第4項 人間行為の倫理性

自由は人間を倫理的主体とします。熟考の上で何かを行うならば、人間はいわば自分の行為の生みの親となります。人間的行為、すなわち、良心の判断に基づいて自由に選択した行為は、倫理的な評価を伴う、正しい行為あるいは悪い行為なのです。

1 倫理性の諸源泉

人間的行為の倫理性は、次のことがらに基づきます。
――選択した対象。
――目指した目的、または意向。
――行うときの状況。
対象、意向、および状況の三つが、人間行為の倫理性の「源泉」、すなわちその構成要素となります。

選択した対象とは、意志が熟考した上で向かう善であり、人間的行為の要素となるものです。意志行為の倫理性は、その対象が真の善にかなうか否かを理性がどう認識し判断して選択したかによって決まります。倫理の客観的基準とは、良心が示す善∙悪の理性的な尺度を表すものです。

対象とは違って、意向は行為の主体自体と関係するものです。意向とは何かをしたいという自主的な気持ちによって生まれ、目的を定めてある一定の行為をしようと決定するものなので、行為の倫理的評価における本質的な要素となります。目的とは意向の中で第一に目指されるもので、行為の目標となるものです。意向とは目的に向かう意志の動きで、行為の目標を見定めるものです。そして、行為を始めるときに目指していた善に焦点を合わせます。また、わたしたちの個々の行為の方向だけではなく、多様な行為を同じ目標に向けて秩序づけることができるし、全生活を究極目的に向けることもできます。たとえば、隣人を助けるために行った奉仕を、同時に、わたしたちのすべての行為の究極目的である神への愛に駆られたものとすることも可能なのです。同じ一つの行為が、幾つかの意向から出ることもありえます。好意を得るため、あるいは見えのために人に尽くす、というような場合がそうです。

よい意向(たとえば隣人を助けるという意向)を持っているというだけでは、それ自体として正しくない行為(うそや悪口など)をよいものにも正しいものにもすることはありません。目的が手段を正当化することもありません。ですから、国民を救うための手段として、無実の者に有罪の判決を下すことを正当化することはできないのです。逆に、悪い意向(たとえば見え)で行われるならば、本来はよい行為でありうるもの(たとえば施し)を悪い行為にしてしまいます。

状況や結果は、倫理行為の二義的要素です。これらは人間的行為の善∙悪を増大させたり減少させたりします(たとえば盗みの額)。また、行為者の責任を軽くしたり重くしたりもします(たとえば死の恐怖に駆られて行動すること)。ただし、状況それ自体が行為そのものの倫理的な質を変えるということはありえません。それ自体が悪いことであれば、よい行為にも正しい行為にもなることはありえません。

2 よい行いと悪い行い

倫理的によい行いであるためには、その対象、目的、および状況もよいものでなければなりません。悪い目的は、対象がそれ自体としてはよい場合でも行為を悪いものにします(たとえば、人から見られるために祈ったり断食したりすること)。
選択の対象となるものの中には、それ自体で行為全体を悪いものにするものもあります。それを選択することはどんな場合でも誤りであるという具体的な行為があります。たとえば、私通がこれにあたります。なぜなら、これらの選択には意志のゆがみ、すなわち倫理的悪を伴うからです。

したがって、人間的行為の倫理性を、それを行わせる意向、あるいはそうさせる状況(環境、社会的圧力、恐れ、あるいは行為の必要性)だけを考えて判断することは間違っています。状況や意向とはかかわりなく、その対象のためにそれ自体としてっねに重大な罪となる行為があります。冒濱、偽証、殺人、姦通などがそうです。よい結果を得させるために悪を行うことはゆるされません。

要約

対象、意向、および状況の三つが、人間的行為の倫理性の「源泉」です。

意志行為の倫理性は、その対象がよいか悪いかを理性がどう認識し判断して選択したかによって決まります。

「よい意向で行われた悪い行為を正当化することはできません」。目的が手段を正当化することはありません。

倫理的によい行いであるためには、その対象、目的、および状況もよいものでなければなりません。

それを選択することはどんな場合でも誤りであるという具体的な行為があります。なぜなら、これらの選択には意志のゆがみ、すなわち倫理的悪を伴うからです。よい結果を得るために悪を行うことはゆるされません。