6 悔い改めと和解の秘跡

罪とは、何よりも神への反抗であり、神との交わりを断つことです。同時に、罪は教会との交わりをも損ないます。したがって、回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。それはゆるしと和解の秘跡によって実現されますが、その典礼もそのことが分かるような形になっています。

神だけが罪をおゆるしになる

神だけが、罪をゆるすことがおできになります。イエスは神の御子であられるので、ご自身のことについて、「人の子〔は〕地上で罪をゆるす権威を持っている」(マルコ2∙10)といわれました。そして、「あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)ということばをもって、神のこの権能を行使しておられます。さらには、神としてのご自分の権威によってある人々にこの権能を与え、ご自分の名でそれを行使させられるのです。

キリストはご自分の尊い血によってわたしたちのためにゆるしと和解を手に入れてくださいましたが、教会全体が自分たちの祈り、生活、行動を通して、そのゆるしと和解のしるしとなり道具となることを望まれました。それにもかかわらず、キリストはゆるしの権能の行使を、使徒たちにおゆだねになりました。彼らは「和解のために奉仕する任務」(ニコリント5∙18)を授かったのです。使徒たちはキリストの代理者として派遣されていますが、その使徒たちを通して「神と和解させていただきなさい」(ニコリント5∙20)と勧め、嘆願しておられるのは、神ご自身なのです。

教会との和解

イエスは宣教活動の間、人の罪をおゆるしになられたばかりでなく、そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。イエスが罪びとたちをご自分の食卓に招かれたばかりでなく、ご自身も罪びとたちの食卓に加わられたことが、その明白なしるしです。それは、神のゆるしと神の民が住む入り江への帰還とを強く表す行為でした。

キリストは、罪をゆるす権能を使徒たちにゆだねながら、罪びとを教会と和解させる権能をもお与えになります。使徒たちの務めのこの教会的側面は、キリストがシモン∙ペトロにいわれた次の荘厳なことばにとくに表れています。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)。「ペトロに与えられたこの結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられました」(マタィ18∙18、28∙16-20参照)。

つなぐと解くという語には、あなたがたが共同体から退ける者は神との交わりからも退けられ、あなたがたが再び共同体に迎え入れる者を、神もまたご自分との交わりに迎え入れるでしょう、という意味があります。教会との和解は神との和解と切り離すことができません。

ゆるしの秘跡

キリスドはゆるしの秘跡を、ご自分の教会に属するすべての罪びとのために制定なさいました。まず第一に、洗礼後に大罪を犯して洗礼の恵みを失い、教会の交わりを傷つけた人々のためです。ゆるしの秘跡は罪びとに、回心し、再び義とされる恵みを見いだす新たな可能性を提供するものです。教父たちはこの秘跡を、「恵みの喪失という難破の後に投じられる、〔救いの〕二枚目の板」と呼んでいます。

時代の流れとともに、教会がキリストから受けたゆるす権能の行使の具体的な方法はかなり変わりました。古代においては、洗礼後にとりわけ重大な罪(たとえば、偶像崇拝、殺人、姦通)を犯したキリスト者の和解は、非常に厳しい規則に従って行われました。つまり、悔い改める者は和解を受ける前に、自分の犯した罪の公の償いを、しばしば長年月にわたって行わなければなりませんでした。この「贖罪者団」(ある種の重大な罪だけに限られていた)に入ることはまれにしかゆるされず、教会のある地方では、生涯にただ一度だけゆるされていました。7世紀に、東方の修道生活の伝統の影響を受けたアイルランドの宣教師たちが、ヨーロッパ大陸に「個人的な」悔い改めの慣行を導入しました。それは、教会との和解を受ける前に公の長期の償いを果たすことを要求しないものです。以後、ゆるしの秘跡は悔い改める者と司祭との間で、ひそかに行われるようになります。この新しい慣行に従って、ゆるしの秘跡を繰り返し受けることがゆるされ、こうしてこの秘跡を定期的に繰り返し受ける道が開かれました。また、大罪と小罪のゆるしが一度の秘跡で与えられることを可能にしました。今日まで教会が行ってきたゆるしの秘跡の形は大体この線に沿っています。

ゆるしの秘跡の規定や祭儀は時の流れとともにいろいろと変わってきましたが、それでも同じ基本的構造が認められます。そこには二つの本質的要素が含まれています。その一つは、聖霊の働きのもとに回心する人間の行為、すなわち、痛悔、告白、償いであり、他の一つは、教会の仲介による神の行為です。教会は司教と司祭たちを介し、イエス・キリストのみ名によって罪のゆるしを与え、償いを定めますが、また同時に、罪びとのために祈ったり、罪びととともに償いを果たしたりもします。こうして、罪びとは再びいやされて、教会の交わりに迎え入れられます。

ラテン教会で用いられる罪のゆるしのことばは、この秘跡の本質的要素を表しています。つまり、あわれみ深い御父があらゆるゆるしの源泉であり、この御父が御子の死と復活、聖霊のたまもの、教会の祈りと奉仕職とを介して、罪びととの和解を実現してくださるのです。
「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通して、あなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」。