キリストに倣いて 3巻 テキスト+朗読

■目次

1・忠実な霊魂に語るキリストの親しい会話

「主なる神が私の心に何を語るかを聞こう」(詩編84・9)。自分のうちに語る主の御言葉を聞き、そのお口から、慰めを聞く霊魂は幸いである。神のささやきを聞き、この世の騒音を聞こうとしない耳は、幸いである。この世の騒音ではなく、心に教える真理を聞く耳は、まことに幸いである。外部のことに閉じ、内部のことだけに注目しようとする目は幸いである。霊魂を理解しようと努め、日々の修行によって、天の奥義を悟ろうと構える人は幸いである。神だけに交わることを喜び、世間の束縛を、すべて脱ぎ捨てる人は幸いである。反省せよ、私の心よ、あなたの内で、主なる神の語ることを聞くために、五感の扉を閉じよ。愛するお方は、仰せられる。「私はあなたの救い(詩編34・3)、あなたの平和、あなたの生命である、私に一致せよ、そうすれば、平和を見出す。過ぎ去るものをすべて投げ捨て、永遠のものだけを求めよ、この世のものは皆、誘惑だけではないか。あなたが創り主から見捨てられたら、被造物が何の役にたとう。それなら、すべて世のものを捨てて、まことの幸福を得、創り主の御心にかなう忠実なものとなるように努めよ」

2・真理は、言葉なく私たちのうちに語る

「主よ、お話しください。あなたの僕は聞いています。私はあなたの僕です。私の知恵を照らし、あなたの掟を悟らせてください。私の心を、あなたの御口に傾けさせてください。あなたの御言葉が、露のように私の心にしたたるように。その昔、イスラエルの子らは、モーゼに向かって『あなたが話してください、聞いています。主が直接お話になると、私たちは死んでしまいます』と言いました。ああ、主よ、しかし私は、そう祈りたくありません。むしろ、預言者サムエルのように、謙遜と思慕の心を持って、お願いいたします。主よ、お話しください、あなたの僕は聞いています、と。モーゼやその他の預言者の言葉ではなく、すべての預言者に、霊感を与えて照らしてくださる主なる神よ、私にお話しください。あなたは、預言者によらずとも、私にすべてを教えてくださいます。しかし、預言者は、あなたなしには、何事もできないのです。預言者の言葉は、ひびき渡っても心をひきつけません。美しく語りますが、あなたが沈黙しておられるなら、人の心を燃えたたせません。彼らは文字を伝えますが、その意味を悟らせるのは、あなたです。彼らは、奥義を告げますが、あなたは、そこに秘められた真理を示してくださいます。彼らは、あなたの掟を告げますが、その掟を守るように、助けてくださるのはあなたです。彼らは、道を示しますが、それを歩み続ける力をくださるのは、あなたです。彼らは、外部に働きかけますが、あなたは、心を照らして教えてくださいます。彼らは、外に水を注ぎますが、あなたは成長させてくださいます。彼らは言葉を叫びますが、それを理解させるのは、あなたです。では、永遠の真理の主よ、私の神よ、モーゼではなく、あなたがお話しください。私は、救いの実を結ばずに、死にたくありません。私が、外部の言葉だけで教えを受け、内で燃え立たなかったら、きっとそうなるでしょう。言葉を聞いて実行せず、知っていながら愛さず、信じて守らなかったら、審判を受けるでしょう。主よ、お話しください。あなたの僕は聞いています。あなたは『永遠の生命のことば』をお語りになります。私の心を慰め、私の生涯を改めさせ、永遠にあなたを讃えさせるために、主よ、お話しください」。

3・神の御言葉は、謙虚に聞かねばならない、しかしそれを重んじる人は少ない

「子よ、私の言葉を聞け、あらゆる哲学者、知恵者にまさる、甘美な言葉である。私の言葉は霊と生命である(ヨハネ6・64)。それは、人知では計れず、空しいうぬぼれのもとにはならず、ただ沈黙のうちに、深い謙遜と大きな愛をもって、聞かねばならないものである」。私はいった、「主よ、掟について、あなたから、照らされ、教えられる者は幸せです。彼には、苦しみの日を和らげ、この世でも、慰めをお与えになるのですから」(詩編93・23)と。主は仰せられる、「私ははじめから預言者に教え、今も絶えず、すべての人に語っている。しかし、私の声に耳を閉じ、耳を貸そうとしない人が多い。人は、神よりも、むしろこの世のことに耳を貸す。神の御旨に従うよるも、肉に傾き、それに従おうとする。世間はわずかな、はかない物しか約束しないのに、人々は、営々として世間に奉仕する。私は最高の永遠の善を約束する、それなのに人間の心は動じない。この世と、そのあるじに奉仕すると同様な勤勉さで、私に奉仕し、私に服従する者があろうか。『シドンよ、恥じ入れよ、と海は言う』(イザヤ23・4)。なぜそうなるかと言えば、こうである。わずかな物をもうけるために、人は長い旅もいとわない。しかし永遠の生命のためなら、一歩さえ踏み出すのをしぶる。人は、いやしい儲けを、しきりに探し求め、ときには、たった一枚の金のために、争って恥じない。空しいことや、取るに足らない約束のために、昼も夜も、労苦に甘んじる。ああ、しかし、遺憾ながら、かけがえのない善を得るために、比類ない報いのために、最高の名誉のために、限りない光栄のためには、わずかな骨折りさえいとう。怠惰な、不平家の下僕よ、恥じよ、世の人が、滅びの道にまっしぐらに突き進むより、そう、それよりも生ぬるく、あなたが永遠の生命に向けて、歩き続けていることを、あなたが、真理を喜びとする以上に、彼らはむなしいものに歓喜する。ともあれ、世の人々の希望は、しばしば裏切られるが、私の約束は、誰もあざむかず、私に信頼する者に、慰めを与えずに帰すことはない。私は約束したものを必ず与える、言ったことを必ず実行する、もし人が最後まで私を愛し続けるなら、私は、善人すべてにむくい、敬虔な人にむくい、厳しい試練を与える。私の言葉を肝に命じよ、そして黙想せよ。試練の時になれば、それを必要とするからである。今読んで理解できないことも、私があなたを訪れる時、理解するだろう。常に私は、選んだ者を二様に訪問する。一つは試練、一つは慰めである。そして、日々、この人々に、二つの訓戒を行う。悪をとがめること、徳をすすめること、これである。私の言葉を聞いて、それを行おうとしない者は、最後の日に、厳しく裁かれる(ヨハネ12・48)」と。

敬虔の恵みを乞う祈り  「主なる神よ、あなたは私のすべてです。しかし、あなたにあえて話しかけるこの私は、何者でしょうか?私は、あなたの下僕の中でも、最も貧しいみじめな、うじ虫にすぎません。言葉でそういう以上の、みじめな卑しい者です。主よ、私は無です。何一つ持たず、わずかなものも与えられる値打ちもない者です。あなただけが、よい、聖い、正しいお方です。あなたには何事もでき、何物も拒まず、すべてを満たすことがおできになります。ただ罪人だけが、御前から退けられます。「主よ、お忘れくださるな、あなたの慈悲を」(詩編24・6)あなたは、御業の実がみのることを、望んでおられます。恵みをもって、私を満たしてください。あなたの慈悲と恵みとの慰めがなくて、この悲しい世を、どうして私が生きられましょう。主よ、御顔をそむけないでください。訪れの時を延ばさず、慰めを取り上げないでください。そうでないと私は、「荒れた土のようになる」(詩編142・6)でしょう。主よ、あなたの御旨を行い、へりくだって正しく生きる方法を教えてください。あなただけが、知恵そのものです。あなたは、この世が創造され、私が生を受けるより先に、私のことを御存知でした」。 

4・神のみ前に、謙虚に真実に生きる

「子よ、私にならって、真理の道を歩め。単純な心で、常に私を探し求めよ。私にならって真理の道を歩むものは、悪に会うときには保護され、真理の手で、誘惑と悪人の讒言から守られる。真理が、あなたを解放する時、その時こそ、あなたは真の自由を得、人間の空しい言葉を気にかけないようになるだろう」。「主よ、あなたのお言葉は真実です。仰せの通りなりますように。あなたの真理が、私を教え、守り、救いまで導くように。真理がすべてのよこしまな愛から、私を解き放つように。そうすれば私は、あなたとともに、自由に歩めるでしょう」。真理は仰せられる、「私は、何が正しく、何が私に喜ばれるかを教えよう。あなたは、悲しみと苦味とを味わいつつ、自分がおかした罪を思い出せ。そしてあなたが行った善を思って自負するな。あなたは、今も罪をおかすことができ、さまざまな邪欲にかこまれている。あなたは常に悪を望み、すぐ堕落し、たやすく敗れ、すぐ不安を感じ、落胆する人間である。あなたには、誇れるものが一つとしてない。ただ、恥辱をもっているにすぎない。自分が思う以上に、あなたは弱いものだ」。だから、何をしても、大事をやったと思ってはならない。何事も、重大な、価値あるもの、感嘆し、賞賛すべきもの、望ましいものだと思ってはならない。何よりもまず、永遠の真理を愛し、自分の低さ卑しさをいとい、何よりも悪と罪をおそれ、さげずみ、避けよ。悪と罪とは、金銭上のどんな損害よりも嫌悪すべきものだと考えよ。ある者は、私の前を、真実な心を持って歩まず、ある種の好奇の念と厚顔で私の神秘をさぐり、神の至高の計らいを知ろうとし、しかも自分の救いを、全くおろそかにしている。だが彼らは、その高慢と好奇心とのために、退けられ、しばしば誘いと罪のとりことなるのである。神の裁きをおそれ、全能者の怒りにおののけ。いと高きお方の御業をあげつらうことなく、ただ自分の罪の深さに思いをいたし、いかに多くの罪をおかし、いかに多くの善を怠ったかを省みよ。ある人はまた、書物に、あるいは絵に、あるいは外部的儀式に、信心のすべてを行おうとする。彼らは、口で私を語るが、心にはほとんど置いていない。ところが他のある人は、知恵を照らされ、愛情を清められ、常に永遠に憧れ、地上のものに耳を傾けず、しぶしぶながら人間としての必要を満たしている。彼らは、真理の霊が、内に何を語るかを悟っている。なぜなら、真理の霊は、地上のものを軽んじ、天上のことを愛し、この世を捨てて、昼夜をとわず天に憧れよ、と教えるからである」。

5・神の愛の感嘆すべき効果

「みじめな私をかえりみてくださった私の主イエス・キリストの御父、天の御父を賛美します。ああ、あわれみの父よ、慰めの神よ(コリント後1・3)、慰めを受けるのに値しない私に、ときどき慰めをくださるあなたの慈悲に感謝いたします。御独り子と、慰め主なる聖霊と共に、あなたを世々賛美し、祝います。聖なる愛をお与えになる主なる神よ、あなたが私の心に下る時、私の内なるものは、ことごとく喜び勇みます。あなたは、私の光栄、私の心の歓喜、私の希望、私の苦しみの逃れ場です(詩編3・4、118・3、58・17)。しかし私の愛は弱く、徳は不完全で、あなたに強められ、慰められる必要があります。しばしば私を訪れ、聖い教えをたれ、私から邪欲を遠ざけ、よこしまな執着を治してください。私が、健全な心をもち、清められ、あなたを愛する者となり、不幸に強く、正しい道をあくまで歩み続けるものとなるために」。「愛は偉大なことである。それはあらゆる善の中で、最も重大なものであり、これだけが、すべての重荷を軽くし、異なるものをすべて同じ心で耐え忍ばせる。愛する人にとっては、どんな重荷も軽くなり、苦いものも美味な甘美なものとなるからである。イエスへの崇高な愛は、大きな業を行わせ、ますます完全なものを望ませる。愛は高きに憧れ、低いものに縛られようとしない。心を深く省みるのを妨げるものを、すべていとい、地上的な安楽によって束縛されたり、不都合なことに屈したりすることがないように、愛は自由であり、世間の束縛から脱したものでありたい。愛よりもやさしいもの、強いもの、高いもの、拡がるものはない。また愛よりも快いもの、豊かなもの、善いものは、天にも地にもない。愛は神から出て、神に休む以外には、どんな被造物にも休みどころを持たない。愛する者は、駆け上がり、走り、勇み、自由であり、束縛されていない。愛はすべてのためにすべてを与え、すべてにおいてすべてなる神を見いだす。愛は、すべての善の泉であり、源であり、いと高きお方のなかに休むものである。愛は賜物に顧慮せず、それよりもむしろ賜物を与えるお方に目を向ける。愛は限りを知らず、限りなく燃焼する。愛は重荷を感じず、労苦を労苦とせず、自分の力以上のことを望み、不可能を知らない、自分は何でもできる、何をしても良いと思うからである。だから何でもする備えがある。愛は、どんなことに着手しても成功するが、しかし愛のない者は、その力の弱さにすぐ失望し、何事もなしえない。愛は眠ることがない。また眠っても警戒し、疲れてもぐったりせず、義務をただ義務として行わず、脅されてもうろたえず、生きる炎、燃えるたいまつのように上昇し、妨げを貫いてのぼる。愛を持つ者なら、その声が何を語るかを悟るであろう。『私の神よ、私の愛よ、あなたはすべて私のものであり、私はすべてあなたのものですと』という霊魂の熱烈な愛は、神の耳にまで立ちあがりゆく叫びである」。「あなたを愛し、あなたへの愛にとけ入り、浸りきることが、いかに喜ばしいかを、私が内なる心の口で味わうために、私の心を広げてください。私はあまりの熱と驚きのために我を忘れるほど、この愛に抱かれたい。私は愛の歌を歌います。高く高くあなたに従います。私の心は聖い愛に喜び勇みつつ、あなたを讃えて終わりたい。自分自身よりもあなたを愛し、あなたのために自分を愛するように、私をお恵みください。あなたから輝き出る愛の掟が命じる通りに、あなたが真実に愛しておられるものを、私もまた愛しうるように」。「愛は迅速であり、真実であり、敬虔であり、快活であり、歓喜に満ちており、強力で忍耐強く、賢明・寛容で勇ましく、自分の利を求めない。人が自分自身を求め始めるとき、愛は冷え始める。愛は慎重・謙遜・剛毅・率直で、軽薄なはかないことにこだわらず、節制・貞潔で、根気があり、柔和で、五感を慎む。愛はまた、従順で、目上に服従し、自分自身は、卑しく軽蔑されるべきものだと考え、神には信心と感謝を持ち、霊的な渇きの状態にあるときも、常に神に信頼し、神に希望を置く。苦しむことなく愛に生きることは不可能なことである。愛するためにすべてを忍びつつ、その御旨に服する覚悟のないものを、愛のある人とは呼べない。愛する人は、愛する相手のために、つらいことや苦しいことを喜んで受け、どんな不幸が起こっても、そのものから離れようとしない」。

