キリストに倣いて 4巻 テキスト+朗読

1・どれほどうやうやしくキリストを拝領せねばならないか。

「これらは同じ時に語られたものではなく、また同じところで言われたものでもありませんが、いずれも、永遠の真理なるキリストの御言葉です。それはあなたの真実の御言葉ですから、私はそれを、忠実な真実な心をもって受けねばなりません。それは、私の救いのために仰せられた御言葉ですから、また私の言葉でもあります。私は、喜んでそれをあなたから受け、ふかく私の心に刻みつけましょう。仁慈と喜びと愛とに満ちた御言葉は、私をはげましてくれます。しかし、私の罪は私をおそれさせ、けがれた良心はこの尊い玄義の理解をさまたげます。御言葉の甘美さは私をひきつけますが、しかし私はおびただしい悪に押さえつけられています。あなたと共に遺産を受けるために、信頼をもって近づけと、あなたはお命じになります。永遠の生命と光栄を得ようと望めば、、不滅の糧を受けよと、あなたは私におすすめになります。「労苦をする者、重荷をおう者は、すべて私のもとに来るがよい、私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11・28)と仰せになります。主なる神よ、乏しい者、貧しい者に、聖なるお体を拝領せよと招いてくださるその御言葉は、罪人の身に実にありがたいことです。しかも、あえてあなたに近づこうとするこの私は何者でしょうか?天の広大さもあなたを入れるに足りないのに、あなたは「私に近寄れ」と仰せられるのですか!慈悲深い寛容と、愛にみちた招きはどんな意味でしょうか?私は何一つ善をした覚えはないのに、どうしてあなたに近づけましょう。御前にあってしばしば罪をおかしたのに、どうしてあなたを私の住まいにいれられましょう!天使と大天使とが、御前にあっておそれかしこみ、聖人も御前にあって畏れおののくのに、そのあなたが私に向かって、「近寄れ」と仰せられるのですか?あなたが仰せられた御言葉でなければ、誰がそれを信じましょう。あなたのご命令でなければ、誰があえて近づけましょう。義人ノアは、少数の人々と共に救われるために、百年もかかって箱舟を造りました。それなのに私は、一時間で、適当にうやうやしく全宇宙のつくり主をうけようとするのです。偉大な下僕であり、あなたが特に愛された友人のモーゼは、律法の板をおさめるために、貴い木を使って聖櫃をつくり、それを純金で覆いました。それなのに、みじめな人間にすぎない私は、最高の立法者であり生命の本源であるあなたを、これほど容易に受けようとするのでしょうか。イスラエルの諸王のなかで、知恵に富んだソロモンは、み名をあがめるために、壮麗な神殿を七年かかってつくり、八日間奉献を祝い、平和の生贄を一千頭捧げ、らっぱのひびきと歓呼のうちに、契約の櫃を定めの場所に荘厳に安置したのでした。それなのに、たった半時間さえも敬虔に準備できない私が、―ああ、半時間でなくとも、せめて何分かでも適切な準備をしたいものだ。人間のなかでも最も貧しく哀れな私が、どうしてあなたをこの住居にむかえられましょう。私の神よ、これらの人々は、あなたに喜ばれるために、どれほど努めたことでしょう。それなのに、私のするのは、どんなに少ないことでしょう!あなたを受ける準備をするのに、どんなに短い時間ですませることでしょう!私には、完全にあなたを思うときは少なく、気をちらさないときは殆どないといってよいのです。それにしても、救いをもたらすあなたの神性がくだるときは、不適当な考えをすべて捨て、どんな被造物のことも忘れていなければならないはずです。そのとき私が受けるのは、一人の天使ではなく、天使たちの主を、住まいに迎えるからなのです。実に、契約の櫃とそのなかの尊いものと、至聖のお体とその限りない聖性との間には、大きなへだたりがあります。未来の前表であったその生贄と、昔の生贄の実現であるあなたのお体の生贄との間には、何というへだたりがあることでしょう。それなのに、なぜ私は、礼拝すべきあなたの御前にあって、これ以上燃え立たないのでしょう?昔の太祖と預言者、諸王、諸君主、全人民は、深い敬虔をもって神を礼拝したのに、なぜ私は、聖なる秘跡を、深い熱心をもって準備しようとしないのでしょう?敬虔なダビデ王は、その昔、先祖たちに与えられた恩恵を思い、聖櫃の前で一心に舞い、楽器をつくらせ、詩編を記し、それを歌わせ、自分でもしばしば聖霊にうながされて、喜びのうちに竪琴をとって歌い、全身をあげて神を賛美し、日々声を合わせて、神を祝し讃えよとイスラエルの人々に教えました。昔、それほどの敬虔があらわれ、契約の櫃の前に、神への賛美がのぼっていたのなら、キリストの聖体の秘跡を拝領するとき、私に、そしてすべてのキリスト信者の心に、心からの、敬虔と熱心とがなければならないのです。人は、聖人の遺物を見るために各地を訪れ、その功績を聞いて感嘆し、荘厳な大聖堂に目をみはり、絹と黄金とにつつまれている遺骨に接吻します。しかし、ここ、私のかたわら、祭壇の上に、いと聖なるあなた、人類の創り主であり、天使たちの主なる神がおいでになります。巡礼の場合は、しばしば人間的な好奇心と、新しいものを見たい望みにかられがちであって、そのために、特に軽薄な行動に流れやすく、まことの痛悔もなく、生活を改める効果も生じないのです。しかし、ここ、祭壇の秘跡では、あなたがそのまま、神としてそして人間キリスト・イエスとして(テモテ前2・5)完全においでになります。ここで、適切な敬虔をもって聖体を拝領すれば、そのたびに、永遠の救いへの、豊かな実が結ばれます。人は、軽薄、好奇心、官能の快さのためにこの秘跡にひかれることはありません。そこにひきつけるものは、固い信仰、熱い希望、真実な愛徳にほかなりません。全宇宙の創り主よ、かくれた神よ、私たちに対する御業はなんとおどろくべきことでしょう!秘跡において御自身をお与えになる選ばれた者たちに対して、どれほどのやさしさと憐みとをお示しになることでしょう!実にそれは、私たちの理解の及ばぬところで、あなたを愛する者たちの心をひきつけ、その愛を燃え立たせます。生涯にわたって悔い改めに努める誠の信者は、この至聖の秘跡から、信心の偉大な恵みと、徳への愛とをくみとるのです。ああ、秘跡の感嘆すべくひそかな恵み!それは、キリストの忠実な弟子のみの知ることであり、無信仰のもの、罪の奴隷である者に経験できません。この秘跡によって恵みが与えられ、失われた徳と、罪によって汚された美とが霊魂にもどります。その恵みは偉大なものですから、うけた敬虔がみちあふれ、心だけではなく、弱い体さえも力づくのを感じます。しかし、私たちは自分の生ぬるさと怠慢とを悲しみ、嘆かねばなりません。私たちには、救われる人々の依り頼みであり、功徳であるキリストを、拝領しようという熱望が欠けているのです。主はまことに、私たちのあがないと成聖(コリント前1・30)であり、旅人である私たちの慰めであり、聖人の永遠の喜びです。天を喜ばせ、全世界を救うこの救いの奥義を、多くの人が無視するのは、悲しいことです。この偉大な賜を尊ばず、日々それを受けていながら殆どそれに注意しないのは、人間の心の盲目さと頑なさをあらわしています。この秘跡が、全世界でただ一か所、ただ一人の司祭によって捧げられるなら、神の秘跡を見ようとして、人々は、そのところの神の司祭のもとに集い寄るでしょう。しかし今、多くの司祭があり、多くのところでキリストが捧げられているのは、聖体が全世界に多く捧げられれば捧げられるほど、人間への神の愛と恵みとがあらわれるからなのです。聖体とおん血をもって、貧しいさすらい人の私たちを養い、「労苦する者、重荷を負う者はみな来るがよい、私はあなたたちを休ませよう」(マタイ11・28)との御言葉によって、この秘跡を受けよと招く永遠の牧者イエス、あなたに感謝いたします」。

