6書 4章 ゲッセマニにおける祈り。どのようにマリアはそれに与ったか

主イエス・キリストが御聖体の秘跡を制定され、最後の晩餐も終わったあと、聖母は御子にお会いになります。御二人は見つめ合ったまま、悲しみの剣で心を突き通されます。主は神の威厳と溢れるばかりの愛情をもって御母に話されます。「母上、一緒に苦しみましょう。二人で永遠の御父のみ旨と人間の救いを成就しましょう」。御母はその言葉に同意し、主の祝福を願います。祝福を頂いたあと、御母は控えの間に戻り、主の御殉難の全てを神の特別なお計らいにより見ることになります。このようにして御母は、御子のそばにつきっきりで協力することができました。主は十二人の使徒たちと共に高間を離れ、オリーブ山に向かわれます。ユダは主や使徒たちの後ろをのろのろ歩きます。皆から見えなくなったとき、ユダは来た道を引き戻し、自分自身の滅亡に突進します。一方、主の一行がオリーブ山を登り、ゲッセマニの園に着いたところで、主は使徒たちに言います。「ここで待ちなさい。わたしが向こうへ行って祈っている間、あなたたちも祈りなさい」(マタイ二十六・三十六)。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(ルカ二十二・四十)。主は八人の使徒たちをそこに残し、聖ペトロ、聖ヨハネ、聖ヤコブを他の場所に連れて行きました。主は、永遠の御父の方に向かい御父を賛美し、人類の救いのため、御父のみ旨、すなわち、主の犠牲が行われることを祈りました。この時から、あらゆる慰めも助けも主から取り除かれたので、御受難はもっとも過酷なものになりました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ二十六・三十八)。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二十六・三十九)。主の御苦しみは、主の愛の大きさと、人々が主の御受難と御死去の功徳を気にしないことに比例しています。その苦しみは血の汗となって表されます。主の御苦しみにより獲得された恩恵は、拒まない人たちに与えられ、聖人や義人には多く与えられました。さて、御母は、高間で聖なる婦人たちが一緒でした。御母は神の啓示により、御子がゲッセマニの園で祈っておられる様子が大変よく見えました。御母は、婦人たちに誘惑に負けないためによく祈るように勧めます。そして御父に、あらゆる感覚的・霊的慰めを全く失くしてしまうようにお願いします。御父はその願いを叶えたため、御母は、御子の受ける同じ苦痛を受けることができました。御母は無限の苦痛により何回でも死んでもおかしくなかったのですが、御父は、御母がその苦痛により死ぬことをお許しになりませんでした。御子と共に死ねないことが、御母にとり一番の苦痛でした。「私の魂は悲しいです。私の愛しい御子が苦しみ、死のうとしているのに、御子の死に私があずかることが私に許されていないからです」。御母は御子と共に祈り、人々の堕落、永遠の救いか滅亡かの神秘を知り、血の汗を流されます。主が天使の訪問を受けたように、御母も天使の訪問を受けます。天使が伝えた御父のみ旨は全く同じでした。そして二人の祈りも悲しみも全く同じでした。イエスは三度目に三人の使徒たちのところに戻って来ると、三人は眠っていました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(マルコ十四・四十一)。これを聞いて使徒たちは起き上がり、主と一緒に八人の使徒たちのところに行きました。八人は悲しみにうちひしがれて眠っていましたが、起き上がります。兵士たちがこちらに向かって進んできます。主は彼らに会うため前に進みます。心の中で信心深く祈ります。「ああ、心の底から待ち望んだ苦痛、傷、侮辱、困難と恥辱に満ちた死よ、私のところに来なさい。早く来なさい。人の救いのために燃える愛の火は、最も潔白である私に会うことを望んでいます。全ての苦しみよ、私は、あなたたちの真の価値を知っているので、あなたたちを最高の威厳で高めます。死よ、来なさい。死に値しない私が死を受け入れるのは、私が死にうち勝ち、罪のために死刑となった人たちに命を与えるためです。私の友が私を棄てることを許します。友のために勝利するために、私は一人でこの戦いに臨みます」(イザヤ五十三・三)。祈っている主に、ユダは走りより、主の御顔に偽りの平和の接吻をして言います。「主よ、神があなたをお救いくださいますように」。御母は幻視により、主の捕縛の様子をそこに居合わせた人たちよりもっと明らかに見ました。祭司長の館で兵士たちや召し使いたちが、自分たちの創造主を侮辱する様子もよく見ました。御母は天使たちと婦人たちに、一緒に主を崇め、侮辱を少しでも償いように頼みました。御母は、主が囚人となり、最も残酷な仕打ちを受けることになると婦人たちに伝えます。婦人たちは御母を見倣い、跪いたりひれ伏したりして、創造主の無限の神性と人性を心の底から賛美します。聖母は主を賛美し・崇拝し、悪意の人々の不敬や暴力の償いをします。主が縄や鎖で縛られ、殴られているとき、御母も同じ苦痛を受け、それを喜んで耐え忍びました。