7 悔い改める者の行為

「ゆるしの秘跡は罪びとに、この秘跡のすべての要素、すなわち、心には痛悔、口には告白、行動にはまったき謙虚さ、あるいは実りのある償いを進んで受け入れることを求めます。

痛悔

悔い改める者の行為としては、まず痛悔が挙げられます。それは「罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことであり、今後再び罪を犯さないという決心を伴うものです」。

すべてを超えて愛すべき神への愛に基づく痛悔は、「完全な」痛悔(愛による痛悔)と呼ばれます。このような痛悔をするならば小罪のゆるしが得られ、また、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心がそれに伴うならば、大罪のゆるしも得られます。

「不完全な」痛悔(あるいは「後悔」)といわれるものもまた、神のたまものであり、聖霊の促しによるものです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは永遠の罰や罪びとが受けるその他の罰に対する恐れなどから生じるもの(恐れによる痛悔)です。良心のこのような動きから、ゆるしの秘跡によって成し遂げられる恵みの働きのもとでの心の変化が始まる可能性があるのです。不完全な痛悔だけでは大罪のゆるしは得られませんが、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを得るための心の準備となります。

ゆるしの秘跡を受ける準備として、神のことばに照らして良心の究明を行うことが勧められます。そのためにもっとも適切な指針は、神の十戒や福音書の教え、使徒たちの手紙に記された倫理的な教えなどに見いだされます。たとえば、山上の説教や使徒たちの訓戒などです。

罪の告白

罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、わたしたちに解放感を与え、他の人々との和解を容易にしてくれます。人は告白によって、自分の犯した罪を直視します。そしてその責めを負うだけではなく、再び神と教会共同体とに向かって心を開き、自分の新たな未来を可能にします。

司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的な要素の一つです。「悔い改める者は告白の際に、真剣に究明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知る者がだれもいないときも、あるいは十戒の第九戒と第十戒とに背いただけであってもです。なぜなら、時として、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも霊魂を深く傷つける、より危険なものだからです」。
「キリスト信者は思い出したすべての罪を告白し、神のあわれみを受けるために打ち明けるように努めなければなりません。もしこれと反対に、故意に大罪を告白しないときには、司祭を通じて与えられる神のゆるしは与えられません。『もし病入が、恥ずかしがって自分の傷を医者に見せなければ、医者は自分が知らない傷を治すことはできない』からです」。

教会のおきてに従えば、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも一年に一回忠実に告白する義務を有する」のです。大罪を犯したことを自覚している人は、前もってゆるしの秘跡を受けていない限り、たとえ心底から痛悔しているにせよ、聖体を拝領することはできません。ただ、拝領するための重大な理由があり、また、聴罪司祭に近づくことのできない場合はこの限りではありません。子供は初聖体を受ける前に、ゆるしの秘跡を受けなければなりません。

日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています。小罪の定期的な告白はわたしたちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによっていやされ、霊的生活において向上していく助けとなります。わたしたちはこの秘跡を通して頻繁に御父のあわれみのたまものをいただくことによって、御父のようにあわれみ深くなるよう促されるのです。
「自分の罪を告白する者は、すでに神とともに行動しています。神があなたの罪をとがめておられます。あなたもまた、自分の罪をとがめるなら、あなたは神とともに行動しているのです。人間と罪びととは、いわば二つのものです。人間、それは神ご自身が造られたものです。罪びと、それは人間が作ったものです。あなたが作ったものを壊しなさい。そうすれば、神は神ご自身が造られたものを救ってくださいます。……自分のしたことが嫌になり始めたら、そのとき、あなたのよい行いが始まります。自分の悪い行いをとがめているからです。よい行いの始まりは、悪い行いの告白です。あなたは真理を行い、光の方に来ます」。

償い

多くの罪は隣人に害を与えます。それを償うために、できるだけのことをしなければなりません(たとえば盗んだものを返す、中傷された人の評判を回復する、与えた傷の補償をするなど)。これは正義の上からも要求されることです。しかしそれにもまして、罪は罪びと自身だけではなく、神や隣人とのかかわりを傷つけ、弱めます。秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」ともいいます。

聴罪司祭が科す償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくにわたしたちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります、キリストはお一人でわたしたちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが、このような償いは、そのキリストにわたしたちが似た者となれるよう助けてくれます。わたしたちはこの償いによって、復活されたキリストとの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「ともに苦しむ」(ローマ8∙17)からです。
「しかし、わたしたちの罪のために果たす償いは、キリスト・イエスによるものであるから、わたしたちのものでないということではありません。なぜなら、わたしたち自身では何もできませんが、『わたしたちを強めてくださるかた』の協力によって『わたしたちはすべてができる』からです。わたしたち自身は何も誇るものを持ちませんが、わたしたちの栄光はキリストの中にあります。そのキリストの中でわたしたちは……罪を償い、『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』のですが、それはキリストの力から出たものであり、キリストによって父にささげられ、キリストを通して父に受け入れられるのです」。