10 免償

教会における免償の教えと実践とは、ゆるしの秘助の効果と密接に結びついています。

免償とは何か

「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します」。
「免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償と全免償とに分けられます」。「すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または〔代薦の様式で〕死者に付与することができます」。

罪の結果として生じる苦しみ(罪の罰)

教会のこの教えと実践とを理解するには、罪が二つの結果をもたらすことを理解する必要があります。大罪はわたしたちの神との交わりを断ち、その結果永遠のいのちを受けることを不可能にします。この状態は、罪の結果として生じる「永遠の苦しみ(罰)」と呼ばれます。他方、小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。人はこの愛着から、この世であるいは死後、清められなければなりません。死後の清めの状態は煉獄と呼ばれます。この清めによって、人は罪の結果として生じる「有限の苦しみ(罰)」といわれるものから解放されます。この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。熱心な愛に基づく回心は罪びとの全面的清めをもたらすことができ、その結果いかなる苦しみ(罰)も存続しなくなります。

罪のゆるしと神との交わりの回復は、罪の結果である永遠の苦しみを取り除きます。ただし、有限の苦しみは残ります。キリスト者は、あらゆる種類の苦しみと試練に耐え、死の日が訪れたときには平静に死を迎えて、罪の結果である有限の苦しみを恵みとして受け入れるように努めなければなりません。また、愛の実践、慈悲のわざ、さまざまな償いの実行によって、「古い人」をまったく脱ぎ捨て、「新しい人」を着るように励むべきです。

聖徒の交わりの中で

自分の罪を清め、神の恵みに助けられて聖となることを求めるキリスト者は、一人でいるのではありません。「神の子らのそれぞれのいのちは、キリストにおいて、キリストによって、他のすべてのキリスト者である兄弟姉妹のいのちに感嘆すべきしかたで結ばれ、神秘的なかたであるキリストの神秘体の超自然的な一致のうちにあります」。

聖徒の交わりのうちにある「信者たち一天上の祖国にある人々、清めのために煉獄にある人々、まだこの世の旅路にある人々の間には、愛の不断のきずなとあらゆる善の豊かな分かち合いとが存在します」。この感嘆すべき分かち合いの中で、ある人の聖性は、他の人の罪が周りの人々に対して引き起こす損害よりはるかに多く周りの人々に益をもたらします。ですから、痛悔した罪びとは聖徒の交わりのおかげで、罪の結果として生じる苦しみから速やかに、効果的に解放されることができます。

聖徒の交わりのこのような霊的善はまた、教会の宝とも呼ばれます。「それは世紀を重ねて積み上げられた物的財産のような宝ではなく、人類が罪から解放されて御父との交わりを持つようになるためにささげられた、主キリストのあがないと功徳とが神のもとに持つ、無尽蔵の宝です。わたしたちのあがない主であるキリストのうちには、その偉大なあがないの償いと功徳とがあふれるほどに存在するのです」。

「この宝に属するものとしてはまた、聖なるおとめマリアやすべての聖人たちが神の御前でささげる祈りや善行などの、はかりしれないほど大きく、つねに新たな功徳があります。聖人たちはキリストの恵みによってその後に従いながら自分たち自身を聖化し、御父からゆだねられた任務を果たしました。こうして彼らは、自分自身の救いに努めながら、神秘体の中で結ばれた兄弟姉妹の救いにも寄与してきたのです」。

教会を通して神からの免償を得る

免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個入の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト者を助けるだけではなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです。

清めの状態にある死者も同じ聖徒の交わりの中にある人々ですから、わたしたちは彼らの手助けをすることができます。罪のために受けなければならない有限の苦しみから解放されることを願って死者のために免償を得る、という方法がとくに勧められます。