6・愛する者への試練

「子よ、あなたは、まだ深く、さとく、私を愛してはいない」。「主よ、なぜですか?」。「なぜなら、あなたは、わずかな不幸のために、着手したことを投げうち、余りに安楽を求めすぎるからである。深く愛する者は、誘惑のときにも力強く立ち、敵の悪魔のたくらみを、たやすく信じようとしない。幸運のときに私を愛するのと同様に、悲運のときにも喜んで私を迎える。賢明な愛は、愛するお方の賜よりも、それを与えるお方の愛の方に目を注ぐ。賜の価値よりも、むしろ愛に注目し、愛するお方の次に賜を置く。崇高な愛を持つ人は、受けた賜に満足せず、あらゆる賜にまさって神なる私に満足する。だから、時として、私に対し、また私の聖人たちに対して、より以上の愛を持ちたいと思いつつ、しかもその愛を感じないとしても、すべてを失ってしまったと思ってはならない。あなたが時に感じる甘美な愛は、神の恵みであり、天の国の試食とも言うべきものである。それをあまり頼みにするな。それは、来り去ったりするものである。むしろ心に起こる邪念と悪魔のたくらみとを軽蔑することこそ、徳の印であり、功徳となることである。従って、様々な奇妙な想像にも驚かず、あなたの決心と、神への正しい意向とをしっかり保て、時に脱魂におちいるかと感じ、すぐそのあとで、元の平凡さに戻るとしても、それは必ずしも幻覚ではない。それは自分の意志によるのではないから、それを望ましいと思わず、むしろそのために苦しみ、それを嫌い、遠ざけようとすれば、それはあなたにとって、損ではなく功徳である。人間の古くからの敵は、あなたの徳への望みを妨げ、信心業、つまり、聖人への崇敬、受難の敬虔な記念、罪の救霊的な回想、心をよく保とうとする努力、徳に進もうとする固い決心などから、あらゆる方法をもって、あなたを遠ざけようとする。あなたに不安と恐れの念を起こさせ、祈祷や読書から遠ざけようとして、様々な邪念を起こさせる。あなたが謙遜に告白することも、敵は気に入らず、できれば聖体を拝領させまいとする。敵はまた、あなたを落とし入れようと罠をはるが、それを信じるな、その方に目を向けるな。その邪念の責任を彼に負わせ、そして言え、けがれた霊よ、私から遠ざかれ、あわれむべきものよ、恥じ入れ、そんなことを私にささやくお前は、なんと不潔だろう。罪深い誘惑者よ、私から去れ、私のうちにはお前が入るところがない。ただ勇ましい戦士として、イエスが私のうちにおいでになる。お前は恥辱を受けるだろう。私はお前に服するくらいなら、もっと苦しみを受けて死ぬ方がましだ。口を開くな、黙れ、罠を張っても、私はもはやその手にはのらない。『主こそ、私の光、私の救いである。私にはおそれるものがない』(詩編26・1)。武装した軍隊の攻撃にあっても、私はおそれない(同26・3)。主は私を助け、私を救って下さる(同18・15)と。良い兵卒として戦え、力弱く倒れることがあっても、一層気力を奮い起こし、より多くの神の恵みが与えられることを信じ、空しい自負と高慢とを極力さけよ。そうしないと、人は過失におちいり、ほとんど癒しがたいほどの盲目になる。愚かに自分を過信する高慢な者が、滅びるのを見て、あなたは、絶えず警戒し、謙遜の戒めとせねばならない」。

7・謙遜をもって神の恵みをおおう

「子よ、信心の恵みを隠し、それにうぬぼれず、それについて多く語らず、それにあまり気を使わず、むしろ自分をあなどり、自分はそれを受ける値打ちのないものだ、と考える方が、あなたにとって有益な、安全なことである。またそれに執着してはならない。その感情は、すぐ他の感情に変わるからである。神の恵みを持っている時には、それがなかったら自分はどんなに貧しく惨めであるかを思え。慰めの恵みを受けたことによって、霊的生活に進歩したと思うな。むしろ慰めが奪われることを、甘んじて受けるときにこそ、霊的進歩がある。そのときにあたって、あなたは、熱心に祈り続け、平常行っている信心業を怠るな。できる限り、信心業につとめよ。心の渇きと不安を感じたとしても、自分の義務をおろそかにするな。多くの人は、ことが思いのままに進まないと、すぐ忍耐を失い、落胆するものである。どんな道を歩むかは、人の手中にあることではない。慰めの恵みを誰に、いつ、いかにして、与えるかは、すべて神の御旨に他ならない。ある不注意な人々は、信心の恵みを慎重に用いなかったがために、滅びてしまった。自分の弱さをかえりみずに、理性の判断よりも感情に流れ、及ばぬことをしようと試みたからである。彼は、神の御旨以上のことをしようとして、すぐ恵みを失ってしまった。この人は、鷲のように天かけて、そこに巣をつくろうとしたために、まずしく見捨てられた。それは、卑しめられ、宝を奪われ、自分の翼ではなく私の翼により頼むことを、彼に学ばせるためであった。主の道の新参者、未経験者は、賢明な人の意見に従わないと、誤りやすく、滅びにおちいりやすい。人の経験ある意見を聞こうとはせず、自分の考えに固執する人は、その考えを捨てないと、あやうい最期をとげるであろう。自分が知恵者でありながら、しかも他人の意見に謙虚に従う人は少ないものだ。高慢とむなしい自負をもって、学問の宝を積むよりは、少ないことがらでも、謙虚に貧しい知恵で理解する方がよい。あなたにとって、多く持つことが高慢の種になるなら、少なく持つほうがよい。以前の貧しさを忘れ、神の恵みを失うことを常におそれるという主への清い畏敬をも忘れ、信心の恵みを授かったときに、喜びにおぼれるのは、賢明な人のすることではない。また、苦しみや不幸のときに落胆し、私に対して、持たねばならない信頼を失うのは、徳を積んだもののすることではない。心の平和のときに、安心しすぎる者は、戦いのときになると勇気を失い、おそれおののく。あなたが、常に謙遜と慎みを心に留め、自分の心をよく制し、導くなら、危険と罪におちいることはない。霊的な熱心に恵まれる時に、神の光が奪われることがあるなら、それは、ある期間、あなたの教えとなり、私の光栄となるために、神が奪われたもので、近くまた戻るだろうと知るがよい。すべてがあなたの思いのままに、順調にゆくよりも、試練のある方が、あなたにとって有益である。人間の功徳は、どれほど幻覚を見たか、どれほどの慰めをえたか、どれほど聖書に通じているか、どれほどの地位にあるかではなく、むしろどれほど謙遜に根をはっているか、神への愛を持っているか、清い意向をもって神の光栄のために働いているか、自分を空しい者と考え、真に自分を軽蔑し、尊ばれるよりも軽んじられ卑しめられることを望むかにある」

8・神の御前に自分をいやしむ

「塵と灰に過ぎない私でありますが、あえて主に語ります(創世記18・27)。もし私がそれ以上の者だと思うなら、あなたはすぐ、私に反対し、また私の罪事態もあきらかにそれを訴えて、弁解の余地はなくなります。むしろ、私が自らいやしめ、無を認め、自負心を捨て、元来そうであるように、自分を塵にしてしまえば、神の恵みが私を助け、あなたの光が私の心に注がれ、わずかな自尊心まで、私の無の淵にしずみ、永久になくなるでしょう。あなたは、私が何者であるか、何者であったか、どうなるかを示して下さるでしょう。私は無に等しい者なのに、それに気づかないからです。もし私が、自分の力の限界内に取り残されるなら、私はさながら無であり、弱い者です。しかし、あなたが私を顧みて下さるなら、すぐ私は力づき、新しい喜びに満たされます。そうして私は、自分の重みでいつも低い方へひかれるのに、これほど早く引き上げられ、これほどやさしくあなたにいだかれたことに、驚くでしょう。それをしてくださるのは、私の功徳より早く私を支え、大きな危険から私を守り、実に数えきれない悪から、私を救い出して下さるあなたです。私は不幸にも、自分を愛して道に迷いました。しかしあなただけを求め、清い心をもって、あなたを愛することによって、私は、あなたと自分を同時に見いだし、この愛のために、より深く自分の無を悟りました。ああ、やさしいイエスよ、あなたは、私の功徳より以上に、また私が望み求めうる以上に恵みを与えてくださいます。私の神よ、あなたは祝されますように。あなたは、恵みを受ける価値のない者にも、その寛容と、限りない慈悲を恵み、忘恩の徒や、あなたから離れ去った者にも恵みをくださいます。私たちを、あなたの方に向けさせてください。私たちを、感謝を知る者、謙虚な者、信仰ある者にしてください。私たちを救い、力づけ、強めるお方は、あなただからです。

9・究極目的の神に一切を帰する

「子よ、真に幸福になろうと思うなら、私を、あなたの最高の、究極の目的にしなければならない。この意向は、自分自身と被造物とに傾きがちなあなたの愛を清めるだろう。あなたが、自分だけの満足を求めるなら、すぐ枯れ切って衰退するだろう。すべてを与えたのは私だから、すべてをまず私に帰せよ。そして一切は最高の善から出るもの、すべては源である私に帰すべものだと思え。小さいものも、偉大なものも、貧しいものも、富むものも、生きる泉の私から生きる水をくむ。進んで、自由に、私に仕える者は、豊かに恵みを受ける。しかし、私以外に光栄を求め、また何か他のものに、慰めを求める者は、まことの喜びに休まず、その心は広がらず、いろいろな妨げに会い、悲しみを見いだすだけである。だからあなたは、善を自分自身に帰してはならない。徳を人間に帰してはならない。すべては神から出るものであって、神から出るものでなければ、人間は何一つ持っていない。すべてを与えた私は、すべてが私に返されることを望む。しかも、それに対して感謝することを、おごそかに要求する。それは、空しい虚栄心を遠ざける真理である。あなたの心に、天の恵みとまことの愛徳とが入るなら、妬みや狭量や自愛心の余地はない。実に、神への愛は、すべてに勝ち、人の心を大きくさせるものである。あなたに知恵があるなら、私においてだけ喜び、私だけを依り頼みにするだろう。『神ひとりの他によいものはない』(ルカ18・19)からである。神は、すべてにおいて賛美され、祝されるべきお方である」。

10・この世をすてた者にとって、主に奉仕することはたのしい

「主よ、私はまた語ります、黙っていることができないのです。私は天においでになる私の神、私の王のお耳にこう申します『ああ、主よ、あなたの畏敬の内に生きる人々のために、備えられた喜びは、何と偉大なものでしょう!」(詩編30・20)と。あなたを愛し、全心をあげて、あなたに仕える者にとって、あなたはどういうお方でしょうか。あなたを愛する者にくださる霊的な観想の喜びは、言いつくしがたいほどのものです。あなたの愛のやさしさを、特にこうしてあなたは、私にお現しになりました。あなたは、私が存在する前に私をつくり、あなたから離れて迷っていたときに、奉仕に返らせ、あなたを愛せとお命じになりました。ああ、不断の愛の泉よ、私はなんと言えばいいのでしょうか!罪にけがされて迷っていた時に、私をかえりみてくださったあなたを、どうして忘れましょう。あなたがお示しになった慈悲は、下僕の期待に、はるかにまさるものであり、あなたが与えてくださった恵みと友情とは、下僕のすべての功徳にまさるのです。これほどの恵みに対して、私は何をお返ししましょう。すべてを捨ててこの世を離れ、修道生活に入ることは、皆に与えられることではないのです。被造物は皆、あなたに仕えるべきなのですから、私があなたに仕えることは、大したことだとは言えません。いや、あなたに仕えることを、自分で大したことだと思ってはならないのです。むしろあなたが、この貧しい、ふつつかな私を、下僕として受け入れ、愛する子の一人に加えてくださったことこそ、大したこと、驚くべきことだ、と言わねばなりません。主よ、ご覧ください。私が持っているもの、あなたに奉仕するためのものは、すべてあなたのものです。しかし、実は、私が仕えるよりも、あなたが私に仕えて下さるのです。あなたが、人間のために創られた天地は、人間に仕える備えをし、毎日あなたの命のままに動いています。しかしそれも、なお小さなことです。あなたは天使にさえも、人間に仕えよとお命じになりました。その上あなた自身が、人間に奉仕し、人間にいつかご自身を与えよう、と約束なさいました。この限りない恩恵に報いるのに、私は何をすべきでしょうか。ああ、生涯に渡って、私は日々あなたにお仕えしたい。せめて一日でも、あなたにふさわしい奉仕をしたい。まことにあなたは、すべての奉仕、すべての誉れ、永遠の賛美にふさわしい方です。あなたは真実に私の主であり、私は貧しい下僕です。私は全力を尽くして、あなたに仕えるべきであり、いつまでも、倦むことなく、あなたを祝すべきです。私はそう望み、そう欲しています。あなたの恵みによって、私の不足を補って下さい。あなたに仕え、あなたのために一切のものを軽んじることは、大きなほまれ、最高の光栄です。進んであなたへの奉仕に従う人々は、神の恵みに満たされることでしょう。あなたへの愛のために、すべての感覚的な快楽を投げ捨てる人々は、聖霊の新鮮な慰めを味わうことでしょう。また、あなたのために、せまい道を選び、この世のすべての煩いを捨てた人は、霊的な自由を獲得するでしょう。ああ、楽しく喜ばしい神への奉仕よ、これによって人間は、真に自由なものとなり、聖なるものとなります。人間を天使と等しいものとし、神によみせられるもの、悪魔のおそれるもの、信者たちの模範となるべきものとするのは、実に修道生活の聖なる生活です。ああ、したわしく望ましい奉仕よ、私たちは、これによって最高の善を持ち、永遠の喜びを受けるのです」。

11・心の願望をしらべ、またそれを抑えなければならない

「子よ、あなたは、まだよく知らない多くのことを知る必要がある」。「それは何でしょうか。主よ」。「あなたは、自分の望みを、全く私の考えに一致させ、自尊心を避け、その代わり、御旨にそおうという考えだけを養わねばならない。様々の欲にかられ、それに押し流される。しかしあなたが動かされるのは、私の光栄のためか、それとも自分の安楽のためかをよく省みよ。もしあなたの行いの目的が私にあるなら、私がどう定めようと、あなたはいつも満足するだろう。しかし、もし自分自身の利益をはかる心が潜んでいるなら、丁度それが、あなたを妨げ、不安にするのである。だから、あなたは、定めた計画に執心するな。後に後悔することがないよう、また、先には気に入っていて、最善なものとして望んだことを後に嫌うことがないようにせよ。実は、善いと思う心の動きにもすぐに従ってはならず、またその反対の場合をすぐ避けるのもいけない。よい決心と望みも、しばしば抑えなければならない。無思慮のために、知恵が迷うことなく、統一のない方針が、他人のつまずきとなることなく、他人の反対を受けて不安になり、倒れてしまうことがないように。特にまた、勇気を奮い起こして、感覚的欲望に挑戦するがよい。身体が何を望むか気を配らず、むしろどうあっても身体を霊に従わせるように努めるがよい。どんなことも喜んで受け、少ないもので満足し、粗末なもので喜び、気に入らないことに不平をならさないように、身体をおさえ、服さなければならない」。

12・忍耐の実行、感覚とのたたかい

「主なる神よ、私に忍耐が必要なことは本当です。この世では一歩ごとに反対にあうからです。私が平和を得るために一心に努力しても、生活が戦いも苦しみもないものになることはありえないのです」。「子よ、その通りである。しかしあなたは、誘惑も、逆らいもない平和を、求めてはならない。私が望むのは、さまざまな患難をくぐり、逆らいに鍛えられ、なおそこに平和を見いだしたと考えさせたいことである。患難に耐えれないで、どうして煉獄の火が耐えられよう。二つの悪のうち、小さい方を選ばねばならない。だから未来の永遠の劫火を逃れるために、現在の苦しみを、神の愛のために快く忍ぼうと努めよ。世間の人間に苦しみが少ないとか、全くないとか思っているのか。安楽な生活を送っている者の中にも、そういう人間はない」。「しかし彼らは沢山の楽しみを持っていて、思いのままに生きていますから、患難をそれほど苦にしないでしょう」と、あなたは言うだろう。「万一、望むものをことごとく持っても、あなたは、それがいつまでも続くと思うのか。この世の富むものは、煙のように消えていく(詩編36・20)、過ぎ去った歓楽はあとも残さない。そればかりでなく、彼らは、生きている時にも、苦々しさ、わずらわしさ、おそれを全く感じることなく楽しんでいたわけではない。快楽そのものが、苦しみのもととなることが多いからだ。そして、そうなるのは当然である。むやみに快楽を追えば、不安と苦しさを感じることなく、快楽を味わうことは出来ない。ああ、世の快楽はなんと短く、なんと偽りにみちたもの、なんと乱れた、なんと汚らわしいものだろう。しかし人間は、それに酔い、盲目になり、事実をさとらず、物言わぬけもののように、この朽ちるべき生の、わずかな快楽のために、霊魂の滅びを招く。しかし、子よ、あなたは『邪欲に従わず、それを心から追い捨てよ』(集会18・30)、『あなたの喜びを主に求めよ、そうすれば主は、望むものを与えてくださる』(詩編36・4)。真実に喜びを持ち、私から豊かな慰めを得ようと思うなら、世間の一切のものをさげすみ、卑しい楽しみを切り離して、祝福と豊かな慰めのあるところを仰げ。この世の人や物が与える、すべての楽しみを遠ざければ遠ざけるほど、私のうちに甘く深い慰めを見いだすだろう。しかし、何らかの悲嘆と、自分に対する辛い闘いに会わないで、はじめからそれを得ることはできない。根強い習慣が、刃向かってくる。しかしそれは、新しい習慣によって敗北する。肉体は抗議する、しかし精神の熱によって、肉体は抑えられる。古い蛇はあなたをいざない、責めさいなむ。しかし祈りによってそれを追い払える。またその上、あなたが耐え忍んだ苦しみは、蛇の入る入り口を閉める役にたつだろう」。