2・聖体の秘跡において、神の仁慈と愛とが人にあらわされる

「主よ、私はあなたの仁慈と慈悲とに信頼し、病人としては医者、飢え乾くものとしては生命の泉、乞食としては天の王、下僕としては主人、被造物としてはつくり主、慰めなきものとしては、慰め主であるあなたに近寄ります。しかしあなた御自身、私のもとを訪れてくださるのですか?(ルカ1・3)。私が何者だから、あなたはご自身を私にお与えくださるのですか?私のような罪人が、どうして御前に出、あなたがどうして罪人のもとにおくだりになるのですか?あなたは、下僕が、その賜を受ける価値のないことを知っておられます。私は、自分のみじめさを告白し、あなたの慈しみを認め、憐れみをたたえ、その愛に感謝します。主よ、あなたのなさることは、私の功徳によるのではなく、ただあなたの慈悲によります。それはあなたの慈しみを、より一層私に知らせ、私の心に一層愛を強め、私の謙遜を一層深めるためです。したがって、それは御心を喜ばせることです。私は、そうせよとご命令になったあなたの恵みを喜び、自分の罪がその妨げとならないように、ひたすら願っています。ああ、慈しみに満ちたイエスよ、私たちはどれほどのうやうやしさ、どれほどの感謝、どれほどの賞賛を捧げなければならないことでしょう!あなたは、人間の想像をゆるさぬ至高の威厳をそなえたお体を、私たちに受けさせてくださいます。私としては、充分な尊敬をあなたに捧げることができません。しかし敬虔に主に近づくとき、その聖体拝領のとき、何を考えるべきでしょうか?御前にへりくだり、あなたの無限の愛をほめたたえる以上の、有益なよい思いがあるでしょうか?神よ、私はあなたを賞賛し、永遠に賛美します。深くへりくだって、自分のみじめさを思い知り、全くあなたに服従します。主よ、あなたは至聖なるお方であり、私はみじめな罪人です。私はあなたに目を上げる価値もないのに、あなたは私のほうにかがんでくださいます。あなたは私に近づいて、私と共にいることを望み、あなたの宴に私を招いてくださいます。あなたは、天の糧、天使のパンを私に食べさせてくださいます。そのパンとは、あなた御自身であり、天からくだって、世に生命を与えるいきているパンなのです(ヨハネ6・33、51)。ああ、神の愛の泉、あなたの寛容の広さ深さ!そのあなたをどう讃え、どう感謝してよいでしょう!私の神よ、この秘跡を定めたのは、ほんとうに私の救いのためでした!ご自身を糧として与えてくださるこの宴の、なんという喜ばしさ!主よ、あなたの御業は、輝かしくあなたの力は強く、あなたの真理は深い!あなたが仰せられれば、すべては行われ、すべてはご命令の通りになります!神なる主よ、まことの神、まことの人であるあなたが、パンとぶどう酒との小さい形の下においでになり、あなたを拝領してもつきないとは、これこそ不思議なこと、信ずべきこと、人のさとりえないことです。何人をも必要とされぬあなたが、その秘跡によって、私たちとともに住もうと望まれるのです(マカベ後14・35)。宇宙の主よ、私が清く喜ばしい心をもって、あなたの秘跡をおこない、あなたが主として、その光栄の不滅の記念として設定された秘跡を、私の永遠の救いのためにふさわしく受けるよう、私の心と体とを汚れなく保ってください。ああ、私の魂よ、涙の谷にあって、あなたの受けるこの尊い賜、ありがたい慰めによって喜び、神に感謝せよ。あなたがこの奥義を繰り返し、キリストのお体を、拝領するたびに、あなたは自分の救いのわざを行い、キリストの徳にあずかるのである。実にキリストの愛は減ずることなく、無限のあがないはつきることがない。だから、常に心を新たにし、この秘跡を受ける準備をし、この救霊の奥義を深く瞑想しなければならない。ミサを立て、ミサを拝聴するごとに、丁度この日、キリストがはじめて乙女の胎にくだって、人間となられたのだ。また、丁度この日、十字架にかかって、人間を救うために苦しまれたのだ、と考え、この奥義の偉大さ、新しさ、喜ばしさを思い返さねばならない」。

3・しばしば聖体を拝領するがよい

「主よ、あなたの恵みを受けるため、また、深い慈悲によって貧しい者のためにそなえた(詩編67・11)聖なるうたげを楽しむために、私はあなたに近づきます。私の望むもの、望むべきものは、すべてあなたのうちにあります。あなたは、私の救い、私の贖い、私の依り頼み、私の力、私のほまれ、私の光栄です。今日、あなたの下僕の心を喜ばせてください。主イエスよ、私は、あなたに心を捧げます(詩編85・4)。今私はあなたを、信心と尊敬とをもって拝領したいと望みます。ザケオのように、あなたに祝福され、アブラハムの子の一人に数えられるために、あなたを、私の住まいに迎えたいのです。私の霊魂は、あなたのお体を待ち、私の心は、あなたとの一致にあこがれています。主よ、あなたご自身をお与えください。そうすれば私は、満ち足ります。あなた以外に真実の慰めはありません。私は、あなたなしにいられず、あなたの訪れなしには生きられません。ですから、私は、しばしばあなたに近づいて、永遠の救いに必要な助けを受けるために、あなたを拝領せねばなりません。この天の糧がなければ、私は、途中で、倒れてしまいます。慈悲深いイエスよ、あなたは群衆に話し、さまざまの病気を治しておられたとき、こう仰せられました。「私は彼らを飢えたまま帰らせたくない、恐らく途中で疲れはてるだろう」(マタイ15・32)と。信者への慰めのために、秘跡においてご自身を残されたように、今、私に対してもそうしてください。あなたは霊魂の糧です。あなたをふさわしく拝領する者は、永遠の光栄にあずかり、その世継となるのです。罪に倒れ、すぐ失望し、力を落とす私には、しばしば祈りと告解と、そして聖体の拝領とをもって、自分を新たにし、浄め、燃え立たせる必要があります。長くあなたを受けずにいると、やがて聖なる決心を忘れてしまうでしょう。人は感覚によって、小さい時から悪にいざなわれやすいものです(創世記8・21)。神の薬の助けがなければ、人間は、悪に傾いてしまいます。しかし、聖体拝領は、人をその悪から遠ざけ、よい道を続けるために励ましてくれます。聖体拝領を行い、ミサをたてる今も、私はまだ義務を怠り、冷淡なのですから、その聖い薬を飲まず、その偉大な助けを求めなかったら、私はどうなることでしょう。私は、日々ふさわしくあなたを拝領する準備がなく、ミサをたてる準備も足りません。がしかし適当な時に、この聖なる奥義にあずかり、この恵みを受ける心構えをするように、努力するつもりです。死すべきこの体をもち、あなたから離れてこの世を旅しつつある間の、忠実な霊魂のただ一つの慰めは、しばしば神を考えて、愛するお方を敬虔に拝領すること以外にないのです。私たちに対するあなたの愛を、何に例えましょう。主であり、神であり、すべての霊のつくり主で、生かすお方であるあなたが、貧しい霊魂にまでくだり、その神性と人性とをもって、霊魂の飢えを満たしてくださるとは!神を敬虔に拝領し、拝領することによって、霊的な喜びに満たされる霊魂と心とは、何と幸福なことでしょう。その霊魂は、偉大な主を受け、貴い客を宿します。喜ばしい仲間、忠実な友、あらゆる愛する者にまさって愛すべきもの、あらゆる慕わしいものにまさって慕わしいお方を抱くのです。甘美な愛よ、御前にあっては、天のものも沈黙せよ、天にある賞むべきもの、賛うべきものは、あなたの仁慈のたまものであり、限りない知恵の、その御名の輝きに、はるかに及ばないものなのです」。

