません。したがって、倫理的良心の間違いを正すように努力しなければなりません。

正しく清い良心は、真の信仰によって照らされます。愛は「清い心と正しい良心と純真な信仰とから」(一テモテ1∙5)生じるものだからです。
「正しい良心が力を持てば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになります。」

要約

「良心は人間の最奧であり聖所であって、そこでは人間はただ一人神とともにあり、神の声が人間の深奧で響きます」。

倫理的良心とは、具体的行為の倫理的善悪を見分ける理性の判断です。

悪いことをした人にとっては、良心の判断が回心と希望の保証となり続けます。

よく形成された良心は、正しくて誠実です。理性に従いながら、創造主の英知の望みである真の善に基づいて判断を下します。一人ひとりの人閭が自らの良心を形成するための手段を講じなければなりません。

倫理的選択を前にした良心は、理性と神法とに基づいた正しい判断を下すことも、反対に、それとは異なる誤った判断を下すこともありえます。

人間はつねに、自分の良心の確かな判断に従わなければなりません。

倫理的良心は、無知の状態にあったり、間違った判断を下したりすることがあります。この無知や誤りは、必ずしも賁めを免れるわけではありません。

神のことばがわたしたちの道を照らしてくれます。これを信仰と祈りとをもって吸収し、実践しなければなりません。こうして、倫理的良心が形づくられていきます。