13・イエス・キリストの模範に倣う、謙虚な下僕の従順

「子よ、従順を逃れるのは、自分で神の恵みを取り逃すものである。自分だけの善を求めるものは、あまねく与えられる恵みさえも失う。快く目上に服従しないものは、肉体がまだ全く霊に服しきっておらず、しばしば反逆している証拠である。だから肉体を支配しようと思うなら、目上に速やかに服従することを学べ。心の中が荒らされていなければ、外の敵に容易に勝つことができる。身体と精神とを調和させていないなら、あなたにとって、自分自身よりも有害な霊魂の敵はない。あなたが、肉と血とに勝とうと思うなら、絶対に自分自身を軽蔑する必要がある。あなたが、他人の意思に従うことをためらっているのは、まだ強い自愛心があるからである。高く全能なるもの、無から万物を創造した私は、あなたのためにへりくだって人間に服従した。塵と無に過ぎないあなたが、神のために人間に服従する、それがなんだろう。私は謙遜によってあなたの高慢を滅ぼそうとして、誰よりも小さいもの、最後のものとなった。塵よ、服従することを学べ。芥よ、自分をいやしめ、皆の足元に屈することを学べ。さまざまの欲望を砕き、誰にでも完全に服従することを習え。自分自身に対しては猛烈に戦え。そして自分の中に高慢の癌がはびこるのを許すな。むしろ、全ての人に路傍の土のように踏みつけられる、小さな従順なものとなれ。空しい人間よ、なぜ嘆くのか、汚らわしい罪人よ、いくたびも神を侮り、いくたびも地獄に落ちるべきものであったのに、どうして、あなたを非難するものに抗弁しようとするのか。しかしあなたの霊魂を、私は受け入れる。だからこそ私は、いつかあなたに私の愛を知らせ、感謝を持って私の恩恵にむくいさせ、誠の従順と謙遜とのうちに生きさせ、忍耐しつつ自分自身への軽蔑を学ばせようとして、慈悲によって、あなたをしばらく打ち捨てておいた」

14・善業におごらぬために、ひそかな神の道を考える

「主よ、あなたは私に対して、雷のような裁きの御声をお聞かせになりました。その時私の骨は震え、私の霊魂はおののきました。天さえもあなたの御前にあっては清からぬものであると思い至とき、私は戦慄します。あなたが、天使たちにも悪を見出し、その罪をお許しにならないのなら、私は一体どうなるのでしょうか。星が天から落ちたのに、塵の私が何を自負しましょう。賞賛に値する業を行った人が、低く落ち、天使のパンを食べていたものが、豚の餌で満足しているのを私は見ました。ですから主よ、もしあなたが手をお引きになれば、私には何の徳もありません。あなたが支配をお辞めになれば、人の知恵は役には立ちません。あなたが御手で支えてくださらないなら、人は何の力も持っていません。あなたが保証しないなら、純潔な人も安全ではありません。あなたの見張りがなければ、私たちの警戒は役に立ちません。あなたに見捨てられれば、私たちは沈んで滅びます。しかしあなたが私たちを見守ってくだされば、直ちに生命を取り戻します。私たちは変わりやすいものですが、あなたによって固められます。すぐ冷淡になるものですが、あなたによって熱を送られるのです。ああ、私は自分をどれほど見下し、いやしまねばならないことでしょう。たとえ何か良いものを持っていても、それを無視しなければならないはずです。ああ主よ、私はどれほど深く、あなたの計り知れない裁きに服従しなければならないことでしょう。その裁きの前に、私は自分が無以外の何物でもないことを悟ります。無限のお方よ、果てしない海よ、そこにおいて私は、全て無であり、私というものを何一つとし見出せません。それなら、誇りと自負心がどこに隠れましょう。一切のむなしい自負心は、私に対するあなたの裁きの深さに、飲み込まれてしまいます。主よ、あなたにとって人間が何でしょう。粘土が焼き者師に対して何を誇れましょう(イザヤ45・9)。まことに神に服従する心の人が、どうして人のむなしい賞賛に高ぶるのでしょう。全世界でさえ、真理の神に服従した人を、高慢にすることはできません。また依り頼みを神にかけた人は、人間のどんな賞賛にも動かされません。その賞賛を与える人はいずれも無であり、その声とともに消えていきますが、神の真理は永遠に朽ちることがないのです(詩篇116の2)」。

15・望むことについて、どう行い、どう語るか

「子よ、あなたはいかなる場合にも、こう言わねばならない。『主よ、あなたの御旨なら、そうしてください。主よ、このことがあなたの光栄となるなら、御名においてそうしてください。主よ、もし私に適当であり、利益があると思し召すなら、あなたの光栄のために私にそれを用いさせてください。しかしそれが私の害となり、霊魂の救いのために役立たないことなら、私からその望みさえも退けてください』と。人間の目で良いように見えても、すべての望みが聖霊から出ているとは言えない。あることを望むのが、善意からか、悪意からか、それとも単に自尊心のためかを判断するのは困難である。最初は、善意に導かれると思っていても、最後にその誤りを悟った人が多くある。従って、心に浮かぶことは全て神への畏敬と、謙虚な心とをもって、望まなければならない。時にあきらめと信頼とをもって、全てを私にゆだね、こう言うがよい。『主よ、あなたは、私にとって何がよいことかをご存知です。御旨のままにはからってください。あなたの望まれることを、望みのまま、望む時に、私に与えてください。あなたの知恵に従って、御旨の通りに、あなたの光栄のために、私を扱ってください。私を、御旨の場所に置き、自由にあしらってください。私はあなたの手の中にあります。御旨の通りに私を使ってください。私はあなたの下僕で、万事に備えています。私は自分のためではなく、あなたのために生きたいのです。なるべく完全に、またふさわしく生きたいのです』と」。

神の御旨を果たす祈り 慈悲深いイエス、あなたの恵みをお与えください。神の恵みよ、常に私と共にあり、私の日々の労苦を助け(知書9・10)、また最後まで私を導いてください。あなたが最も好まれることを、常に私に望ませ、あなたの御旨が私の望みとなるようにしてください。そして私の意志を常に御旨に従わせ、完全に一致させてください。私の望むこと、望まないことが、必ずあなたと同じで、あなたの望まれること、望まれないことを、私にも望ませ、あるいは望ませないようにお恵みください。この世の全てに死し、あなたのために、軽んじられ無視されることを好むようにしてください。どんな望みにも勝って、あなたの中にいこい、あなたにおいて平和を見いだすようにしてください。あなたは、真の平和であり、唯一の休息です。あなたがおいでにならないと、すべては辛い不安なものになります。その平和、至高、永遠の善であるあなたにおいてのみ、私が平和と休息とを見いだしますように(詩篇4・9)。アーメン。

16・まことの慰めは神だけにある

「自分の慰めとして想像し、望むことを、私は、この世ではなく、来世に期待しています。私がたとえ、この世が与えるすべての慰めを持ち、その喜びを味わえるとしても、それが永続するものでないことは確実です。私の霊魂よ、貧しい者の慰め主であり、謙遜なものを高められる神においてのみ、充分に慰められ、ありあまる幸せを得ることができる。私の霊魂よ、しばらく待て、神の約束の実現を待て、そうなれば、天においてあらゆる豊かな善が味わえる。もし今、地上の善をむさぼるなら、永遠の天の善を失うでしょう。ただ地上のものを用いるにとどめ、その望みの的に、永遠のものだけを置くがよい。あなたは、地上のはかないものには、それが何であっても満足しえないのです。私は、そのために創られた者ではないからです。この世の全てを持っていても、私は完全に幸せになれない、全てを創造した神においてのみ私の幸せがあります。その幸せは、この世に執着する愚かな者たちが、望んでいる幸せではなく、キリストの下僕が期待するもの、天にその心を置く(フィリッピ3・20)霊的な清い心の人々が、この世においても味わうその幸せです。人間からくる慰めは、いずれも、はかなくむなしい、しかし真理の神が、心に与えて下さるのは、まことの慰めであり、幸福の泉です。敬虔なものは慰め主なるイエスに、どこに行っても付き従い、『主イエスよ、いつも、どこでも、私を守ってください』と言うでしょう。人間からくる慰めを、何一つ持たないことを望む、そのことだけが、私の唯一の慰めでありたい。もし天の慰めが奪われても、あなたによって送られる、正しい試練と御旨を、私の最高の慰めとしたいのです。あなたは、下僕に、永久に怒り続けることもなければ、永久におびやかし続けることもしないお方です」(詩篇102・9)。

17・心配を神にゆだねる

「子よ、私の望むままに、あなたを扱わせよ。あなたにとって何が役立つかを、私は知っている。あなたは人間として考える、そして、ほとんどの事について、人間的な感情にまかせがちだ」。「主よ、それは本当です。私に対するあなたのご配慮は、私が自分のためにしている全ての配慮に勝るものです。自分の心配を、あなたにお任せしないものは、大きな危険に取り囲まれています。主よ、私の意思が常に正しく、強く、あなたに一致するように、私のことをはからってください。あなたが私にしてくださること全て、ただ私の善のためです。私が闇に取り残されることをお望みだとしても、あなたは祝されますように。また私を光明で照らしてくださるとしても、あなたは祝されますように。私を慰めてくださるなら、またあなたは祝されますように。私を患難におあわせになっても、同様にあなたはいつも祝されますように」。「子よ、もしあなたが、私と共に歩もうとするなら、こういうふうに生きねばならない。あなたは喜びと同様に苦しむことに備えねばならない。また貧しく乏しくあっても、豊かに富んでいると同じ覚悟を持って、快く忍べ」。「主よ、私は、あなたへの愛のために、あなたがお望みになることを喜んで耐え忍びます。御手からくださるものなら、同じ心思って、善も悪も、甘きも苦きも、喜びも悲しみも、受ける覚悟です。そして私に起こる全てのために、あなたに感謝しましょう。私を全ての罪から守ってください。そうすれば私は死も地獄も恐れません。あなたが永久に私を見捨て、私の名を永遠の生命の書から消さない限り、私はどんな患難にも苦しみにも、そこなわれないでしょう」。

18・地上の苦しみを、キリストの模範に従って平静にたえしのぶ

「子よ、私はあなたの救いのために天から下った。私があなたのみじめさを背負ったのは、その必要があったからではなく、愛したからだった。あなたが忍耐を学び、地上の辛苦を快く甘受するように、ならせるためだった。実に私は、この世に下ってから十字架上に死ぬまで、苦しまない時はなかった。私は、この世のものをほとんど持っていなかった。私は、しばしば他人の非難を耳にした。はずかしめと侮辱とに柔和に耐えた。与えた恵みの返しとして冒涜を、天からの教えの返しとして非難を受けた」。「主よ、あなたは、御父の御旨を完全に果たし、そのご生涯にわたって、忍耐されました。それなら、惨めな罪人の私が、あなたの御旨に従って、苦しみを忍び自分の救いのために、あなたの御旨の時まで、はかないこの生命の重荷を忍ぶのは、当然のことです。誠にこの世の生活は重いものですが、しかしあなたの恵みによって、それは功徳となり、あなたのご生活に倣い、聖人たちに従うことによって、弱い私たちにとっても、それは明るく、忍びやすいものとなります。また、その上、古い律法の時代には、天の門が閉ざされており、天への道は暗かったから、その頃には、神の国を得ようと努める人は、多くありませんでした。しかし今の生活には、そのころよりも、さらに多くの慰めが与えられています。救いの国に備えられていた正しい人々にさえ、あなたが受難と死去とをもってこの世を贖うまでは、天の国に入ることが許されませんでした。主よ、私とすべての信者たちに、永遠の御国に至る、まっすぐな安全な道を教えてくださったあなたに、私はどのように感謝の意を表したら良いでしょう!あなたのご生活は、私たちが歩まねばならない道です。私たちが忍耐をすれば、永遠の栄冠であるあなたに、至ることができましょう。もしあなたが、私たちに先立って教えてくださらなかったら、誰があなたに従おうと心がけたでしょう。ああ、その優れた模範を仰がなかったら、どんなに多くの人々が、背後に遠く取り残されたことでしょう。私たちは、あなたが行ったすべての奇跡と教えとを聞いたのに、まだこれほど生ぬるいのです。とすれば、あなたに従うために、光明が与えられなかったら、果たして私はどうなっていたでしょう」。

19・侮辱を忍ぶことと、まことの忍耐

「 子よ、何を言うのか、私と聖人たちの受難を考え、不平をやめよ、あなたはまだ血を流すほど抵抗したことがない(ヘブライ12-4)。多くの困難を忍び、強い誘惑を受け、ひどく苦しめられ、様々の試練で鍛えられた人々と比べれば、今のあなたの苦しみは、ものの数ではない。他人の苦しみを考えよ。そうすれば、あなたは小さい苦しみを、容易に忍べるようになる。そしてもしそれが、あなたにとって小さい苦しみだと思えないなら、それはあなたの忍耐が足りないからだ。ともあれ、あなたの苦しみが少なくても多くても、万事を忍耐せよ。苦しみを受ける覚悟を強めれば強めるほど、知恵は深まり、功徳は大きくなり、心が鍛えられて重荷は軽くなる。『あんな人間からこんな扱いを受けるのはたまらない。私はこんな侮辱を受けるいわれがない、あの人は私に大損害をかけ、思いもよらぬことで私を責めている。他の人から受けたなら、喜んで忍ぼうとし、それなら忍ぶべきことだと思うだろうが』。あなたはこういってはならない。こういう考え方は愚かなことである。あなたは、忍耐の徳とは何かを思わず、誰から報いを受けるかも考えずに、むしろ受けた侮辱、侮辱を与えた人間、どんな侮辱を受けたか、それだけを考えている。自分が考える程度の苦しみを、自分が考える人からだけ受けて忍ぶ人は、本当に忍耐のある人ではない。真に忍耐のある人は、誰から試されているか、目上からか、同僚からか、目下からか、徳のある人からか、罪深いならず者からか、そんなことを考えず、誰からくるものかを差別せず、何度、どれほど受けても、全てを喜んで、感謝しつつ、神の御手から受け、しかも、それによって、大いに利益を得たと考えるものだ。神の御前にあっては、神のために忍んだどんな小さなことも、むくいをうけるのである。勝利を得たいなら、いつも戦いの準備を整えているように心がけよ。戦いなしには、忍耐の栄冠を受けることができない。もしあなたが苦しみを避けるなら、忍耐の栄冠を拒むわけである。しかし栄冠を得ようと思うなら、勇ましく戦い、忍耐せよ。苦労を忍べないなら、休息する権利もない。戦いをいとうなら、勝利は得られない」。「主よ、あなたの恵みによって、本来なら私にできない事でも、できるようにしてください。あなたもご存知の通り、私は苦しみに弱く、少々の妨げがあると、すぐ落胆してしまいます。御名の光栄のために、試練を愛させてください。あなたのために苦しみ、迫害される事は、私の霊魂にとってためになることです」。