4・敬虔に聖体を拝領する者は、豊かに恵まれる。

「主なる私の神よ、先にあなたの恵み(詩編10・4)を下さり、あなたの尊い秘跡に、ふさわしく近づかせてください。私の心を燃え立たせ、私のものうさを捨てさせ、救いの恵みをもって私を訪れてください(詩編105・4)。そうすれば私は、この聖なる秘跡の、泉のような喜びを、霊魂で味わうでしょう。それを信じ得るように、信仰を強めてください。それは人間の力によることではなく、あなたのなさることです。天使の知恵さえも、及ばないこの事実を、人は自分の知恵だけで理解することも会得することもできません。まして、みじめな罪人であり、塵と灰にすぎない私が、この深い神秘を、理解できるものでしょうか。主よ、私は、心の単純さと、純粋な信仰と、あなたの命令に従う希望と尊敬とをもってあなたに近づき、神として、人間として、あなたがこの秘跡においでになることを、確かに信じます。私があなたを受け、愛によって一致することを、あなたは望んでおられます。ですから私は、あなたの慈悲をこい、特別な恵みをお与えくださるように祈ります。あなたの中に全くとけこみ、あなたへの愛にみちあふれ、他のどんな慰めにも目を向けないようにしてください。この至高至尊の秘跡は、霊魂と身体との救い、霊的な病の薬であって、これによって私の悪は直され、邪欲は抑えられ、いざないは敗け、または亡ぼされ、恵みは豊かになり、徳はますます高まり、信仰は強められ、希望は力づき、愛徳は熱し、そして広がるのです。私の霊魂の慰め、人間の弱さの支持、内的な慰めの与え主である神よ、あなたは、敬虔にお体を拝領する弟子たちに、この秘跡において、多くの善い物を与えつづけてくださいます。あなたは患難のときに慰めを与え、落胆の底からご保護への信頼に引き上げ、新たな恵みをもって心を励まし、照らしてくださいます。こうして、聖体拝領の前に、愛を知らなかった不安な人々は、天の食物と飲み物に力づけられ、自分たちが善くなったと感じます。あなたが、選ばれた者たちにこうしてくださるのは、かれら自身がどれほど弱い者か、あなたからどれほどの恵みを受けるかを、心底から認めさせ、明らかに体験させるためです。彼だけでは、冷たく、固く、不信心なものですが、あなたの助力によって、熱心になり、活発になり、敬虔になります。謙虚な心をもって甘い泉に近寄り、その甘さを受けずに去るものはないでしょう。燃える火のかたわらにあって、その熱を受けない者はないでしょう。そして、あなたは、常に満ち溢れる泉であり、つきることなく燃えさかる火であります。私は、この泉から充分にくめず、あきるほど飲めない人間です。しかし、いくらかでも渇きを癒し、全く渇ききることのないように、その泉の一滴を受けようとして、天の器に近寄ります。私はケルビムやセフィラムのように天まであげられず、神の火に燃え立っていません。しかし、信心を強めようと努力し、謙遜に子の生命の秘跡を拝領することによって、神の愛の焔からいくばかりかの熱を受けようと努め続けます。イエスよ、救い主よ、私の足らないところを、あなたの慈悲と恵みによって補ってください。あなたは「労苦する者、重荷を負う者は、すべて私に来なさい。私はあなたを休ませよう」(マタイ11・28)と仰せられて、すべての人をお召しになりました。私は額に汗して苦労し、心は苦しみもだえ、罪の重荷におさえられ、いざないに悩まされ、邪欲にとりまかれています。私の主なる神、私の救い主よ(詩編24・5)、あなた以外に、私を助ける者はなく(同21・12)、私を解放する者もなく、私を救う者もありません。それゆえ、あなたに、私と私のものすべてを委ねます。私を救い、永遠の生命に導いてください。食物と飲物としてあなたのお体とおん血とを賜うた主よ、御名の誉れと光栄とのために、私を受け入れてください。私の救い主、主なる神よ(詩編26・9)、あなたの秘跡を受けるにしたがって、私の心に敬虔の熱を燃やしてください」。

5・秘跡の尊さと司祭職

「私がもし天使のように清く、洗者ヨハネのように聖徳をもっていても、この秘跡を受け、あるいは扱うにたる者ではありません。キリストの秘跡を扱い、天使のパンを食すること、これは、人の功徳によることではありません。秘跡の偉大さよ、天使にもゆるされない任務を与えられた司祭の威厳の偉大さよ。公教会において、正当に敍品された司祭だけに、ミサをたて、キリストのお体を聖別する権利が与えられました。かくて司祭は、神の役者であり、神の命令と設定とによって、神の御言葉を用います。つまりそこにおいて、神は、主な作者であり、目に見えない行為者であります。神が望む者は、すべて神に従い、命令されたものは、すべて神に奉仕します。だから、この至聖の秘跡においては、自分の五感とその他の見えるしるしよりも、全能の神を信じなければなりません。おそれと尊敬とをもって、この秘跡に近づかねばなりません。司祭の按手によって、あなたにどれほどの聖職がゆだねられたかをよく反省し、理解するがよい(テモテ前4・16、14)。かえりみよ、あなたは司祭に敍品され、ミサを立てるために聖別されました。それなら、聖なる生贄を忠実と敬虔とをもって神に捧げ、万事において咎なき者となるように心掛けるがよい。あなたは司祭職を受けることによって、荷が軽くなったのではなく、一層きびしい規律の束縛を受け、聖徳を更に完全にする義務を担ったのです。司祭は、すべての徳で飾られ、他人によい生活の模範を与えねばなりません。司祭は一般の人が歩む道に従わず、天の天使か、あるいはこの世の完全な人々としたしまねばなりません(注:キリストは、『医者がいるのは健康な者ではなく病人である』と仰せられている。したがってここは、司祭が相手にするのが善人だけという意味ではない。司祭と選ばれた霊魂との親しみはよいが、使徒職としての罪人とのまじわりも、彼らの救いのために、時として義務である)。祭服をつけるとき、司祭はキリストの代理ですから、自分自身とすべての人々のために、謙遜に切に神に祈らねばなりません。また絶えずキリストの受難を思い出すために、祭服の前と後に、主の十字架をつけています。前には、カズラに十字架をつけていますが、それは忠実にキリストの模範をみつめて、熱心にそれをまねるためです。後ろに十字架をつけているのは、他人からの迫害を、神のために忍耐することを学ぶためです。前に十字架をつけているのは、自分の罪に泣くためであり、後ろに十字架をつけているのは、他人の罪をあわれんで泣き、自分が神と罪人との間の仲介者として立っていることを忘れないためであり、神の恵みとあわれみをこい求めて祈り続け、聖い生贄を捧げることを知るためです。司祭がミサをたてるときには、神に光栄を帰し、天使を喜ばせ、教会の徳をたて、生者を助け、死者に休みを与え、自分を天の善にあずからせます」