20・自分の弱さと、この世のみじめさを告白する

自分で自分の罪を告白しよう(詩篇31・5)。主よ、私の弱さを告白いたします。私は、小さなことで落胆し、悲しみます。雄々しく行おうと決心するのですが、わずかな誘いが来るとすぐうろたえます。私への試練は、ほんのつまらないことから生まれます。私だけは安心だと思っている時、私は、軽いひと吹きで倒されてしまいます。主よ、機会あるごとに現れる私の弱さ(詩篇24・18)、脆さをご覧ください。私が、泥に沈んでしまわないように、いつでも見捨てられる事のないように、私を哀れと思い、泥の中から引き上げてください。あなたの御前にあって、私が悲しみ、うろたえるのは、私が邪欲に弱く、敗れやすい人間だからです。私は、誘惑に引きずられる事はなくとも、そのしつこさに悩まされ、痛められ、毎日そんな戦いを繰り返していることに飽きてしまいます。私は、自分のみじめさを知っています。いまわしい想像が起こりやすく、しかもなかなかそれが去りにくいのです。忠実な霊魂を、愛で燃やしてくださる強大なイスラエルの神よ、あなたの下僕の困難と労苦とを顧み、どうぞお守りください。まだ全く霊に服従していない惨めな肉体によって、再び古い人間が頭を持ち上げることのないよう、天の力で私を力づけてください。この哀れな生命の続く限り、私は、肉体に対して戦い続けます。患難と悲惨とが後を立たず、敵と罠に取り囲まれているこの生活とは、一体なんでしょう。一つの患難や誘惑が去ると、すぐ他のがやってきます。いや、まだ戦いが続いているのに、他の敵が襲いかかります。こんな苦々しい、不幸と悲しみの漂う人生を、どうして愛せましょう。死と禍とを生むものを、どうして生命と言えましょう。それなのに、人はそれを愛し、そこに楽しみを求めます。世間は空しいと非難しながら、容易にそれを捨てようとしないのは、私たちが肉の欲に支配されているからです。世間に惹きつけるものと、それを軽蔑させるものとには、大きな差があります。肉の欲、目の欲、生活の虚栄(ヨハネ前2-16)は人の心を世間に引き付けますが、それに続く罰と苦しみとは、人の心に、世間への憎悪と嫌悪を呼び起します。残念ながら、世間の奴隷になっている人々は、よこしまな快楽に溺れています。こういう霊魂は、茨の中で生きるのを喜んでいます(ヨブ記30・7)、なぜなら、彼らは、神による喜びと徳の内的美しさを、味わったことがないからです。かえって全く世間を捨てて、聖なる規則に従って神に生きようとする人々は、本当に世を捨てた人々に約束された、神の喜びを知り、世間がどんなに誤っているか、どれほどあざむかれるものかをも、明らかに知っています」。

21・どんな善にも賜にもまさって、神のうちに平和を見いだす

「私の霊魂よ、すべてにまさって、常に、ただ主において、慰めを求めよ。神は聖人の永遠の憩いである。愛すべきイエスよ、被造物ではなく、ただあなたの中に私を休息させてください。健康と美、光栄とほまれ、勢力と地位、学問と教養、富と芸術、喜びと楽しみ、評判と賛辞、安楽と慰め、希望と約束、功徳と望み、あなたの与えて下さる賜と恵み、人の心がうけて味わう歓楽と愉快、また最後に、天使と大天使と天の万軍、見えるもの見えないものを置き、私の神よ、あなた以外のすべてにまさって、ただあなたの中に、私を休息させてください。主なる私の神よ、あなたは、万事にこえて慈悲であり、至高者、全能者であり、完全に満ち足りたもの、甘美な慰めを与えるものであり、美しく愛すべきもの、崇高な光栄あるものであります、あなたの中に、一切の善は完全に一致して存在します。かつてそうであったように、今もいつも。ですから、あなた以外の何を与えられても、私は不満で不足です。あなたを見ず、あなたを受けないなら、あなたが示され約束されることも、私にとっては不足です。実に私の心は、すべての賜と被造物をおいて、ただあなたに休まぬ限り、真実に休み、完全に満足することを知らないのです。ああ、愛する配偶者なるイエス・キリストよ、清らかな愛の的よ、万物の主よ、あなたに休もうとして飛び行くために、真に自由の翼を与えてくれるのは誰でしょう。私があなたにのみ仕え、あなたがいかに優しいお方かを完全に知るのはいつでしょう。私の神よ、私があなたへの愛のあまり、我を忘れ、ごくわずかな人が知っているところの、人間の考えと方法とを超越する方法で、全くあなたに心を捧げるのはいつでしょう。しかし今私は、しばしば嘆きながら、苦労の荷を負っています。この涙の谷では多くの不幸が起こり、心を悩ませ、悲しめ、暗くし、私を妨げ、迷わせ、あなたから遠ざからせ、私をあなたに向かわせず、至福の霊魂に絶えずお与えになるその喜ばしい一致を味わわせません。ああ、イエスよ、永遠の光輝、霊の慰めよ、私の憧れと憂悶とに、あなたのあわれみを動かしてください。主よ、御前にあって、私は、ただ沈黙し、あなたに語ります。私の主よ、あなたがおいでになるのは、いつのことでしょう。貧しい下僕の私にくだり、喜びで満たしてください。私の上に御手を差し出し、不幸な私を患難から救ってください。おいでください。主よ、おいでください。あなたがおいでにならないと、私は一日も一刻も喜びがありません。あなたこそ私の喜びです。あなたがおいでにならないと、私の食卓は淋しい。あなたがその存在をもって私を生かし、解放し、優しいお顔を見せてくださらないと、私は不幸で、囚人のように鎖に縛られ続けています。他人は、その望みに従って、あなた以外の何かを求めるかもしれません。しかし私には、希望と永遠の救いであるあなたの他に望ましいものはないし、また望まないでしょう。神の恵みを与えて、私の心に語ってくださるまでは沈黙せず、こい願い続けます」。「私を呼び求めたあなたに、私はきた。あなたの涙と望み、へりくだりと痛悔とが、私をあなたのほうに動かした」。そこで私はいった、「主よ、私はあなたを呼び、あなたのうちに楽しみを求めます。私はあなたのために、全てを捨てます。私はあなたを求めましたが、それより先にあなたが私を動かしてくださいました。無限の慈悲によって下僕を恵んでくださった主よ、あなたは祝されますように。自分の罪といやしさとを常に忘れず、あなたの御前に深く深くへりくだる以外に、この下僕は成すことを知りません。天地の不思議は数多くありますが、あなたに比べるべきものはありません。あなたの御業はよく、その裁きは正しい。そしてあなたの摂理は万物を支配します。ああ、御父の知恵よ、賞賛と光栄とがありますように。私の口、私の心、全被造物が、あなたを讃え、祝しますように」。

22・神の恵みを忘れてはならない

「主よ、掟を悟らせるように私の心を開き、あなたの道を歩むことを教えてください。御旨をお知らせください。またあなたの、特殊な、または一般の恵みを、心からの尊敬と注意深い思慮とをもって、私に記憶させてください。そうしてくだされば私は今後、適切にあなたに感謝をするようになるでしょう。私はたった一つの、どんな小さな恩恵にさえも、ふさわしい感謝をすることができないと知り、それを告白します。私は、あなたが与えて下さった一つの恵みにさえ、ふさわしくないものであり、あなたの偉大さ、寛容さを思う時、その恵みの深さにぼう然とするのみです。私たちが、霊魂と身体とに持っているすべてのもの、内部と外部に持っている自然または超自然の恵みは、全てあなたの賜です。一切のそれらの善を与えて下さる寛大と慈悲と仁慈に富むあなたを讃えます。またある人には多く、ある人には少なく恵みが与えられたとしても、全てあなたのものであり、あなたなくしては、そのかけらさえも受けることができないのです。多く受けた人は、それが自分の功徳であるかのように誇ることなく、他人に自慢することもなく、少なく受けた人を軽蔑することも、してはならないのです。何事も自分に帰することなく、謙虚に謙遜に感謝する人が、偉大な人だからです。そして、自分は誰よりも卑しく、誰よりも無価値だと思う人が、大きな恵みを受ける値打ちのある人です。一方、少なく受けた人は、そのために悲しみ恨む事なく、多く受けた人を羨まず、あなたのことを考えなければなりません。人に差別なく(ペトロ前1の17)豊かに、無償で、喜んで賜物を下さるあなたの慈悲を省みて、賛美しなければなりません。すべての賜物はあなたから授かるのですから、あなたは全てにおいて賛美されなければなりません。あなたは、各人に何を与えてよいかを知っておられます。そして、一人には少なく、一人には多く与えても、その理由を判断するのは私たちではなく、各人の功徳を知っておられるあなたです。神なる主よ、人間の目で外から見れば、賞賛とほまれを受けるようなものを多く持たないことを、私は恵みだと考えています。したがって、人は、自分の貧しさといやしさとを思い知っても、それを辛いこと悲しいことと思って、失望してはなりません。むしろ慰めと、喜びを抱かねばなりません。神よ、あなたはご自分の親しい友として、貧しい人、謙虚な人、世間で軽蔑される人をお選びになりました。それは『あなたがこの世の頭として立てた』(詩篇44・17)使徒たちが証明する通りです。彼らは、この世にあって不平を言わず、真に謙遜単純であり、悪意と偽りとを全く避け、御名のために、軽蔑されることを喜び(使徒 5-41)、世が嫌悪することを、愛を持って抱いたのでした。したがって、あなたを愛し、あなたの恵みを知るものは、自分のうちに、永遠の定めの御旨が実現されていることを思って、何にもまして喜び、そのために慰めを感じて満足し、他人が上位の者になりたいと望む同じ心を持って、自分は最後の者になることを望み、最後の席につくことを第一の席につくものと同様に満足して受け、人がこの世で尊ばれ、崇められるのを喜ぶように、自分は卑しいもの、蔑まれるもの、名声も評判もない者であることを喜ぶのです。あなたの御旨と、その光栄のために働く熱心とは、他のあらゆる誉に勝るものであり、自分の受けたあるいはいつか受けるあらゆる恵みにまさって、私たちは、それを慰めとし、喜びとしなければならないのです」。

23・心に平和を与える4つの条件

「子よ、今私は、あなたに、平和と真の自由の道を教えよう」。「主よ、そうしてください。私は喜んで聞きます」。「子よ、自分の意志よりも他人の意思に従うように努めよ。多く持つよりも少なく持つことを望め。常に卑しい地位に甘んじ、皆の下につくことを望め。神の御旨が、あなたのうちに完全に行われることを願え。こういう心がけの人間が、安らかな静かな国に入るのである」。「主よ、あなたのその簡単な言葉は、完徳に至るための、誠に尊い言葉です。言葉としては簡単でも、深遠な意味と豊富な実とがあります。私がその訓戒を忠実に守るなら、私はこれほど動揺するはずがありません。私が不安を感じ、悩みに襲われるときは、その教えから離れていることに気づきます。しかし、全能のあなたは、私の霊的な進歩を望んでおられます、どうぞ私の上に恵みを増し、あなたの戒めを守って、救霊を受けさせてください。

邪念を防ぐ祈り 「主なる私の神よ、私から遠ざからないでください。私の神よ、助けてください(詩編70・12)。邪念と恐怖とが、私の心を悩まそうとして、襲いかかります。私はどうして、そこを無事に通り抜けられましょう。どうしてそれを追い出せましょう」。主は仰せられる。「私は、あなたに先立って歩み、世の高慢なものを下げさせよう(イザヤ45・2)。私は牢の扉を開き、隠された神秘をあなたに示そう」。「主よ、そうしてください。あなたがおいでになると、邪念は消えます。私のただ一つの希望、唯一の慰めは、あらゆる患難において、あなたに依り頼み、あなたに信頼し、心からあなたの助けをこい、忍耐強く慰めをまつことです」。

知恵の光を求める祈り 「イエスよ、内的な光輝で私を照らし、私の心の片隅から、すべての闇を追い払ってください。私の放心を抑え、私に襲いかかる誘惑を断ってください。私のために強く戦い、凶悪な猛獣、邪欲をうち倒し、あなたのお力によって私に平和を戻し(詩篇121・7)、聖所、すなわち清い良心に、あなたへの賛美を響き渡らせてください。風と嵐とに命じ、海に向かって『静まれ』といい、風に向かって『吹くな』と言ってください。そうすれば、大凪となるでしょう(マタイ8・26)。あなたの光と真理とを送ってください(詩篇42・3)、それは、この世を照らすためです。私はあなたに照らされるまでは、空しい痩せた土地のようなものです。あなたの恵みを天から注ぎ、私の心を天の露で潤してください。私の土地が豊かな実を結ぶように、敬虔の水を流し入れ、罪の重さに押されている私の心を引き上げ、私のすべての望みを、天に向けさせてください。そうすれば、私は、天の幸せを味わい、地上のことを嫌うようになるでしょう。この世が与えるはかない慰めから私を遠ざけ、あなたのほうに引き上げてください。この世のものは皆、私の要求を満たさず、私を慰めません。愛という解けない絆で、私をあなたに結びつけてください。愛する心にはあなただけで足ります、あなたがおいでにならないと、この世はすべて無価値なものです」。

24・好奇心にかられて他人のことを探ってはならない

「子よ、好奇心を捨てよ、余計な詮索をするな。このことが、あなたと何の関わりがあるのか。あなたは私に従おうと努めよ(ヨハネ21-22)、あの人は、こうだ、この人はああだ、彼はあの事、この事をする、それがあなたにとって何なのか。あなたは他人のことの責任を持っていない、自分自身の責任が問われるのだ、それなのになぜ、他人のことに口を入れるのか。私だけが全ての人を知り、この世で起こる全てのことを知っている。そして皆がどうしているか、何を考えているか、何を望んでいるか、何を目的としているかを知っている。だから、それらの事は、私に任せよ。あなたは、心の平和を保つように心がけよ。騒がしい人には、思いのままに騒がせておけ。彼らがしたり言ったりする事は皆、彼らの上に、跳ね返ってくる。私をだませる人間は無い。影のような名声や、親しい人や、特別な愛顧に気にかけるな。これらのことは、人の心を迷わせ、暗くするに過ぎない。あなたが忠実に私の来るのを待ち、心の扉を開くなら、私は喜んで、あなたに私の言葉を聞かせ、神秘をあらわそう。賢明であれ。祈りつつ警戒せよ(ペトロ前4・7 )。そしてすべてを、謙遜の実行の機会となせ」。

25・心の平和と真の霊的進歩はどこにあるか

「子よ、私はこういった、『あなたたちに平和を残そう、あなたたちに、私の平和を与える、私が与える平和は、世間が与えるものではない』(ヨハネ14-27 )。誰しも平和を望むが、真の平和を得させることに、気を止めるものは少ない。私の平和は、心の謙虚な、柔和なものと共にある。あなたはこの平和を、忍耐を持って、自分のものにせよ。あなたが私の声を聞いて、それに従うなら、豊かな平和が味わえる」。「それなら主よ、私はどうしたらよいのでしょうか?」。「自分が何をし、何を言うかに常に注意せよ。そしてあなたの意向は、私の好むことだけに向けられ、それ以外の何も望まぬようであれ。他人の行いと言葉とを、軽々しく判断せず、自分の責任のないことに関わるな。そうすれば、めったに平和を失う事は無い。いつも不安を感ぜず、心と体との悩みを経験しない人は、この世にあるものではない、永遠の幸福の状態においてだけにある。また、どんな敵もないからといって、万事が好調に進んでいると思うな。万事が思いのままに行くと言って、全て完全だと思うな。信心と心の喜びとを感じても、神の愛を受けていると思うな。本当に徳を愛するものは、そういうことでわかるのではなく、人間の霊的進歩もそこにはない」。「それなら、どこにあるのですか、主よ」。「それは心から神の御旨にゆだねること、小事にも、大事にも、この世でも、来世でも、自分の利益を求めないことにある。こうすれば、好運の時も、不幸な時も、万事を同じ目で見、同じ判断で計り、常に神に感謝しつつ、生きることができる。すべての慰めを奪われても、それ以上、辛いことを忍ぼうと心を強め、希望に堅く立ち、自分はこれほどの苦しみを受ける人間ではない、と弁解することをやめ、どんな場合にも、私の正義を認め、私の御旨をほめたたえるなら、あなたは、まことの平和の道を歩んでいる証拠である。そうすれば、私の顔を見る希望が持てる。もしあなたが、自分自身を完全に軽視する境地になれば、さすらいのこの世においても、心の平和を、豊かに味わえるのだ」。

26・地上の煩いから解き放たれた霊魂の超越性、それは読書からではなく、謙遜な祈りから受ける

「 天の展望から、常に心を離さず、冷淡のためではなく、被造物への執着を捨てた、自由な心を持つ人の特権をもって、いろいろな煩わしさの中にあっても、それに束縛されない事は、すでに完徳を有する人である。ああ、慈悲深い神よ、私をこの世の煩いから、保護してください。私の心がそれに縛られないように。身体に必要なことを捨てさせ、快楽に溺れないように、また霊魂の妨げとなることに、打ちひしがれて、失望しないように、守ってください。私がそれをこい求めるのは、世間の人が望むむなしい事柄だけではありません。人類が受けた呪いの結果、あなたの下僕の心に、罰としてくだり、望む時に霊魂の完全な自由をさまたげる、そういう不幸からも、私を解放してください。ああ、私の神よ、言いつくしがたい慈悲の神よ、永遠のものから私を遠ざけ、現世の楽しみを持って私を悪に誘う肉体的な慰めを、すべて苦しみに変えてください。私の神よ、肉と血を霊に勝たせず、世間とその一時の光栄に、私が欺かれるのを許さないでください。悪魔とその罠とが、私を倒すのを許さず、むしろそれを耐え忍ぶ忍耐と根気とを、お与えください。この世のすべての慰めの代わりに、あなたの霊の無上の喜びを注ぎ、肉の愛の代わりに、御名への愛を注いでください。食べる、飲む、着る、身体を保つために必要なそういう事は、神に熱心な人にとっては重荷です。これらのことにあまり執着せず、それを節して用いることを教えてください。全てを捨て去るわけにはいかず、身体も保たねばならないからです。しかし、不必要なこと、ただ楽しみになることを求めるのは、掟によって禁じられています。そうしなければ、肉体は、すぐ霊に逆らうからです。この二つの間に、御手を伸べて、私がどちらにも走らないように支え、守ってください」。

27・人を神から遠ざけるのは自愛心である

「子よ、あなたは、全てを受けるために、全てを与える必要がある。ただの一つも自分のために残してはならない。何よりも、あなたに害を与えるのは、自愛心であることを忘れるな。あなたが持っている愛情と執心は、何でも手放しがたくするものだ。あなたの愛が、純真で、清く、節度あるものであれば、あなたは被造物の奴隷にはならない。持ってならぬものを持とうとするな。霊的な損を受け、内的な自由を失わせるものを、持とうとするな。あなたが自分自身と、持っているもの、望んでいるもの、すべてを、私に捧げようとしないのは、奇怪なことである。なぜ、空虚な悲しみに押しつぶされようとするのか、なぜ、不必要な煩いに悩むのか。私の御旨に忠実に委託せよ。そうすれば、何の損害も受けないだろう。あれこれのことを求めて、自分の安楽と我意を通すために、この所あの所に居たい、と望めば、いつまでも安住を知らず、心労から解放される事は無い。なぜなら、何にでも欠点があり、どこにでも反対者を見いだすからである。幸せを望むには、この世のものを得ること、あるいは、それを増す事は何の役にも立たない。むしろそれを捨てて、その望みの根を断ってしまった方が良い。それは、金銭や、財産についてだけ言ったのではない。名誉へのあこがれについても、空しい称賛についても、同じである。これらの事は、この世と共に過ぎ去るのである。あなたのいるところは、あなたに熱心がなければ、堅固な砦ではない。またこの世から求めた平和も、あなたの心が真の土台に基づいていなければ、言い換えれば、私を土台にしていなければ、どんなに住居を変えても、心を善に改めることはできない。住居を移る機会があって、その機会を利用したとしても、あなたが逃れようとしたのとおなじこと、いやそれ以上悪いことを、新しい住居に見いだすだろう。

心の清さと天の知恵とを求める祈り 「神よ、聖霊の恵みで、私を強めてください。あなたの徳によって、私を内的な強い人にならせ、私の心から、無益な煩雑さと不安とを、捨てさせてください。それは私が、卑しい望みにも、尊い望みにも、ひき入れられないためです。それらすべてに一顧も与えず、自分も、それらとともに過ぎ去るものであることを、私の心に固く思わせてください。この世には、一つとして長続きするものありません。すべては虚しいもの、心の悲しみのもとです(集会書1・14)、こう考えるものこそ、聡明な人と言えましょう。ああ主よ、天の知恵をお与えください。万事において、あなただけを求め、あなたを知り、あなたを愛し、この世のことも、知恵の定めに従って、判断させてください。へつらうものを賢明に避け、反対するものを耐え忍ぶように、教えてください。言葉の風に動かされず、邪悪なへつらい者の人魚に気を止めない事は、偉大な知恵です。こうすれば、すでに始めた道を、安全に歩み続けられるのです」。

28・悪口を言う人に対して

「子よ、誰かがあなたに悪意をいだき、気にかかることを言ったとしても、それに痛め付けられるな。あなたは、言われること以上に悪い人間だ、誰よりも弱い人間だと考えるがよい。もしあなたが、霊の道を歩むなら、人の話に、耳をかさないだろう。不幸の時に沈黙し、心の中で私に向かい、他人の批評に左右されないのは、浅からぬ徳である。あなたの平和を、他人の言葉の上に置くな、それによって、あなた自身が変わるわけではない。まことの平和と、まことの光栄とは、どこにあるのか。私にだけあるのではないか。人の気にいろうと努めず、また気にいられなくても恐れない人には、大きな平和がある。心の不安と五感の乱れは、よこしまな愛と根拠のない恐れから生まれるものである」。

29・患難のとき、神に願い、神を祝する

「 私が、この誘惑、この患難に会うようにとお定めになった主よ、あなたの御名は、世々に祝せられますように(トビア3-23)。私はその苦しみを退けられません。しかし、それが私の役にたつように、あなたがお助け下さい。主よ、今私は悲哀のどん底にいます。私の心には平和がなく、試練に悩まされています。愛する父よ、私はなんと言ってよいかわかりません。私は苦境に陥っています。私を救い出してください(ヨハネ12-27)。私がこうなったのは、謙遜を知るため、あなたによって救われるため、あなたに光栄を帰するためです。主よ、私をここから救いだしてください(詩篇39・14)。貧しい私には何一つできません。あなたに導かれねば、どこに行ってよいかもわかりません。主よ、今も私に忍耐しんを与え、助けてくだされば、どんなに試練が重くても、私は恐れません。この苦しみの中にあって、私はこう言いましょう、あなたの御旨がおこなわれますように(マタイ6・42)と。私が苦しめられ、責められるのは当然のことです。嵐が過ぎ、晴天が来るまで、私は忍びましょう。忍びたい、しかし、全能の御手は、この試練から私を救い出し、それを和らげてくださるでしょう。かつてしばしばそうしてくださったように。主は、私が倒れないように計らってくださいます。私の神よ、憐れんでください(詩篇58-18)。 神の右手のわざ(詩編76-11)は、私にとって非常に難しいが、神にとっては、いとたやすいことです」。

30・神の助けをこい願い、恵みが再び下ることを信じる

「子よ、私は苦しみの日に慰めをくだす主である(ナホム1・7)。悲しみのときには私に近づけ。天の慰めを妨げるのは、祈りに依り頼む、あなたの来かたが遅いからだ。私のもとに来る先にあなたは、他の慰めを求め、世俗のことで気を紛らわそうとした。より頼むものを救うのは私だけであり、私以外には力強い支えも、有益な進言もなく、永続的な施術もないことに気づくまでは、何一つ役に立たない。しかし、嵐は過ぎ去った。元気を取り戻し、私の憐れみの光によって、力づけ。私は全てを元通りに、豊かに、満ち溢れるばかりに、立て直すために、あなたのそばにいる。私にとって困難なことがあろうか?約束しただけでそれを実行しない人間と私と同じだろうか?あなたの信仰はどこに行ったのか?かたく立って、たゆまず続けよ。寛容な勇者であれ。あなたのためにも、適当な時に、慰めが来るだろう。私を待て、私は、来てあなたを治すだろう。誘惑はあなたを悩まし、むなしい恐怖があなたを脅かす。未来の出来事を心配して何の役に立とう。憂いに憂いを重ねるばかりではないか。一日の苦労は一日で足りる(マタイ6・34 )。未来を一喜一憂するのは、無駄な、虚しいことである。それは起こらないかもしれないのだから。人は想像に惑わされることがよくある。しかし敵の暗示に容易に惹きつけられるのは、心が狭い証拠である。悪霊は、虚実を取り混ぜた空しい希望を持たせ、あるいは迷いに追いやる。罪におとしいれるためには、現在への執着であれ、未来の恐怖であれ、あらゆる手段を用いる。だから、恐れてはならない。私を信じよ、私の憐れみに信頼せよ。あなたが、私から遠く離れていると思う時、私は常よりも、あなたの近くにいる。そしてあなたが、もうダメだと思うときは、その時こそ、功徳を示す時である。ことが、思惑の反対になった時も、一切を失ったのではない。今の感情だけで判断してはならない。そして抜け出る活路が、もうないかのように、試練に屈服してはならない。私がある期間の間、あなたに試練を送り、あるいは、あなたがこい願う慰めを与えないにしても、私から見捨てられたと思うな。天の国に入るためには、この道を通らねばならないのである。あなたにとっても、また他の私の下僕にとって、万事が思いのままに順調に行くよりも、不幸で鍛えられる方が、確かに有益である。私は、人の密かな考えさえも見通している。あなたの永遠の救いのためには、時々霊的な喜びを味わわない方が良いと知っている。それは、成功してうぬぼれず、持たないものを持っているかのように自負しないためである。私の与えたものを、私は適当な時に、あなたから奪い取ることができる。私が与えるものは、私のものである。もしそれを取り戻すとしても、あなたのものを奪ったのではない。あなたに与えるよいものと賜とは、私のものだからである。あらゆる苦しみと不幸とが、あなたに起こることを、私が許したとしても、そのために腹を立てたり、落胆したりしてはならない。私はすぐ、あなたを助け起こし、すべての重荷を喜びに変えることができる。あなたに対して、そう行う時も、いつも私は正しい。いかなる場合も、あなたは私に感謝しなければならない。もしあなたに理解力があり、真理に基づいて判断するなら、不幸に当たっても、惨めに気を落とすはずがない。むしろそのために喜び、神に感謝しなければならない。そればかりではなく、私があなたを容赦せずに訪れることを、無常の喜びとしなければならない。『父が私を愛したように、私はあなたたちを愛する』(ヨハネ15・9)と、私は愛する弟子たちに言った。それなのに私は、弟子たちに、この世の楽しみを与えず、むしろ戦いの中に送った。名誉ではなく侮辱を、安楽ではなく労苦を、休息ではなく忍耐を与え、偉大な実を結ばせようとした。子よ、私のこの言葉を忘れるな」。

31・創造主を見いだすために、一切の被造物を捨てる

「主よ、私の心に、どんな人間も、どんな被造物も、入り込む余地がないほどの高さに至るためには、あなたの恵みがさらに必要なことを痛感します。私が、何かに心を占められている限り、自由にあなたに向けて飛び立てないのです。高く飛んで、憩いの場所を見つけるために、私に牝鳩の翼を与えてくれるのは誰か(詩篇54・7)といったその人は、あなたに駆け上がりたい、と願っていたのでした。澄んだ目で、この世を眺める人よりも、平和な人があるでしょうか。この世に何物も望まない人よりも、自由な人があるでしょうか。だから被造物を超越すべきであり、自分自身を全く忘れ、心を高く保ち、万物の創造主であるあなたと被造物とは、比べ物にならないことを、知らねばなりません。この世のものから完全に心を離さないなら、自由に天に、かけ上がれないのです。観想生活をよく送っている人が少ないのは、この世のはかない事物から、心を離すことを知る人が少ないからです。しかし、それに達するためには、霊魂を高く上げ、自分自身を忘れさせる神の恵みがいります。人間が、この高さに達し、この世から解放され、神と全く一致するまでは、彼の持っているものは、それが何であっても、大したものではありません。無限、永遠の善以外の何事かを、偉大なもの、尊いものと考える人は、いつまでも、この世で卑しい人間であり、来世では、神の王座まで上がれないのです。神以外のものは、すべて無であり、また無であると考えねばなりません。神に照らされた敬虔な人の知恵と、博学な人の知識とは、大いに差があります。人間の知恵を持って、営々として積んだ知識よりも、神に照らされた人の知恵の方が、はるかに尊いのです。観想を望む人は多いが、そうなるために必要な手段を実行する人は、少ないのです。また節制に気を止めず、外部の行いや、形にだけ気を止めるのも、大きな妨げです。取るに足らない事のために心を使うのに、霊魂のことを、真実に、心をひそめて、考えることのほとんどない私たちが、霊的な人でありえましょうか。私たちはどんな霊に導かれているのでしょうか。いったい自分をなんだと思っているのでしょう。ああ、あわれなのは私たちです。しばしの間、神を考えても、外のことにすぐ気を奪われて、自分の所業を厳密に調べてみようともしません。私たちは、心の執着がどちらに向かっているかに、注意していません。また、自分がいかに不潔であるかを、心苦しくも思っていません。不純な欲は、すべての人間を迷わせ(創世記6・129、そのために大洪水が起こりました。心が汚れているからこそ、そこから出る行いも悪いのです。それは当然のことで、内部的な徳が衰えている証拠です。清い心から出るものこそ、良い生活の実です。人は、他人が何をしたかを尋ねたがるものです。しかし、どれほど徳を持って行ったかには、注意を向けようとしません。強いか、金持ちか、美貌か、上手か、筆が達者か、声が良いか、よく働くか、それらについては、注意深く調べます。しかし、どれほど謙遜だったか、柔和だったか、忍耐があったか、敬虔だったか、霊的な人だったかについて、調べようとする人は少ないのです。世の人は、外部に目を留め、神の恵みは人間の内部に向けられます。前者は往々、過ちをしますが、後者は過ちをしないように、神に希望おきます」。

32・自分を捨て、邪欲をたつ

「 子よ、全く自分を捨てないなら、完全な自由は味わえないだろう。財産に執着する者、自分を愛する者、欲張る者、好奇心に駆られる者、落ち着かない者、イエス・キリストの光栄ではなく、自分の安楽を追い持てる者は、完全な自由を得るために、多くの妨げを持っている。この者たちは、砂の上に楼閣を作るが、それらは、いずれも、神から生まれないもの、滅びるものである。この短い言葉をよく頭にいれよ、全てを手放せば、全てを見いだす。邪欲を捨てれば、平和を見いだす。この言葉をよく黙想し、そして実行すれば、あなたは一切を理解するだろう」。「主よ、あなたの仰せられる事は、一日でできる仕事ではなく、遊び事でもありません。その簡単な言葉には、修道生活の全ての完徳が含まれています」。「子よ、霊的な完徳に達する道を知ったからには、退いてはならず、失望してもならない。いやむしろ、崇高な頂きに登ろうと希望し、努力しなければならない。あなたが、自愛心を抑え、ただ私の命令に従い、私が、父としてあなたに与えたお方に服従するなら、その時あなたは、神に受け入れられ、あなたの生涯は、平和と歓喜に満ちるだろう。しかしあなたが、脱ぎ取らねばならないものは、まだ多い。それを、私に皆捧げないなら、望むものを受けられない。富むものとなるためには、火で試された私の黄金を買え(黙示録3・18)。この黄金は、この世のものを踏み砕く天の知恵である。地上の知識を次にし、むなしいもので満足することをやめよ。人の世で貴重だと思われているものではなく、卑しいものを買え、と私は先に言った。自負せず、この世で偉大なものとされるのを好まない天の知恵は、まことにこの世にあって、小さなもの、無価値なもの、忘れられたものである。人は、口だけで天の知恵を称えるが、実際、生活においては、それから遠く離れている。しかし、それは、ほとんどの人に隠されている貴重な宝石である」。

33・心の変わりやすいこと、最高の目的を神に置くこと

「子よ、今の心持をあてにするな、それはすぐ移り変わるものである。生きている間は、嫌でも、心持が変化する。今喜んでいても、すぐ悲嘆にくれ、今は静かであっても、すぐ不安になり、今は熱心でも、すぐ冷淡になり、今は勤勉でも、すぐ怠惰になり、今は落ち着いていても、すぐ軽薄になる。しかし心の照らされた知恵ある人は、その移り変わりの中にあって固く立ち、心に感じていることを外に現さず、動揺の風に気を止めず、ただ、自分の心が、必要な望ましいものに向いているかどうかにだけ、気を止めている。彼は、さまざまの出来事の中で、単純な正しい意向の目を、常に私に向け、いつも変わることのない心を持って、踏みとどまる。意向が清ければ清いほど、この世の嵐の中を忍耐強く突き進める。しかし、常に清くあるべきこの意向も、とかく曇りがちである、快楽の何かが目に入ると、すぐにそれに目を向ける。自愛心を脱ぎ捨てた人は滅多にない。その昔、ベタニアのマルタとマリアのところに来たユダヤ人たちは、イエスに会うためだけではなく、ラザロを見るためでもあった。したがって、意向は常に清らかに保ち、真直な単純なものとし、あらゆる妨げを取り除いて、私に向けなければならない」。