6・聖体拝領の準備のための祈り

「主よ、私はあなたの偉大さと自分のみじめさを思いくらべて、全身ふるえおののき、恥じ入らざるをえません。聖体に近寄らねば私は生命から逃げるのであり、またふさわしい準備なしに拝領すれば、あなたを侮辱するのです。私の唯一の助けよ(イザヤ50・7)、私の困難のときの指導者なる神よ。主よ、ふさわしい道を教え、聖体拝領に適当な効果的な短い信心をさせてください。あなたのこの秘跡を、救いに効果あるものとするために、どのようにして受ければいいか、この偉大な神の生贄を行うに当たり、自分の心を敬虔にうやうやしく備えるには、どうすればいいかを、知るのは、私にとって役にたつことです」。

7・良心の究明とよくなろうとする決心

「司祭は、この秘跡を行い、取り扱い、拝領するにあたって、何よりも深い謙遜と、最上の尊敬と、信仰と、神のご栄光を乞い願う敬虔な意向をもたねばならない。良心を一心に糾明し、真の痛悔と謙虚な告解によって良心を清めよ、それは一切の大罪の意識と呵責を持たずに、自由な心をもって聖体に近づくためである。あなたの罪を、すべて、全般にわたって痛悔し、特に毎日の過失を嘆き悲しめ。またもし時間がゆるせば、心の中で、ひそかに邪欲の罪を神に告白せよ。嘆き悲しめ、あなたがまだ物質にとらわれ、世間に従っていることを。邪欲がまだ抑えきれず、欲に傾き、五感をつつしまず、しばしば無駄な空想に悩まされていることを。外部の事柄に興味を持ち、内的な事柄をないがしろにしていることを。笑いと娯楽を喜び迎え、涙と痛恨とを好まないことを。安楽と安逸とに傾きやすく、厳しい生活と熱心とを求めるにものういことを。新しいことを聞き、美しいものを見ることを好み、卑しいこと、質素なことを受けるのを嫌がることを。たくさんのものを持ちたがり、与えることを惜しみ、持っているものを握って離さないことを。話すときに軽薄で、沈黙を知らないことを。態度は不謹慎で、過度な行動をとることを。食をむさぼり、神の御言葉に対しては耳が遠いことを。休むのは早く、働くのは遅いことを。無駄話は好んで聞き、祈りのうちに夜をすごす時は眠たがり、早く祈りを終わろうとし、気を散らすことを。聖務日課を唱えるのに怠惰、ミサには冷淡、聖体拝領には無感動であることを。すぐ放心し、ほとんど神を思うことを知らず、怒りやすく、すぐ他人を不愉快にさせ、他人を裁きやすく、きびしく他人を非難することを。幸運のときには狂喜し、不幸のときはすぐ弱りこむことを。しばしばよい決心をたてるが、ほとんどそれを実行しないことを。あなたは嘆き、そして改めなければならない。自分の弱さを思って、切に悲しみ、痛悔し、以上のべたことや、その他の短所を告解して、その後、生活を絶えず向上させ、一層徳に進む固い決心をたてよ。聖なるあきらめを持ち、強い意志をたてて、あなたの霊魂の祭壇の上に、私の光栄のためにたえざる生贄としてあなたを捧げ、あなたの霊魂と心とを全く私にゆだねよ。こうすればあなたは、ミサの生贄をふさわしく捧げ、救いのために私の聖体の秘跡を受けられるようになるだろう。罪を清めるために、ミサと、聖体拝領のときに、キリストのお体と共に自分自身を清い心で捧げるほど、私にふさわしい生贄も、つぐないもないと思え。もし人間が、自分でできるだけの努力をして、真実痛悔するなら、恵みとゆるしを受けようとして私を拝領するたびに、『罪人の死をのぞまず、その改心と更生をのぞむ』(エゼキエル33・12)、『私に近寄れば(と主は仰せられる)私はもはやその罪を思いださず」(ヘブライ10・17)、かえってそのすべてを許すと約束する」。

8・十字架の生贄と、キリストへの自己の奉献

「十字架上に腕を広げ、裸の身でもって私は、自ら進んであなたの罪のために、自分を御父に捧げた。神のお怒りをなだめるために、私は、何物も残さず神にささげた。それと同時にあなたも、日々ミサにおいて、清い生贄として、心の愛と力とをもって、すすんであなた自身を捧げねばならない。私は、あなたが私のために、自分を捧げようと努める以外の、何物も要求しない。あなた自身以外のものは、何一つとして私を喜ばせない。私が望むのは、あなたの捧げものではなく、あなた自身である。あらゆる物を所有していても、私を所有しなければ、あなたは不満足だが、あなたが自分自身を捧げなければ、私としては何を捧げられても喜ばない。自分自身を私に与えよ、神への愛のために、自分のすべてを捧げよ。そうすればあなたの捧げものは受け入れられるだろう。私はあなたのために、父にすべてを捧げた。私は全くあなたのものとなり、あなたの愛となるために、この体をあなたに与えた。もしあなたが、自分を保留し、御旨に自分を捧げようとしないなら、あなたの捧げものは完全ではなく、私とあなたとの一致も完全ではない。だから、あなたが、心の自由と神の恵みとを得たいと思うなら、すすんで自分を神の御手の中に捧げることこそ、何よりも先に行わねばならないことである。神の光に照らされた自由な人が少ないのは、自分を完全に捧げることを知る人が少ないからである。私の言葉は不変である。『持っているすべての物を捨てないなら、その人は私の弟子ではない』(ルカ14・33)と私は言った。あなたが私の弟子になろうと思うなら、あなた自身とあなたのすべての愛を私に捧げよ」。