34・主を愛する心は、すべてにおいて、すべてにまさって主を味わう

「ああ、私の神、私のすべてよ、私はこれ以上何を望み、これ以上の幸福をどこに見出しましょう。味わいのある優しい御言葉よ、この世も、この世のものも愛さず、ただ御言葉を愛する人にとっては!私の神、私のすべてよ。わかる者には、そう言っただけで十分です。こう繰り返すのは、愛する心にとって、喜ばしいことです。なぜなら主よ、あなたがそばにおいでになると、一切が歓喜に満ち、おいでにならないと、一切が苦々しく思われます。あなたは心を騒がせないものに、平和と歓喜をもって来てくださいます。創造した一切のものを感嘆させ、万事においてあなたを賛美させるのは、あなたご自身です。あなたがおいでにならないとどんな喜びも永続しません。何事かを楽しみ、好むためには、天の恵みの調味がなければなりません。あなたを味わっている者には、味わいのないものはありません。しかしあなたを味わっていない者に、何の楽しみがあるのでしょうか。世間に従うこの世の知恵者、地上の快楽を味わう者は、あなたを味わえません。世の知識は一切むなしく、内には死が隠れています。しかし世間のことを軽んじて、肉を節制し、ただあなたに従おうとする者こそ、真実の知恵者です。彼らは、空虚から真理へ、朽ちるべき肉体から不滅の霊に移されます。この人々にとって、神は味わい深いお方であり、被造物の中にある善を、すべて創造主への賛美に向けることができます。創造主の与える味わいと、被造物の与える楽しみ、永遠の楽しみと時間の楽しみ、創られたことのない光と造られた光とには、相違が、天と地の相違があります。ああ、この世の光明にまさる永遠の光明よ、天上より私の心に光をお放ち下さい。私の心と、その能力とを清め、喜ばせ、照らし、生気づけ、この上もない歓喜のうちに、あなたに一致させてください。主よ、あなたの存在によって満ち足り、あなたが、私の全てにおいて全てとなる、そのありがたい幸せな日は、いつ来るのでしょうか?その日が来るまで、私には歓喜がない。不幸なことに、私の中には、まだ古い人間が生きていて、それはまだ完全に十字架にかけられず、まだ完全に死にきっていません。それはまだ、霊に反して強く逆らい、私の心に戦いを起こし、私の霊魂の平和を許そうとしません。しかし、海を支配し、その波の騒ぎをしずめる主よ(詩編88・109、立って、私を助けに来てください(同43-16)。戦いを好む者を散らし(同67-31)、彼らを打ち砕いてください(同58・12)。不思議な御業をあらわすあなたに光栄あれ。主なる神よ、あなた以外に、私の拠り所も、逃れ場もないのです」。

35・この世では常に試練がある

「子よ、この世において、あなたは、いつまでも安心する時がない。生ある限りあなたにとって、霊的な武器がいる。あなたは敵に包囲され、四方から攻撃を受けている。忍耐の盾を用いないなら、まもなく傷を負わされるだろう。全て私のために、耐えようという真実な意志を持って、しっかりと私に根をおかないなら、あなたはこの戦いに勝てず、また聖人の勝利も受けられない。だから、あなたは、すべての妨害を雄々しく踏み越え、力強く立ち上がらねばならない。報いは勝利者に与えられ(黙示録2・16)、怠惰なものには悲惨が残される。あなたが、この世に休息を求めるなら、どうして永遠の休息にいたれよう。この世で多くの休息を求めることをやめて、心を忍耐に備えよ。この世ではなく天に、人間その他の被造物ではなく、ただ神のうちに、真の平和を求めよ。あなたは神のために、労苦、苦痛、誘惑、患い、不安、欠乏、病気、侮辱、悪口、避難、辱め、狼狽、叱責、軽蔑を、快く耐え忍ばねばならない。これらは、徳を積む役に立ち、キリストの弟子を試して、天の栄冠を準備するものである。私は、短い労苦の代わりに、永遠の報いを、一時の辱めの代わりに、不朽の光栄を与えよう。あなたは思いのままにいつでも、霊的な慰めが与えられると思うのか。聖人さえも、絶えず慰めを持ってはいなかった。むしろ幾多の試練と、患難と、憂悶とを味わった。しかし彼らはあくまで忍耐し、自分自身よりも神に拠り所をおいた。それは、この世の苦しみが、来世の光栄と比べ物にならないことを、知っていたからである(ローマ8・18)。あなたは、多くの人が、涙と労苦の末に得たものを、すぐ手にしようと思うのか。主の援助を望みつつ、勇ましく戦え(詩篇26・14)。心を安らかにせよ、信頼を失うな、戦場から退くな。神の光栄のために、身体と心とを戦いのために投げ出せ。私は、無上の報いを与え、あらゆる試練の時、あなたと共にいる」。

36・人間の空しい判断

「子よ、あなたの心を手にゆだね、良心が、あなたの敬虔と無罪とを証明するなら、他人の判断を恐れるな。この状態で苦しむ事は、有益な良いことである。心の謙虚な人、自分を忘れて神に信頼する人にとって、それは、困難なことではないだろう。人は饒舌が過ぎる。彼らの言葉は、信用する価値がない。また、すべての人を満足させることも不可能である。パウロは、主のために、すべての人を喜ばせ、すべての人にすべてとなろう(コリント前9・22)と努め、他人から非難されることを意に介さなかった(コリント前4・30)。他人の模範となり、救いを得させるために、身命をかえりみなかったパウロにして、なお、他人から非難され、軽蔑されることを免れえなかった。そのために彼は、すべてを知る神に、すべてをゆだねた。そして、自分を悪口する者、根拠のないそしりをする者、それを勝手に言いふらす者に対しては、忍耐と謙遜とをもって自ら守った。それでも時々、沈黙が誤解されて、弱い人々のつまずきとなる場合には、弁解の口を開いた。あなたは滅ぶべき人間を、なぜ恐れるのか(イザヤ51・12)。人間は、今日生きていても、明日はもういない。神を恐れよ。そうすれば、人間の脅迫を恐れないだろう。人が侮辱、脅迫しても、あなたに対して、それ以上何ができよう。むしろ自分で損害をするばかりだ。どんな人間にしろ、神の裁きを逃れ得ない。あなたは不断に神を仰げ、論争するな(テモテ後2・14) 。たとえ負けて、不当な辱めを受けていても、それに憤らず、忍耐を失って栄冠を取り逃すな。むしろ、あなたを辱めと侮辱とから救いあげ、各々の業に従って報いる力ある私に向けて、天に目をあげよ」(マタイ16・27、ローマ2・60)。

37・心の自由を得るためには自分を捨てねばならない

「子よ、自分を捨てよ、そうすれば、私を見いだすだろう。何事にも執着せず、特殊な愛を持つな、そうすればいつも利益があるだろう。あなたが自分を徹底的に捨てれば、より豊かな神の恵みがくだる」。「主よ、私は幾度、自分を捨て、どんな場合に自分を忘れたらよいのですか?」。「いつも、どんな場合にも、小事にも大事にも。私は何一つ例外を設けない。私は一切のものを捨てたあなたを見たい。そうでなくて、外部的にも内部的にも、あなたの意思を捨てないなら、どうして私があなたのもの、あなたが私のものと言えようか。私のこの勧めを、早く実行すればするほど、それはあなたにとって有益である。また完全に忠実であればあるほど、ますますあなたは、私の寵を受け、利益を受けるだろう。ある人は、自分を捨てるが、まだ何かを自分のものとして保留している。それは、完全に神に委託していないから、自分で自分のことを心配しようとするのである。ある人は、最初は熱心に犠牲を捧げるが、試練に会うと、せっかく捨てたものを取り戻そうとする。こういう人は、なかなか徳の進歩を見ない。こういう人は、完全に自分を捨て、毎日犠牲を捧げないと、私との親しい一致もなく、真の自由も、清さも、私との親交の恵みも受けない。何度も言ったことであるが、もう一度繰り返そう。自分を捨てよ、自分を忘れよ、そうすれば、心の平和が味わえる。全てであるお方に、全てを与えよ。何一つ取り戻すな。清い心を持って、ためらうことなく私にゆだねよ、そうすれば、私を受ける。そしてあなたは、自由な心の人間となり、闇におされる事はなくなる。努力してそうつとめよ、そう祈れ、そう望め。全ての執着を脱ぎ去り、裸で、裸のイエスに従い、自分に死んで、永遠に私に生きよ。そうすれば、空しい空想、危険な混乱、無用な心配はなくなり、過度の恐怖と、よこしまな愛もなくなるだろう」。

38・外部には正しく行い、危険に際して主により頼む

「子よ、あなたは、どこにいても、外部的などんな用事をする時にも、心を自由にし、自分自身を支配し、物事に支配されることがないように、全力をあげて努めねばならない。あなたは、しようとする仕事の、下僕や奴隷ではなく、指導者となれ。あなたは、奴隷から解放された神の子としての、身分と自由を受けるイスラエルの真の民とならねばならない。神の子は、今の世のものを超えて、永遠を目的とし、左の目で過ぎ去るものを見、右の目で天を眺め、この世に執着することなく、神の整然たる定めの通りに、最高の技術家が定めたままに、生活を送る。もしまた、どんな場合にも、事の皮相にとどまらず、見たこと聞いたことを表面だけで判断せず、主の御旨をうかがうため、モーゼとともに幕屋に入るなら、あなたは、神の返事を聞き、現在、未来の多くの事について教えられるだろう。モーゼは、疑問や難題を解決するときに、いつも幕屋を訪れ、危険と悪意に勝つためには、祈りに頼った。それと同様にあなたも、心の隠れ場に退いて、熱心に神の助けを願わねばならない。ヨズエと、イスラエルの子らは、先に主の御言葉をたずねずに、人の甘言を信じすぎ、偽りの同情に目がくらみ、ガバオン人にだまされた、と聖書にある」。

39・人は俗事にわずらわされてはならない

「子よ、あなたの心配を、全て私にゆだねよ、私は随時、適切に扱うだろう。私の計らいを待て。そうすれば、あなたは、よいことをした、と知るだろう」。「主よ、喜んで私のことをお任せします。私の考える事は、大して、役に立たないからです。ああ、私は、将来起こることを心配せず、完全にあなたの御旨に従いたいものです」。「子よ、人はしばしば、自分の望みのために動く。しかし、それを手にするやいなや、もはや興味を失う。人の望みは、同じ物事に長く留まることなく、一つから他へと移るからだ。したがって、些少なことにおいても、自分を捨てる事は、決して小さなことでは無い。人間の本当の霊的進歩は、自分を捨てることにある。そして、そうした人は、誰よりも自由で安全である。しかしすべての善人に反抗する、あの古くからの敵は、誘惑の手をとどめることがない。むしろ警戒を怠っている者を、罠におとしいれようとして、昼夜の分かちなく、待ち構えている。主は、『警戒して祈れ、誘惑におちいらないように』(マタイ26・41)と仰せられている」。

40・人間は、自分のものとして、何のよいものも持っていない、何一つ誇れない

「主よ、あなたが覚えていてくださる人間とは何者でしょうか、あなたが訪れてくださる人間の子とは、何者でしょうか(詩篇8・5)。恵みをお与えになるその人間は、どんな功徳を持っているのでしょうか。主よ、あなたが私をお離れになっても、私には不平を言う理由がなく、また、私の望むものを与えて下さらなくとも、当然の権利として私から要求できるものは何一つありません。私として、真実に考え、真実に言える事は、私が無であって、何もできない、自分としては一つの善も持たず、万事に弱い不足な人間であり、無のものを求めがちだ、と言う事だけです。あなたが助け、指導してくださらないと、私はすぐ冷淡になり、衰えてしまいます。かえって主よ、あなたは常に不変であり、永遠に存在し(詩篇101・28、13)、そして常に善、正義であり、全てを正しくよく、清く行い、万事を知恵によって計らわれます。ところが、徳において進歩するよりも、むしろ退歩しがちな私は、常に同じ状態にとどまりません。私は、七つの期間を常に変化しつつ生きています(ダニエル4・13、20、2)(注 ダニエルの記す七つの期間、すなわち乳児期、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、晩年を暗示するようである。身体とともに精神も変わる)。しかし、御旨の時、援助の御手を伸ばしてくださると、すぐさま私は好転します。あなたは、人間の干渉なしに私を助けあげ、私の心を固め、ただあなただけに傾かせ、ただあなただけに休めるように、私を強めてくださいます。だから、もし私が、敬虔を得るためにせよ、‥‥人間の中で私を慰めるものがないので‥‥人間からの慰めを全く受け付けなくなれば、当然あなたの恵みに期待でき、新たな賜物に喜びいさむことができます。私の上に全ての善を与えて下さる主よ、あなたに感謝します。私は、あなたの御前にあたっては、無のもの、むなしいものにすぎず、変わりやすい、弱い人間に過ぎません。それなら私は、何に誇り、誰から尊敬を要求するのでしょう。私が無であるから誇るのでしょうか、おそるべき虚栄心!虚栄心は、悪疫の一つ、それ以上むなしいものはありません。それは、人を真の光栄から遠ざからせ、天の恵みを失わせます。自分で自分を善しとすれば、あなたのお気に入らず、他人の賞賛を望めば、真実の徳を失います。真の光栄と歓喜とは、自分ではなくあなたを誇りとし、自分の徳ではなくあなたの御名に喜び、被造物ではなくあなただけを楽しみとすることです。私自身ではなく、御名が尊まれますことを。私自身のではなく、あなたの御業が賛美せられ、その聖なる御名が祝されますことを。そして私には一切人間の賞賛が向けられないように。ああ主よ、ただあなただけが、私の光栄、私の喜びです。私はあなたを誇りとし、日々あなたにおいて喜びいさみます。私は、自分の弱さだけを誇りとしましょう(コリント後12・5)。他の人々は、便宜上、互いに授け授かる、あの光栄を求めればよろしい。私はただ、神から来る光栄だけを求めましょう。実に人間の光栄、地上の名誉、地位などは、あなたの永遠の光栄に比べれば、いずれも愚かしい、むなしいことです。ああ、私の真理、慈悲の神よ、聖なる三位一体よ、あなたに賞賛、名誉、勢力、光栄が、世々にありますように」。

41・地上の名誉を軽んじる

「子よ、他人が名誉を受けて、重い地位につき、自分が人から蔑まれることがあっても落胆するな。あなたの心を、天なる私のほうにあげよ。そうすれば、この世の人間からの軽蔑を受けても落胆することはないだろう」。「主よ、私たちは盲人で、すぐ虚栄心に迷わされます。自分の内心をよく反省してみると、誰にも不当な扱いを受けなかったと言わねばならないのに。私には、あなたに向かって、不平を言う理由はないのです。いやむしろ私は、しばしばあなたに対して罪を犯したのですから、人が私に刃向かうのは、当然のことだと言わねばなりません。つまり私は、辱めと軽蔑に値する者であり、名誉と光栄とほまれとは、あなたに帰すべきものです。もし私が、人から軽蔑され、見捨てられ、無視されることを好むほどにならないなら、私は、心の平和を受けられず、霊的な光も、あなたとの一致も得られないでしょう」。

42・人間からの平和を期待してはならない

「子よ、もしあなたが、その人と、気があうから、あるいは親しく付き合っているから、その人からは平和を受けられようと期待するなら、あなたは動揺し、さまざまの心配に会うだろう。それに反して、真理の神から平和を求めるなら、友人に見捨てられても、死なれても、悲嘆に沈むことはない。友人への愛も、私の上に基づくべきものであり、この世で、徳のある人を愛する時も、その愛は、私のために愛するものでなければならない。私がいなければ、友情にも価値はなく、永続的なものはない。私に結ばれていない友情は、真実なものではなく、清いものでもない。あなたは、私に結ばれないそんな愛を持たず、人間との交際を、全て避けたいと思うほどにならねばならない。人は、神に近寄れば近寄るほど、人間からの慰めを求めなくなる。また、深くへりくだり、自分を卑しいと考えれば考えるほど、神に高く上がれるものだ。善を自分に帰するものは、神からの恵みがくだるのを妨げている。聖霊の恵みは、謙遜な心だけを探している。もしあなたが、完全に自我を脱ぎ捨て、その心から地上の物への束縛を断つなら、私は、天の恵みを持って、あなたの内に下らざるをえなくなる。しかし、あなたが被造物に心を向けるときには、もう創造主を見ることができない。神への愛のために自分に克つように、いずれの場合にも努力せよ。そうすれば、神を知ることができる。どんなに小さいものでも、それを過度に愛し求めるなら、最高の善に達するのが遅れ、霊魂をけがすようになる」。