9・自分と自分のすべてを神に捧げ、すべての人のために祈る

「主よ、天にあるもの、地にあるもの、すべてはあなたのものです。自ら、すすんで自分を捧げ、永久にあなたのものとなることを私は望みます。主よ、純真な心で、今日、永久の下僕として、生贄として、永遠の光栄の捧げものとして、私自身をあなたに捧げます。目に見えずとも、ここにあずかる天使たちの前で、聖体の生贄と一致して、私が今日捧げる生贄をお受けください。この生贄が、私と全ての人々とのために、救いとなりますように。主よ、あなたの贖いの祭壇の上で、私がかつて罪を犯し始めた日より今に至るまで、あなたと聖い天使たちの前でおかしたすべての罪と過失とを捧げます。あなたは愛の火でそのすべてを焼き尽くし、私の汚れを清め、赦免を与え、平和の接吻で、あわれみ深く私を迎え、罪によって失われた神の恵みを再びお与えください。罪を謙虚に告白し、ゆるしをこい願いつつ泣き悲しむ以外に、私に何ができましょう。慈悲をもって私の願いを聞いてください。私は御前にひれ伏してお願いいたします。ああ、神よ!私はおかした罪を切に痛悔し、もはや二度と犯さないと決心します。この罪を生涯悔やみ続け、できる限りつぐないをする覚悟です。ゆるしてください、私の神よ。御名のために、私の罪をゆるしてください。尊い御血によって贖われた私の霊魂を救ってください。私はあなたに依り頼みます。私の悪意と罪とによってではなく、憐れみをもってお扱いください。まことに少なく不完全なものではありますが、私の持つすべての善を捧げます。あなたがこれを清め、聖化し、あなたのお気に召すもの、一層完全なものとし、更にまた、怠惰無用の小さな私を、あなたの誉れと永遠の救いを確保する、かの終点まで導いてください。また、あなたを信じる人々の敬虔な望み、両親・友人・兄弟・姉妹、すべて愛する人々、あなたへの愛のために、私や他の人々に善をしてくれたすべての恩人の必要とするものを捧げます。自分と、自分の愛する人々のために、私の祈りとミサとを願った人々が―まだ生きている人々も、もうこの世にいない人々も、神の恵みの助力と慰安、危険のときの保護、苦痛の解放を味わい、不幸をぬけ出て、喜び勇んであなたに、真心からの感謝を捧げますように。また私の祈りとなだめの生贄を、ときに私を傷つけ、悲しめ、侮辱し、損害か煩いを与えた人々のために、あなたに捧げます。さらに、私がいつか、悲しめ、不安にし、故意か偶然か、言葉と行いとによってつまずかせた人々のためにも捧げます。私たちの罪と相互の過失を、皆に等しくゆるしてくださるように願います。主よ、私たちの心から、猜疑と不快と憤怒と不和とを、そして、愛徳をそこない、兄弟愛を減じる一切のことを遠ざけてください。主よ、あなたの憐みを乞う者をあわれんでください。必要とする者に恵みを与え、私たちをあなたの恵みを受けるに足る者とし、永遠の生命に歩ませてください。アーメン」。

10・聖体拝領を平気で怠ってはならない

「邪欲と悪業を癒され、悪魔のいざないと罠とに対して、よく警戒し、一層強くなろうと思うなら、しばしば、神のあわれみの泉、いつくしみと清さの泉に近づかねばならない。敵は、聖体にどれほどの効果があるかを知っているので、あらゆる方法と機会をとらえて、敬虔な信仰者を、できるだけ聖体から遠ざけよう、妨げようと努めている。そこで、信仰者は、聖体拝領の準備をしようとする丁度そのとき、サタンの悪い誘いに悩まされることがある。ヨブ記(1・6、2・1)に記されているように、悪霊は、例の通りの悪意をもって、神の子たちを動揺させ、恐れさせ、ためらわせる。聖体拝領を全くやめさせるか、少なくとも冷淡にならせようとして人の心にもぐりこみ、神への愛をうばい、突然襲撃して信仰を奪い取る。しかしその悪だくみや、みだらな暗示が、汚らわしく恐ろしくても、それを重視せず、むしろその考えを相手に投げ返さねばならない。浅ましいその霊は、軽蔑と虫と嘲弄を受けるべきものである。私たちを攻撃し動揺させようとしても、そのために聖体拝領をやめてはならない。時にはまた、十分な敬虔を持ちたいと思って心配しすぎたり、告解に不安を抱いたりして、聖体拝領をためらうこともある。このときは、知識のある人々の意見に従い、神の恵みを妨げ、霊魂の信心を壊し去る不安と小心とを、取り去らねばならない。一寸した不安やわずらいがあっても、聖体拝領をやめることなく、できるだけ早く告解しよう。他人から受けた過失を心からゆるし、もしあなたが誰かほかの人に過失を犯したなら、謙遜な心をもって、ゆるしを願え、そうすれば神は、すぐゆるしてくださる。告解や、聖体拝領を後に延期して何の役にたつだろう。できるだけ早く自分の心を清めよ、すぐさま毒を吐き出せ。薬を早く飲め、そうすれば、ずっと爽快になるだろう。もし今日何か理由があって、拝領をやめるなら、明日はもっと重大な理由が起こるかもしれない。こうしてあなたは、長く聖体を拝領しないことになり、聖体拝領のために、一層ふさわしくなる。できるだけ早く、心を重苦しくしているものを下し、不熱心をぬぐい去れ。長く不安のうちにおり、心配な生活をし、日々のあれこれの妨げのために聖体拝領を怠ることは、何の役にも立たない。むしろ聖体拝領を長くしないでいると、大きな損害を受け、危険な冷淡さを必ず生むに違いない。残念なことであるが、信心の生ぬるい、心の散漫な人は、機会を見つけては告解をのばし、聖体拝領を怠り、自分を警戒する義務を逃れようとする。ああ、聖体拝領を平気で怠る人々は、何と乏しい信仰と弱い愛しか持ち合わせていないことだろう。ゆるされるなら、毎日でも聖体拝領できるほど、清く良心を守って生活する人は、何と幸せで、神に喜ばれることだろう。時として謙遜のために、また何か正当な理由があって、聖体をひかえることがあれば、その聖体への尊敬の念はほめられてよい。しかしひかえる場合にも、そこにいくらかでも冷淡があるなら、できるだけ熱心を振るいおこすようにしなければならない。そうすれば主は、そのよい望みを見て(主が一番御目にとめられるのはこれだ)、助けてくださるだろう。正当な理由がある場合にも、せめて聖体を受けたいという熱心な望みと、敬虔な意向を、もたねばならない。そうすれば、秘跡の効果を失うことはない。どんな信者でも、毎日、いつでも、なんの困難もなく霊的に聖体を拝領して、多くの利益を得ることができる。定めの日には、愛と尊敬とをもって、秘跡にこもる救い主のお体を受けるがよい、そのときには、自分個人の慰めよりも、神のほまれと光栄とのためにせねばならない。信者は、キリストご自身の神秘を、敬虔に黙想し、キリストに対する愛を奮い起こすたびに、神秘的なこの宴にあずかり、目に見えない糧を受ける。しかし祝日だけに、あるいは習慣のためだけに、聖体に近寄り人には、適当な準備のない場合がよくある。ミサをたて、あるいは聖体を拝領するたびに、自分を生贄として主に捧げる者は、幸せである。聖なる生贄を捧げる時は、余り早くしてはならないが、長たらしくしてもいけない。これについてはよい人々の習慣にならえ。あなたは他人をわずらわせたり、退屈させたりしてはならない。先人の定めにしたがって、普通どおり行い、自分だけの信心と慰めを目的にせず、他人の利益をかえりみなければならない」。