43・空しい世俗の知識

「子よ、どんなに巧妙でも、人間の言葉に左右されるな。実に神の国は、言葉ではなく実質にある(コリント前4・20)、心を燃やし、知恵を照らし、罪の痛悔を起こし、さまざまの慰めを与える私の言葉を聞くがよい。学者だ、知恵者だ、と言われたい為に読書をしてはならない。むしろ悪の根絶に努めよ。それは、いろいろな難問を解くよりも、あなたにとって、益あることである。あなたが、研究の後に知識を得たら、次に言う原理に立ち戻れ。人間に知識を与え(詩編93・10)、どんな人間の教えもかなわないほど、子供にでも知恵を授けるのは、私である。私が話しかける人間は、すぐ知恵者になり、急速に徳の進歩を遂げるだろう。この世の新奇なことを知りたがって、神に奉仕する道を求めようとしない人は、不幸な人である。師の師、天使の主であるキリストが、すべての人間の知識を知るため、つまり各々の良心を調べるために現れる日が、いつか来るだろう。その時には、『エルサレムの隅々まで灯で探られ』(ソフォニア1・12)、闇に隠れている秘密は、すべて現れ、世の知恵者は、もはや口答えできなくなるだろう。学校で10年間勉強するよりも早く、永遠の真理の基礎を悟るように、謙遜な者の知恵を一瞬にして上げるのは私である。私は多くの言葉を用いず、学説の論争を避け、名誉を求めず、議論もせずに、人間に教える。この世を軽蔑すること、現在を軽んじ、永遠を求め、天をあらかじめ味わうこと、名誉を避けること、つまずきを忍ぶこと、一切神によりたのむこと、私以外に何一つ望まないこと、何事よりも深く私を愛すること、それを教えるのは私である。ある人は、私を深く愛することによって神を知り、驚くべき言葉を語った。この人は複雑な問題を研究することより、全てを捨てることによって、いっそう霊的に進歩した。しかし、私は、ある人には一般的なことを、ある人には特殊なことを、ある人には象徴と例えを使って、ある人には光を与えて、私の奥義を示した。書物に書かれていることは一つであっても、すべての人に一様に教えるわけではない。人の心を真理で照らすのは私であり、その心底を探り、考えを知り、行いを導き、その各々に適当な知識を分け与える」。

44・外部のことに関心を持ちすぎてはならない

「子よ、あなたは、多くのことを知らない方がよい。自分はこの世に死んだ者、この世は自分にとって、すでに十字架に釘づけられたものと思え。またこの世の俗事の間を通り抜けても、それに耳をふさぎ、あなたの平和を確保することだけを考えるがよい。議論して争うよりも、不賛成なことなら聞かないようにして、人が思いたいように思わせておくほうが、あなたにとって良いことだ。もしあなたが、神の御前に正しく生き、他人の行為を判断する時にも、神の判断に頼るなら、争いに負けた時も、平気で忍べるだろう」。「ああ、主よ、私たちはどうしてこれほど愚か者でしょう。私たちは物質的な損害に嘆き、わずかな儲けのために奔走し、労苦するのに、霊的な損失はすぐ忘れ、取り返しがつかなくなってから、思い出すのがせいぜいです。私たちは、たいして役に立たないことに気をつかうのに、非常に大切なことをなおざりにするのです。人間は、外部のことに溺れ、すぐ立ち直らなければ、たやすくそこに沈みきってしまいます」。

45・誰でも信用して良いとは言えない、言葉の過失は犯しやすい

「主よ、患難の時にお助け下さい。人間の助けは期待できません(詩篇59・13)。私は何度、信用していた人から裏切られ、そうでないと思っていた人に、真実を見出したことでしょう。要するに、人間に頼るのはむなしいことです。正しい人の救いはあなたにあります。主なる神よ、私たちの出会うことにおいて、あなたは祝せられますように。変わりやすい私たちは、しばしば迷い、しばしば考えを変えます。欺瞞や困惑に一度もおちいらないほど、よく警戒する、慎重な人があるでしょうか?しかし主よ、あなたに委託し、単純な心であなたを求めるものは、容易に迷いません。そして、たとえ患難を受け、非常な困難におちても、すぐあなたに救い出され、あなたの慰めを受けます。あなたは、より頼む者を最後まで見捨てておかれる事はありません。友達が不幸の時にも、友情を失わない忠実な友は、少ないものです。何事においても忠実そのもののあなた以外、そういうものはありません。『私の心はキリストに基づき、キリストに安堵する』といったあの聖い霊魂は、そのことをよく知っていました。私もそう言えるなら、人間への恐れにうろたえることもなく、また言葉の矢に動かされることもないでしょう。誰が、未来を予見し、将来の悪を予防できるでしょうか。前もって知っていたことにも、しばしば傷つけられるのなら、思いがけない出来事に傷つくのは当然です。それなのに、哀れな私は、なぜもっと慎重に、心を配らなかったのでしょうか?なぜ、これほど容易に他人の言葉を信じたのでしょうか?ああ、しかし、私たちは人間です、たとえ人が天使だと思っても、もろい人間です。主よ、私は誰を信じましょう?あなた以外の誰を信じましょう?あなたは誤ることなく、欺くことのない真理であります。人間は全て嘘をつき(詩篇114・16)、弱い者、変わりやすい者、言葉の過ちを犯しやすい者です。だから、真実らしい言葉でも、すぐ信じてはなりません。主よ、あなたが、『人を警戒せよ、人は自分の家の者を敵にするだろう』(マタイ10・36)、『ここにいる、あそこにいる、と言っても信じるな(マタイ24・23)と戒められたのは、当然なことでした。私は、失敗してからそれを学んだのです。将来、二度と過ちをせず、いっそう警戒するようになりたいものです。『私が今言うことを、誰にも言うな』とある人が私に言ったとします。そこで、私は誰にも言わず、誰も知らないと思っていたのに、秘密にしてくれと私に言ったその人自身が、秘密を守り切れないで、私と自分とを平気で裏切るのです。主よ、そういう無思慮な人間にならないように、私を守ってください。私が彼らの手中に落ちず、自分でもそういう過ちを犯さないようにしてください。私の口に、真実な言葉を語らせ、狡猾な言葉を知らせないでください。他人にとって耐え難い事は、自分自身も避けなければなりません。他人のことをしゃべらず、どんなことも軽々しく信じず、饒舌におちいらず、言葉の風にもてあそばれず、内部的なことも外部的なことも、全く御旨のままに行われるように望むのは、平和を保つ上に、実に有益な良いことです。人前に出ることを避け、人の関心を引くことを望まず、ただ、生活を改め、心を善に導くことだけを、一心に探し求めるのは、天の恵みを保つ上に最も安全なことです。徳が人に知られ、あまり早く賞賛を受けたために、どれほどの人が、損失を被ったことでしょう。誘惑と戦いとに満ちた、このはかない人生において、沈黙のうちに神の恵みを守ったことによって、どれほどの人が利益を受けたことでしょう」。

46・辛辣なことを言われたときには、神に依り頼む

「子よ、かたく立って、私に信頼せよ。言葉は言葉に過ぎない。それは空気の中を飛ぶけれども、岩を傷つけない。自分が悪いと知ったら、快く改めよ。自分にやましいところがなければ、神のためにそれを喜び受けるように努めよ。辛辣な言葉を忍ぶ位は、それ以上重い荷にたえないあなたにとって、大したことではあるまい。そんなささいなことが、なぜまた、それほどあなたにこたえるのか?それはあなたが、まだ肉の奴隷で、必要以上に他人を気にするからである。あなたは軽蔑されることを恐れ、過失を叱責されることを嫌がり、弁解の言葉を探している。もう少し自分を反省せよ。そうすれば、あなたの中に、まだ世間が生きていて、人の気にいろうとするむなしい望みを捨てきっていない事に気づくだろう。軽蔑され、短所を非難されるのを嫌っている間は、あなたは、まだ真に謙虚な人ではなく、まだ世間に執着があり、世間もあなたのうちに死んでいない証拠である。しかし、私の言葉を聞け。そうすれば、あなたは、何千人の言葉も気にしなくなるだろう。人間の想像しうる限りの悪口が、あなたにあびせられても、それを聞き逃して、一本のわらくずほどにも思わなかったら、あなたは、何一つ損害を受けない。あなたはそのために、一本の髪の毛さえ失う事はない。しかし、心をひそめることを知らず、神に心を傾けていない人は、侮辱の言葉に動かされやすい。それに反して私に万事を委託し、自分勝手な判断を慎む人は、少しも他人を恐れない。すべての秘密を知り、それを裁くのは私である。私はその事の次第を知り、侮辱する者とそれを忍ぶ者とを知っている。その侮辱は私の摂理によって、『多くの人の密かな考えをあらわすために』(ルカ2・35)出たものである。私は罪ある者と、罪なき者とを裁くが、その前に密かに、双方を試そうとした。人間の証言は誤りやすい。しかし、真理である私の裁きは、誰にも倒されることのない確固たるものである。ほとんどの場合、私の裁きは秘密であり、わずかな人だけがその二、三の裏の理由を推測できるに過ぎない。私の判断は謝ることがない。愚かな人がそれを不正だと言っても、決して私の判断は変わらない。だから何事も判断するにも、私に依り頼み、自分の狭い判断だけに頼ってはならない。正しい人は、神から何を与えられても、うろたえない(格言12・21)。自分が不正な判断を受けても、それを気に留めず、また、他人が正しい理由を挙げて弁護してくれても、過度に喜ばない。なぜならその人は、人間の心と霊とを、深く探る神に見られていること(黙示録2・23)、表面的な理由で神に裁かれるのではないことを、知っているからである。だから人間の判断で賞賛されることが、私には、罪であるかのように見える場合もある」。「主なる神よ、正しく、力強く、忍耐づよき審判者よ(詩篇7・12)。人間の弱さと悪を知るあなたこそ、私の力、私のよりどころです。自分の判断だけでは足りません。あなたは、私の知らない事も知っておいでになる。だから他人から非難を受けるとき、私はへりくだって柔和に忍ばねばならないのです。もしそうしないことがあれば、そのたびに私を許し、より以上の侮辱を忍ぶ力をお与えください。許しを受けるためには、自分で正しいと思うことや、心の秘密を弁護することよりも、あなたの慈悲の方が役立ちます。自分の良心にやましいところがないにしても、それだけで、あなたの御前に正しい人であるとは言えません(コリント前 4・4)。あなたの憐みがなければ、誰一人として正しい人とは言えないのです」(詩篇142・2)。

47・永遠の生命を得るために、どんな犠牲も耐え忍ぶ

「子よ、私のために背負った労苦にくじけるな。どんな試練にあっても失望するな。どんな場合にも、私の約束に力づけられ、慰めを得よ。私はあらゆる限界を超えてあなたに報いを与える。あなたが地上で労苦するのは短く、苦しみを受けるのも始終のことではない。忍耐して少し待て。そうすれば、まもなく不幸は去るだろう。すべての労苦と争いとがなくなる時も来るだろう。時とともに過ぎ去るものは、全て小さく短いことがらである。仕事は注意を込めて行え、葡萄畑でよく働け。そうすれば、私があなたの報いとなる。書け、読め、歌え、願え、沈黙せよ、祈れ、雄々しく不幸を迎えよ。永遠の生命は、そういう戦い、いやそれ以上の戦いに値するものである。主の定めた日、あなたの上にも平和が来る。その時には、今のような昼夜はなく、永遠の光明、無限の明るさ、ゆるぎない平和、安全な休息がある。その時には、「誰が私をこの死の体から解き放つか」(ローマ7・24)と嘆く必要もない。また、「不幸なことよ、私のさすらいの日は伸びた」(詩篇119・5)と訴えることもない。もはや死は滅ぼされ、救霊は完成し、何の不安もなく、完全な幸福と快い美しい交際があるばかりである。ああ、天の聖人の永遠の栄冠!かつてはこの世で軽蔑され、生きる値うちのない人間とすら言われた人が、今、どんな光栄の中に喜びいさんでいるかを見れば、必ずあなたは、地の上にひれ伏し、へりくだり、ただ一人の人の上にも立ちたくない、全ての人の下につきたい、と渇望するだろう。またこの世の楽しみをうらやまず、ただ神への愛のため苦しむことを喜び、人々に無視されることを、大いなる利益と思うだろう。もしあなたが、この真理をよく悟り、心に刻んだなら、ただ一度も不平を言うまい。永遠の生命のためには、どんな苦労も忍ぶべきではないか。神の国を得るか、失うかは、小さなことではない。目を天にあげよ。そこには、私がいる、またこの世で辛い試練を忍んだ私の聖人たちもいる。この者たちは、今こそ喜び、限りない慰めを得、何の恐れもなく休んでいる。父の御国に、彼らも私とともに、終わりなく住むだろう」。

48・永遠の日とこの世の息苦しさ

「天の都のなんと幸せな住まい!夜闇におおわれることもなく、絶えず至上の真理に照らされた、永遠に輝く日よ!いつも楽しく、いつも安らかな、いつまでも終りのない日々よ!ああ、私たちの上にも、永遠のその日が輝き、地上のはかない日が終われば良い。その日は永遠の光を聖人たちに放っている。しかし、この世を歩み続ける者にとっては、はるかに遠く、余映のようにしか映らない。天の住民は、その日がどんなに歓喜に満ちているかを既に知っている。しかし、さすらいのエワの子は、今の日が、どんなにつらく悲しいかを嘆いている。この世の日々は短く、悪く、苦しく、辛い。人間は罪に汚され、邪欲に取り囲まれ、恐怖に脅かされ、仕事に気を使い、新奇なことに気をちらし、むなしい事柄に付きまとわれ、誤謬に囲まれ、労苦におされ、誘惑に悩まされ、貧困に苦しめられています。この不幸は、いつ終わるのでしょうか?私は惨めな罪の奴隷から、いつとき放たれるのでしょうか?主よ、いつになったら私は、あなただけを考え、あなただけに満足できるのでしょうか?いつになったら、何の束縛もない真の自由と、精神と身体からの解放とを得られるのでしょうか?いつになったら揺るがぬ平和、安全な平和、心と外部との平和、いずれにおいても不動の平和を得られるのでしょうか?ああ、イエスよ、いつになったら私は、あなただけを仰ぎ見、御国の光栄を眺め、あなたが私にとって、『すべてのすべて』(コリント前15・28)となるのでしょうか?永遠から選ばれた人々のために、備えられた御国に行くのは、いつでしょうか?毎日戦いがある不幸なこの敵地に、私は貧しい追放者としてさまよっています。主よ、流され人の私を慰めてください。私の労苦を和らげてください。私の望むのは、あなたを慕うことだけです。この世が与える慰めは、私にとって重荷です。私は親しくあなたと交わりたいと思うのに、まだできません。私は天を眺めたいと思うのに、地上の俗事と、まだ抑え切れない邪欲のために、下界にひかれがちです。私は心を持ってこの世の全てを超えたいと思うのに、肉体は、不本意ながら、それらの事柄に服従させるのです。こうして不幸な私は、霊と肉とに双方からひかれ、自分が自分自身の重荷となっています(ヨブ記7・22)。すなわち、精神は上に、肉体は下に向かおうとします。天のことを黙想していて、突然、その祈る心に、様々な誘惑が襲いかかるのを知る時、私はどんなに苦しいことでしょう。私の神よ、私から遠ざからないでください(詩編70・12)。また怒ることなく、召し使いを見捨てることなく(詩篇26・9)、あなたの光を放って、誘惑を追い、あなたの矢を投げてください(詩篇143・6)。そうすれば悪魔は去るでしょう。私の思いを集中させ、世間を忘れさせ、邪念を退けてください。永遠の真理よ、私を助け、むなしい俗事に動かされないようにしてください。祈る時に私が、あなた以外のことを考えるとしても、どうぞ私を憐れみ、許してください。私は今まで、あまりに放心のまま祈ってきました。しばしば私は、自分が立っているところ、腰掛けているところにおらず、想像に運ばれて他所に行きました。私は、私の考えるところにいます。私の考えは、時々、愛するもののあるところに行きました。つまり、肉が喜ぶもの、習慣として気にいっているものが、よく私の頭に浮かびました。だから、無限の真理であるあなたは、『宝のあるところにその心もある』(マタイ6・20)と明らかに仰せられました。私が、天を何よりも愛しているなら、喜んで天のことを考えます。しかし、世間を愛しているなら、心は世間の幸せを喜び迎え、世間の不幸を悲しみます。私が物質的なことを好めば、私はしばしばそのことを想像します。しかし霊を愛しているなら、霊的なことを考えて喜びます。私は自分の愛しているものについてよく語り、よく聞き、その思いと共に生きています。しかし主よ、あなたへの愛のために、心の中から全ての被造物を去らせ、本来の欲望と戦い、熱心な心で肉の欲を十字架につける人は、澄んだ心を持って、あなたに清い祈りを捧げ、内と外からの地上的な束縛を脱ぎ捨てて、いつの日か天地の群れに加わるに足るものとされるからです」。