11・敬虔な霊魂には、キリストのお体と聖書とが必要である

「主イエスよ、あなたと共に、あなたの宴に集まる敬虔な霊魂の楽しみはいかばかりでしょう。そこでは、霊魂にとって望ましいが上にも望ましく慕わしいあなたご自身を、糧としてお与えになります。涙であなたの足をぬらした敬虔なマグダラのマリアのように、あなたの御前で、にごりない涙を流したら、それは私にとって何と喜ばしいことでしょう。しかし、そんな敬虔を、私はどこに持っているのでしょう?どこにそれほど豊かな涙を持っているのでしょう?あなたの天使たちの前にあって、私の心は、愛に燃え、余りの喜ばしさに泣くばかりになりたいものです。この秘跡においてあなたは、形の下に真実においでになるのですから。主よ、もし私が、神としてのあなたの限りない光輝を仰げば、私はその光輝にたえず、そして全世界も、御稜威の輝きを耐え忍べないのです。あなたがこの秘跡の形のもとにおいでになるのは、私の弱さをご存じだからです。私は、天使たちが天において礼拝するお方を、真実に受け、礼拝しています。ただ私は信仰によってあなたの光輝をながめ、天使たちはありのままにそれを眺めます。私の上に永遠の光明の日が訪れ、形の影が消え失せるまで(雅歌2・17、4・6)私は、まことの信仰の光で満足せねばなりません。しかし『完全なものが来るとき』(コリント前13・10)秘跡の必要はもうなくなるでしょう。天の光栄のうちにある聖人には、もう秘跡の必要はないでしょう。天の光栄のうちにある聖人は、もう秘跡という薬を必要としません。彼らは神の現存を限りなく味わい、顔と顔とを合わせてその光輝を眺め、絶妙な神性の反映を受けて、光栄から光栄にと進み、元あったままに、肉体となられた神の御言葉を永遠に味わいます。こうした神秘を考えるとき、どんな霊的な慰めも、私には重苦しい退屈なものに見えてきます。主をありのままに、そのご光栄のうちに眺めるまでは、この世で見ること聞くことは、すべて何の価値もないことばかりです。私が永遠に眺めたいあなた以外のどんなものも、私の慰めにはならず、どんな被造物も私を満足させないことは、あなたがご存じです。しかし、私が朽ちるべきこの体をもっている間は、それは望み得ないことです。故に私は、忍耐をもって固く武装し、私の望みをあなたに従わせなければなりません。今あなたと共に、天で喜びおどる聖人たちも、この世にいた間は、信仰と忍耐とをもって、あなたを待っていました。私も彼らの信じたことを信じ、彼らが期待したことを希望します。彼らが達したところに、あなたの恵みによって、私も達したいと思います。それまでは聖人たちの模範に励まされ、信仰をもって進みます。聖書を、私の慰めとし(マカベ前12・9)、生活のかがみとし、特にあなたの聖体を私の妙薬とし、避難所としましょう。私は、特にこの世で二つの必要なものがあることを痛感します。それがなければこの悲惨な世を、私はしのびきれないでしょう。この肉体の牢獄にいる私は、糧と光りの二つを求めています。そこであなたは、弱い私の体と霊魂の糧として、聖体を与え、私のゆく道を照らす光りとしての御言葉(詩編128・105)を与えてくださいました。この二つがなければ、私は生きることができません。神の御言葉は私の霊の光明であり、秘跡は生命のパンだからです。以上の二つはまた、聖なる教会の宝庫にある二つの食卓です。一つは祭壇の食卓であり、聖パン、すなわちキリストのお体をのせてあります。他の一つは、神の律法の食卓であって、聖なる教えをのせ、正しい信仰を教え、墓をとおして至聖所まで(ヘブライ6・19、9・3)確実に私たちを導いてくれます。あなたの下僕である預言者、使徒、博士たちによって、私たちのために整えてくださった、教えの食卓を思い、永遠の光明の光明なる主イエスに、感謝いたします。全世界にあなたの愛をあらわすために、前表にすぎない子羊ではなく、ご自身のお体と御血とを食べさせる盛んな食卓を準備し、聖なる宴をもって信者すべてを喜ばせ、救いの盃に酔わせてくださる創り主、救い主に感謝します。そこには、天国の歓楽があり、一層うれしいことには、天使たちもここに共に集うのです。聖変化の言葉をもって、御稜威高き主を呼び、自分の口で祝福し、自分の手で受け、自ら拝領し、他人にも分配する司祭たちの聖職は、何と名誉あるものでしょう。その手は清く、その口は汚れなく、その体は神聖、日々清浄の創り主が入るその心は純潔でなければなりません。しばしばキリストの聖体を受ける司祭の口からは、神聖な、真実な、有益な言葉以外は出してはならないのです。キリストのお体を常にながめる司祭の目は、単純潔白でなければなりません。天地の創り主に常に触れる司祭の手は、いつも清らかに天にさしのべていなければなりません。だから、律法には、特に司祭たちにむけて、『清くあれ、主なる神は聖なるお方である』(レヴィ記19・2)といわれています。全能の神よ、お恵みによって私たちを助けてください。司祭職を受けた私たちは、清浄な身で、正しい良心を持ち、敬虔にふさわしくあなたに仕えなばなりません。私たちが、命じられたように清く生活できないなら、せめて自分の犯した罪を泣く恵みと、一層謙遜にあなたに仕える決心を、お与えください」。

12・聖体拝領する人は、特に準備をせねばならない

「私は純潔を愛する者、聖徳を与える者である。私は清い心を求め、そこに休息する。美しく飾られた大きな高間(マルコ14・15、ルカ22・12)を私に準備せよ。私はそこで、弟子と共に過越しを祝おう。私があなたの霊魂に止まることを望むなら、古いパンだねを捨て(コリント前5・7)、心の住居を清めよ。あなたの心から、世俗のにおいのあるものと、悪の乱れを吐き出し、屋根の上の孤独な雀(詩編101・8)のように止まり、自分の過失を反省せよ。愛する者は、愛する相手のために、最も美しい部屋を準備する。それによって、愛する相手をもてなす愛情のほどがわかるのである。他の何にも気を散らさず、一年かかって準備しても、あなた自身の手段だけでは、充分に準備できないことを知らねばならない。あなたが私の食卓に近寄れるのは、ただ私の慈悲と恵みによる。ちょうど、乞食が金持ちの宴会に招かれ、その恩を返そうとしても、ただへりくだって感謝する以外に方法がないのと同様である。あなたは、自分でできる限りのことをせよ、習慣で、いやいやながらするのではなく、一心に準備し、あなたの所までへりくだる愛する主を、畏敬と尊敬と愛情とをもって拝領せよ。あなたを招いたのは私である(マタイ18・33)。この宴を開けと命じたのは私である。私が、あなたの不足を補おう。来て私を受けよ。私があなたに敬虔の恵みを与える時には、神に感謝せよ。その賜が与えられたのは、あなたがそれにふさわしいからではなく、私があなたをあわれんだからである。もし敬虔の念を感ぜず、心が乾いていると感じる時には、祈り続け、嘆きつつ門を叩け。救いの恵みの一片一滴でも受けるまでは、叩き続けよ。私があなたを必要とするのではなく、あなたが私を必要とするのだ。あなたが私を聖とするために来るのではなく、私があなたを聖とし、よりよくする為に下るのだ。あなたが来るのは、私によって聖とされ、私と一致するためであり、生活を清めるために新しい恵みを受けるためである。この恵みをおろそかにするな(テモテ前4・10)。充分熱心に心を準備し、愛するお方を迎え入れよ。しかし、聖体拝領の前に信心行を行うだけでなく、聖体拝領の後にも、信心を続けなければならない。拝領前に敬虔な準備がいるなら、拝領後の敬虔もそれに劣らぬほど必要である。聖体拝領後に神の恵みを保とうとして慎むことは、より豊かに恵みを受けるための適切な準備となる。聖体を拝領してのち、外部のことに心を散らす者は、次の聖体拝領の準備が不充分になる。饒舌をさけよ。心を深く反省して、神を味わうがよい。全世界も奪いえないお方をあなたは持っている。あなたがすべてを与えねばならないのは、この私である。そうすれば、あなたは今後他の心配を忘れ、自分のためではなく、ただ私のために生きるだろう」。

13・敬虔な人は、聖体の秘跡によってキリストと一致することを望まねばならない

「主よ、私はあなたを見、あなたに私の心を打ち明け、人に無視されても私の霊魂の望むままに、あなたを味わい、どんな被造物にも動かされず、興味を起こしません。愛する者同士が話し、友人同士が団欒するように、私に話しかけてくださるのは誰でしょう?私が切にこい願い、望むことは、あなたと一致し、被造物から心を離し、聖体拝領と、しばしばミサを立てることによって、ますます天のこと、永遠のことを味わいたいのです。主なる神よ、いつ私は、全くあなたに一致し、あなたのうちに完全に没し、自分のことを忘れることになるでしょうか?あなたは私において、私はあなたにおいて、この一致がいつまでも失われないように、お恵みをください。主よ、あなたは、私が『最も愛する者、万人の中から選んだ者』(雅歌5・10)です。私の心は、生涯日々あなたのうちに休むことを望んでいます。あなたは、平和を与えてくださる私の王であり、最高の平安と真の休息を持っておられます。それ以外の所には、労苦と悲惨があるだけです。あなたは実に、『かくれた神』(イザヤ45・15)であり、悪人と交わらず、謙虚な単純な人にだけお話になります。主よ、あなたの御心はなんと慈悲深くあられることでしょう(知書12・1)。あなたは、子どもにその慈悲を示すために、天からの糧をもって、養ってくださいます(ヨハネ6・50)。どんなに偉大な民でも、あなたが弟子たちに対してなさるほど、これほど近くある神をもっている民はありません(申命記4・7)。実にあなたは、人の心を天に向かわせ、日々慰めを与えようとして、ご自身を天の糧として弟子たちにお配りになります。この世にキリスト教の民ほど偉大な民があるでしょうか!神からの光栄の肉体をもってやしなわれるほどの、ああ、この恵み!おどろくべきへりくだり、人間に与えられた無限の愛!これほどの恵み、これほどの愛のために、私は何を主にお返しできるでしょうか?私の心すべてを主に与え、親しく一致する以外に、神に喜ばれる供え物はないのです。私の霊魂が全く神と一致すれば、私の心は喜びに喜ぶでしょう。そのとき主は、『あなたが私と共にいたいと望むなら、私もあなたと共にいよう』と仰せられるでしょう、その時私は答えましょう、『主よ、私と共にいてください、私はそれを切に望みます。私の心があなたと一致すること、これが私の望みのすべてです』と」。

14・聖体に対して、敬虔な人々の熱烈な望み

「主よ、神を畏敬する者のためにそなえられたその深い慈悲!(詩編30・20)。心からの熱意と愛とをもって、聖体の秘跡に近寄る人があるのを知って、主よ、私は恥じ入り、顔を赤らめます。私は、こんな冷淡な心で、あなたの祭壇と聖体に近づいているのです。また、聖体を拝領しても、心に愛を感ぜず、乾いた心のまま受け、敬虔な人々が感じる熱烈さを知らず、あなたに動かされようともしません。ところが敬虔な人々は、聖体拝領をしたいという切なる望みと、愛のために、涙を流し、体の口だけではなく、心の口をもって、活きた泉であるあなたを慕い、霊的な貪欲と喜びをもって、あなたの助けを求めなければ、飢え渇きをみたせなかったほどでした!それが真に熱烈な信仰といえましょう。この信仰こそは、あなたが実際に聖体においでになることの、もう一つの有力な証拠です。彼らは、パンがさかれる時、キリストの現存を身近に感じ、自分と共に歩むイエスを悟り、心の中で燃え立ったのです(ルカ24・35)。不幸にも、これほどの信仰、これほどの愛と熱心さは、私のうちにほとんどないのです。仁慈なるイエス、慈愛に富むイエス、私を憐れんでください。貧しい乞食である私に、せめて、ときどき聖体拝領において、あなたの憐みにより、愛の炎を感じさせてください。そうすれば、私の信仰は、一層強まり、あなたの仁慈への希望は高まり、一旦もやされ天のマンナに養われた愛徳の火は、いつまでも消えないでしょう。あなたの慈悲は、私ののぞむ恵みを与え、御旨の日が来れば、私の心を熱心に燃え立たせる訪れも、してくださるに違いありません。私は、あつい信心をもっていた人々と同じ希望に、まだ燃えていないにしても、あなたの恵みによって、それを味わいたいと望み、あなたを熱烈に愛していたすぐれた人々に加わり、その仲間の一人になりたいと願っています」。

15・敬虔の恵みは、謙遜と自己放棄とによって得られる

「あなたは、敬虔の恵みを、たゆまずこいねがい、渇望し、忍耐と信頼とをもって待ちうけ、感謝の念をもって受け、謙遜に保ち、勤勉に働かせねばならない。そして、あなたが渇望する天からの訪れのときと方法については、それが実現するまで、神の御旨にまかせねばならない。あなたが、心の中で、敬虔の不足を痛感するときには、まずへりくだらねばならないが、ただ失望したり、悲しんだりしてはならない。神は、長い間拒絶しながら、一瞬でお与えになることもある。時には、祈りはじめに拒みながら、その祈りの最後に与えてくださることもある。神の恵みが、いつもすぐ与えられ、望みのときにくだされるものなら、弱い人間は、その利益を、充分受けることができないだろう。だから、かたい希望と、謙遜と、忍耐をもって、恵みの時を待たねばならない。また、それが与えられなかったり、ひそかに奪われることがあるなら、それは自分の責任と罪のためであると思え。時には、神の恵みをさまたげ、あるいは、隠すものが、ほんの些細なことである場合もある。もしも、これほどの善をさまたげるものを、些細なことだというならば。しかしあなたが、大小にかかわらず、そのさまたげを取り除いて、それに打ち勝つなら、あなたは望みのものを受けるだろう。全心をあげて、自分自身を神に捧げ、自分の好みやわがままによって、あのことこのことを求めず、自分のすべてを神にゆだねれば、心の平和を見出すだろう。あなたはもう、神の御旨以外の何物も喜びとしないようになったからだ。だから、単純な心で、自分の意向を神に向け、不謹慎な愛情や、世俗的な煩いを脱ぎ捨てれば、恵みをうけるにふさわしい準備を終え、敬虔の恵みを受けるに足る者となるだろう。主は、世俗のものを脱ぎ捨てた心に、祝福をくださる。人はこの世のことを完全に捨てれば捨てるほど、また、自分自身を軽蔑し自分を殺せば殺すほど、速やかに豊かに恵みを受け、高く自由に上がるようになる。そのとき、彼は、永遠をながめるに足る者となり、霊のたまものを豊かにいただき、心は広がり、驚嘆に満たされる(イザヤ60・5)。主の御手は彼と共にあり(エゼキエル3・14、ルカ1・66)、世々に彼は主の御手にゆだねられる。心をつくして神を求め(詩編118・2)、霊魂の賜をむだにしなかったもの(詩編23・4)は、こうして神の祝福を受けるだろう(詩編127・2)。こういう人は、聖体を拝領して、神と一致する偉大な恵みに価する者である。かれは、自分の信心と慰安よりも、あらゆる信心と慰安をこえて、愛する神の光栄を求める人である」。

16・必要なものをキリストに打ち明け、その恵みを願う

「私が今、うやうやしく拝領しようとする主よ、あなたは、私の弱さ、私に必要なもの、また、私の悪と罪、私の重荷、誘惑、不安、汚れを、すべてご存じです。ですから、私は、援助を願うために、あなたに近寄り、慰めとやわらぎとを乞い求めます。私の一切をご存じで、私の秘密を見抜き、完全に私を慰め、助けてくださる唯一人のお方に話します。あなたは、私が、どんな恵みを必要とし、どんなに徳に乏しいかを知っておられます。私は、貧しい裸の姿で御前にたち、恵みを乞い、あわれみを願います。飢えた乞食に恵み、私の冷たさをあなたの火で燃やしてください。あなたの光明をもって、私の盲目を照らし、すべて世間的なことを苦いものに変え、つらいこと煩わしいことを忍耐させ、この世の一切を、軽蔑させてください。主よ、私の心を天の方にあげ、この世でさすらうことのないようにしてください。今後、あなただけが、私の慰めとなり、私の食物と飲み物、愛と喜び、完全なただ一つの善となってください。私にくだって、私を燃やし、焼き尽くし、あなたに同化させてください。内的一致の恵みにより、燃える愛にとかれて、私があなたと一つになるためです。空腹のまま、心が枯れ切ったまま、あなたから、遠ざかりたくありません。しばしば聖人たちに対してなさったように、そのあわれみを、私にもお与えください。つねに燃え尽きることのない火、心を清め、知恵を照らすあなたに一致して、燃え立ち、私が、私というものの姿を失ったとしても、何の不思議がありましょう!」

17・キリストを拝領したいという深い愛とはげしい望み

「清い生活のために、あなたに喜ばれ、熱烈な信仰生活を営んだ聖人たちは、あなたと一致しようと望んで聖体を拝領しました。私は、その聖人たちと同じ最上の信心と熱愛、心からの愛情と熱烈さとをもって、あなたを拝領したいと思います。私の神、永遠の愛、私の全、不滅の幸福、どんな聖人も感じなかった熱烈な愛と深い尊敬とをもって、あなたを拝領させてください。私には、それほどの敬虔がなくとも、せめて聖人たちのもっていた燃える希望を模範として、私の心の愛を捧げます。また、敬虔な者が望む限りのものを、うやうやしく真心から捧げます。自分のために何一つ残そうとは思わず、むしろ進んで、自分と自分のすべてを捧げます。神なる主、つくり主、救い主よ、ご托身の神秘を告げた天使に向かって、聖母マリアが、へりくだって敬虔に、『私は主のはしためです。あなたのお言葉の通りになりますように』(ルカ1・38)と答えて、あなたを望み、あなたを受けたときの、その愛と尊敬と称賛とほまれ、その感謝と威厳、その信仰と希望と愛徳とをもって、私は今日、あなたを拝領したいと思います。そして、あなたの先駆者、洗者ヨハネが、まだ母の胎内にいたとき、御前にあって、聖霊によって喜びおどり、後に人々の中からイエスを見付けて、へりくだり『花婿の友人は、そこに立ち、花婿の声を聞いて喜ぶ』(ヨハネ3・29)と、敬虔な愛をもっていったように、私は、尊い望みに燃え、真心から自分のすべてをあなたに捧げたいと思います。ですから私は、私のためと、私に祈りを頼んだ人々のために、敬虔なすべての霊魂の歓喜、熱愛、超自然的光明、脱魂、天の幻視を、主の光栄のためにすべての被造物が天地において捧げ続ける徳と賞賛と共に、あなたに捧げます。それは、あなたがふさわしく賞賛され、あなたに世々光栄を捧げるためです。主なる神よ、限りなく賞賛され祝せられよと願うこの私の望みを、受け入れてください。それは、言語に絶する無限の御稜威のために、当然あなたがお受けになるはずのものです。私は、これだけしかあなたに捧げられないのですが、日々刻々、これだけをあなたに捧げたいと思います。真心と熱望をもって、天のあらゆる霊とあなたの信仰者が、私と共に、あなたに感謝し、ほめたたえるように乞い願います。すべての民、国、言葉よ(ダニエル7・14)、神を賞賛し、歓呼と熱烈な信心とをもって、甘美な御名を賛美するように。尊敬と敬虔とをもって、至聖なる秘跡をたたえ、みちみちる信仰をもって、それを拝領する人々が、あなたたちから恵みと慈悲を受け、罪人である私のためにも、切に祈ってくれるように。彼らが、敬虔の賜と、あなたとの一致を味わってのち、あなたの慰めに充たされ、天の食卓から立ち上がるとき、貧しい私のこともかえりみてくれますように」。

18・人間はこの秘跡をみだりに探ってはならない。むしろへりくだってイエスに従い、自分の理性を信仰に服従させねばならない

「もしあなたが疑いのふちに陥ることを避けたいなら、この深い神秘をみだりに探ることは止めなければならない。神の御稜威を探る者は、その光栄に眩惑される(格言25・27)。神は、人間が理解する以上のことを行われる。聖なる教えに服従し、教父たちの健全な教義にしたがって歩もうとする敬虔な、謙遜な、真理探究だけが許される。理論のけわしい道を行かず、神の掟の平坦な安全な道を辿ろうとする単純な心の者は幸せである。あまりにも高遠なことを探ろうとして、敬虔の念を失った人は多い。あなたに必要なのは、知恵の聡さでも、神の玄義の会得でもなく、信仰と善意の生活である。あなたは自分が住んでいるこの世の事さえ理解できないのに、あなたを超越することをどうして悟れよう。神に服従せよ、理性を信仰の次におけ、そうすれば、あなたに有益で必要なだけ、知識の光が与えられるだろう。ある人は、信仰と秘跡について重大ないざないを受ける。しかしそれは、彼らの責任ではなく、悪魔の仕業である。そんないざないに気をとめるな。自分の思いと議論してはならない。また悪魔が注ぎ入れる疑問に答えるな。むしろ、神の御言葉を信じ、聖人たちと預言者たちとを信じよ。そうすれば、悪霊はあなたから逃げ去るだろう。しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは、神の下僕にとってためになることだ。悪魔は、自分が完全に征服している不信仰者や罪人をいざなわず、かえって信仰ある人を悩ませ、わずらわせるものである。単純な固い信仰をもって進み、謙遜と尊敬とをもって、この秘跡に近づけ。そうしてあなたの理解できないことを、安らかに全能の神にゆだねよ。神はあざむくことはない。むしろ自分の理性に過信する者が誤る。神は、単純な人々と共に歩み、謙虚な人々にご自分を示してくださる。子供たちに知らせ(詩編118・30)、清い心を照らし、好奇心の者と高慢な者に、恵みを隠される。人間の理性は弱く、誤りやすいが、まことの信仰は、あざむかれることも、誤ることもない。人間の思想や探求は、信仰に先んじたり反したりすることなく、信仰に従うべきものである。信仰と愛とは、この最も尊い、すべてにまさる秘跡において特にあらわれ、ひそかに行動する。永遠、遍在、全能の神は、天において地において、偉大なことを行い、その不思議な御業は人知で探り得ない。神の御業が、人知で容易にさとりうるものなら、不思議とも言語を絶するとも言えないのである。