49・永遠の生命への憧れと、そのために戦う人に約束された報い

「子よ、天から、永遠の幸福への憧れが注がれるのを感じ、どんなかげりもない私の光明を仰ぐために、身体の牢から解放されたいと思うなら、心を広げ、望みを持って、この聖い霊感を受けよ。これほど、情け深くあなたを訪れ、強くあなたを励まし、あなたが自分の重みで地上に下らないように、力強く支えてくださる至上の善なる神に、深く深く感謝せよ。この恵みは、あなた自身の努力で受けたものではない。あなたに徳、わけても謙遜の徳を持たせ、将来の戦いに備えさせ、愛と熱心な意志でもって私に帰らせるために、天の恵みと神の愛とが与えてくださったことである。子よ、あなたは、火が燃えるのを見たことがあろう。炎が昇るときには、必ず煙が伴う。これと同様に、天への憧れに燃えていても、地上の誘惑への抵抗が鈍ることもある。だから、神にこい求めることも、全てが、ただ神の光栄の為ばかりだとは言えない。天へのあなたの思いと、あなたの憧れも、やはりそうである場合がある。自分の利益と欲に汚されていては、未だ完全な清いものとは言えない。自分にとって楽しいこと、利益になることを求めず、むしろ私の気に入ること、私の光栄となることを求めよ、あなたの判断が正しいなら、あなたは、他の願望を全て捨てて、私の命令に従うだろう。私はあなたの望みを知り、しばしば嘆くのを聞いている。あなたは神の子らの味わう光栄の自由に入りたがっている。また永遠の住居と喜びに満ちた天の国を望んでいる。しかし、その時は、まだ来ていない。まだ他の時、戦いと、労苦と、試練の時を、くぐり抜けねばならない。あなたは至上の善に満たされることを望んでいるが、今はまだその時ではない、その至上の善は私である。主は、『神の国が来るまで私を待て』と仰せられている。あなたはまだこの世で試され、いろいろ鍛えられねばならない。たびたび慰めを受けるが、しかしこの世には不足のない慰めはない。だから、本来なら好ましからぬことを、元気を出して、雄々しく行え(ヨズエ記1・7)。あなたは、新しい人を着て、別な人間になる必要がある。あなたは、望まないことを行い、望むことを捨てねばならない。他人の望む事は成功し、あなたの望む事は失敗に終わることがあろう。他人の言い分は聞き入れられ、あなたの言い分は黙殺されることもあろう。他人は求めるものを受け、あなたは求めるものを受けないこともあろう。他人は評判を上げ、あなたは取り残されることがあろう。他人には、あれこれの仕事が任され、あなたは役立たずのように思われることがあろう。本来の人間としてはそれらを悲しく思う。しかし、黙ってそれを忍ぶのは偉大なことだ。主の忠実な下僕は、このような、あるいはこれに似た方法で、どれほど自分を捨てるか、自分をどれほど抑えるかを試される。自分の意思に逆らうことを見たり、耐え忍んだり、あるいはまた、自分にとって不都合なこと、ほとんど無駄だと思えることを命じられる時ほど、自分を捨てる必要を痛感する場合はない。そしてあなたは、他人の権力の下にあって、上の者に反抗できないので、他人の指図のままに歩き、自分の意見を捨てねばならないのを、辛く思うだろう。しかし子よ、この犠牲の功徳を考えよ。それは過ぎ去り、その後には報いがあると考えよ。そうすれば、あなたはそれを重荷と思わず、忍従するに当たって強い励ましを感じるだろう。今あなたが小さな望みを進んで捨てる代わりに、天で、あなたの望みが、全て通る。実にそこには、望み通りのもの、願うままのものが見つかる。そこでは、失う恐れがなく、あらゆる善を十分に持つことができる。そこでは、あなたの意志は、私と一致し、それ以外の事や自分だけのものは、何一つ望もうとしない。そこでは、あなたに逆らう者もなく、不平を言う者もなく、邪魔する者もなく、反対する者もない。それどころか、あなたは望みのものを持ち、心は満たされ、十分に満ち足りる。そこで私は、あなたがしのんだ侮辱の代わりに、光栄を与えよう。悲しみの代わりに賞賛をまとわせ、この世で最後の席を取った者に、御国において最上の席を与えよう。そこでは、従順の実がなり、苦行の苦しみが、喜びになり、謙遜な服従が光栄の冠となる。だが、今は、誰の下にもへりくだり、言った人、命じた人が誰であろうと気にするな。あなたが特に気をつけねばならない事は、目上、同輩、目下の区別なく、あなたに何かを望み、何かを勧めるときに、それを全て善意にとって、真実の心で果たすように努力することだけである。他人が、あのこと、このことを求め、ある者はこれを誇り、他の者は、あのことを誇って、大いに賞賛されることがあっても、あなたは、何事も誇らず、自分自身を軽んじ、御旨を果たし、私の光栄のために努めることを喜びとし、誇りとせよ。あなたが望むべきは、『生きるにしろ死ぬにしろ』(フィリッピ1・20)あなたによって、神の光栄があげられること、これだけである」。

50・悲しみもだえる時、人はすべてを神の御手に任せねばならない

「主なる神、聖なる父よ、今もいつも世々にあなたは祝されんことを。あなたの御旨は常に行われ、あなたのお定めになることは常に善である。あなたの下僕は、自分をも他の人をも喜びとせず、あなたにのみ喜びを置いています。あなただけが、喜びであり、私の希望と栄冠、楽しみと誇りです。何一つ功徳のない下僕は、あなたからもらった物以外に何を持っているでしょうか?あなたが下僕に対してしてくださったこと、与えてくださったことは、全てあなたのものです。私は貧しく、幼児から貧苦のうちに生きてきました(詩編87・16)。私の心は、時に悲しみに泣き、時に、攻めてくる邪欲に悩まされ、時に深く心を騒がせます。私は平和の喜びを望んでいます。慰めの光で養われる神の子らの平和に、憧れています。私に平和を与え、聖なる喜びを注いでくださるなら、下僕の心は、敬虔な賛美のうちに、喜びいさむことでしょう。しかし、あなたが時々なさるように、私から遠ざかられると、下僕は、掟の道(詩篇118・32)を歩めず、膝を折って、胸を打つことしかできません。あなたの光が私の頭上に輝き、御保護の翼に隠れて、誘惑から守られていた昨日とおとといは、もはや過ぎ去りました。正しい御父よ、敬うべき御父よ、下僕の試練の時はきました。愛する御父よ、この時にあたって、下僕が、あなたのために何事かを忍ぶのは、当然のことです。永遠にあがむべき御父よ、あなたが永遠の昔より予見された時はきました。そして下僕は、しばしの間、外部からの打撃を受けて倒れるかもしれません。しかし内部においては、絶えずあなたのそばに生きています。しばしの間は、侮辱を受け、他人に侮られ、面目を潰され、苦しみと病気にうちくだかれるでしょう。しかしそれは、新しい光のうちに、あなたと共に復活し、天において光栄を受けるためなのです。聖なる御父よ、あなたはこう定め、こうお望みになり、そしてあなたの御命令通りに行われました。主よ、あなたを愛する者にとって、あなたへの愛のために、この世において、御旨による人と時とに苦しめられることこそ、恩恵と言わねばなりません。あなたの許可と摂理と、何か正しい理由なしには、何一つこの世に起こりません。主よ、私を卑しめてくださったのはよい事でした。それによって私は、あなたの正義の定めを悟り(詩篇118・71)、すべての高慢と自負心を脱ぎ去ることができました。恥辱に赤面した事は、私にとって有益でした。そして、私は、人間ではなく、あなたに慰めを求めることを教えられ、常に正義と公正とをもって、悪人を利用し、正しい人に試練をお与えになるあなたのはかりがたい定めを知りました。私の罪を容赦せず、苦しみで私を突き通し、外部的内部的な苦痛を与えて、厳しく鞭打ってくださったことを、感謝いたします。人を叩いて、のちに治し、「黄泉の門に連れ去ってまた連れ帰る」(トビア13・2)霊魂の医者である私の神以外、どんなものも、私を慰めえません。あなたの教えが私を導き、あなたの罰が私に教えてくださいます。愛する御父よ、私はあなたの手中にあります。あなたの懲らしめの鞭の下に、私はひれ伏します。私の背と首とを打ってください。そうすれば私は、罪に迷いやすい自分を、御旨のほうに向きを変えさせることができます。恵みによって、敬虔な謙遜をお与えください。そうすれば私は、あなたの指図に従って歩みます。私のすべてをお任せします。あなたが、私を懲らしめ導いてください。後の世ではなく、この世で罰せられる方が良いのです。あなたは、全部も部分も、全てをご存知です。人間の良心も、あなたの前には秘密がありません。あなたは、将来のことを、それが起こる前に知っておられます。この世で起こる事柄についても、知らせを受け、忠告を受ける必要がないのです。あなたは、私の霊的進歩のために、何が必要かを、また罪悪のサビを取るために患難がいかに役立つかを、知っておられます。私に対して、御旨を行ってください。そして、私の罪ある生活をご覧になっても、私から遠ざからないでください。主よ、私が、知るべきことを知り、愛すべきことを愛し、あなたの喜ばれることを讃え、あなたにとって尊いことを尊び、あなたにとって卑しいことを軽蔑させてください。この世のことを、人の目で裁くことのないように、私と同じ無知な人々の話から物事を判断することのないようにしてください(イザヤ11・3)。物質的、霊的なことを、真理に基づいて判断し、特にいつも御旨を実行させてください。人は、感情に従って判断するので、過ちを起こしやすいものです。見えるものだけを愛してこの世に従う者も、誤りやすいものです。他人から、実際以上に偉く思われても、それで実際偉くなるのでしょうか!人間が褒めるときは、嘘つきを嘘つきが、虚栄の強い者を虚栄の人が、めくらをめくらが、弱い者を弱い人が、互いにほめ合うに過ぎません。実際は、理由もなしに他人をほめるのは侮辱することに等しいのです。『人間は、主のみ前にある以上の者ではなく、それだけの価値しかない』と謙遜なフランシスコは言っています」。

51・崇高なことをしきれないときには、低い信心行につとめよ

「子よ、あなたが、常ならぬ熱心を持って、聖徳に憧れ続けることは難しく、一段と高い霊的観想を続けることも、出来にくいかもしれない。むしろ、時々は、元来の弱さのために、それより低い信心行をすることによって、とにもかくにも、この朽ちるべき身体の荷を負わねばならない。あなたがこの朽つべき身体を持っている間は、倦怠と憂鬱とを感ぜざるをえない。だから、肉体をもっている間は、しばしば肉の重さを嘆くべきだろう。あなたは、霊の修行と天の観想に不断にふけっていることが、できないに違いない。そういう時は、単純な物質的な仕事にたずさわり、善業に慰めを見つけ、天から私の恵みがくだるのを、固い信頼を持って待ち、再び私の訪れを受けて心の不安を解かれるまで、心の憂苦を忍ぶことが、時によいのである。そうするなら、私は、苦労を全て忘れさせ、心の平和を味わわせ、聖書の楽しい園を見せよう、そしてあなたは、心をくつろがせ、掟の道(詩篇118・23)を進むだろう。その時あなたは、『この世の苦しみは、来世において私たちに現れる光栄と比べ物にならない』(ローマ8・1)と言うにちがいない」。

52・自分は、慰めでなく罰に値するものだと思わねばならない

「主よ、私はあなたの慰めを受け、霊的な訪問を受ける価値のないものです。だから、私を、貧しさと寂しさの内に残して置かれるのは当然です。私が、海ほどの涙を流しても、まだあなたの慰めを受ける価値はありません。ただ、私は鞭うたれ、罰せられる値打ちしかありません。なぜなら、しばしばあなたに背き、多くの罪を犯したからです。よく反省すれば、私はどんな慰めも受けるに足りません。しかし、被造物が惨めな滅びに至るのをお望みにならない、仁慈とあわれみの神よ、あなたは、あわれみを明らかにし、仁慈の富を示そうとして、下僕に何の功徳もないことを忘れ、思いがけないほど豊かに恵んでくださいます。実にあなたの慰めは、人間のむなしい言葉の及ぶところではありません。あなたから、天の慰めを受けるほどのことを、私はしたでしょうか?私は何一つ良いことをしませんでした。いつも、悪に傾き、自分を改めるにおろそかでした。そうでないと言えば、私は御前から退けられるでしょう。私は、犯した罪のために地獄と永遠の火を受けねばならないものです。私はただ、侮辱と軽蔑だけを受けて良い人間であり、あなたを愛する人々の群には加われません。こう告白するのは辛いことです。が、真実は真実です。私は自分の罪を明らかにし、あなたの憐みを受けたいと望んでいます。罪多い恥ずべき人間の私は、ただこう言う他はありません。『私は罪を犯しました、主よ、私は罪犯しました。私も憐れみ、私を許してください。死の影に満ちた闇の地に行く前に、罪を嘆き悲しんで泣くしばしの時を、与えてください』(ヨブ記10・20~22)。哀れな罪人が痛悔し、罪のためにへりくだることを、あなたは、待っておいでです。真実な痛悔といやしめから、許しの希望が生まれ、悩む良心は静かになり、失った恵が取り戻され、こうして人間は、将来の怒りから守られ、痛悔する霊魂は、神と接吻をかわすために相逢うのです。謙虚な痛悔は、主よ、あなたに喜ばれる生贄であり、御前にあって、香よりもかぐわしい匂いを放ちます。その痛悔はまた、あなたが御足に注がれることを望まれた香油です。あなたは、悔みへりくだる心を退けられる事はないのです(詩篇50・19)。それはまた、敵なる悪魔の攻撃に対する避難所であり、霊魂についた汚れが取り去られ、清められるところです」。

53・この世のものに従う人には、神の恵みがくだらない

「子よ、私が与える恵みは貴重なものだから、世俗の楽しみと混同することを許さない。恵が注がれることを望むなら、その妨げとなるすべてを、捨てねばならない。密かに生き、独りでいることを好み、誰とも特に話をせず、潜心、そして清い良心とを保つために、熱心に神に祈れ。この世の全てを無視し、外部のどんな行いよりも、神に仕えることを重視せよ。この世のはかない事柄を楽しみつつ、同時に私に仕えることはできないのだ。あなたは知人や親戚から、離れねばならない。そして、人間からの慰めを全て犠牲にしなければならない。使徒ペトロは、『この世においては他国人、旅人のように』(ペトロ前2・11)考えよと、キリストの弟子たちに勧めている。この世にあっては何事にも縛られないものは、死の時、どんなに安らかだろう。しかし、弱いものが、このように離脱しきるのは困難である。そしてこの世に執着する者は、心の自由を悟れない。真に霊的な人間でありたいなら、他人や親戚とも付き合わず、誰よりも自分を警戒しなければならない。完全に自分に勝てた時、他のものを征服するのは容易だろう。自分に勝つことだけが、真実の勝利である。感覚を理性に、理性を万事において私に服従させるほど、自分を征服したものは、勝利者であり、支配者である。あなたが、この頂きに登ろうと思うなら、自分と、自分個人の物質的なものに対する、隠れた邪心を根絶やしするために、斧を使わなければならない。人間は自分自身に執着しすぎている。そこから、ほとんどの悪が生じている。それらに打ち勝ち、滅ぼし尽くすなら、不断の平和と安らかさとが味わえる。しかし自分に全く死にきるために自分を脱ぎ捨てようと努力する人は少ないから、自分にまといつかれ、霊を持って飛ぶことができなくなる。私と共に自由にかけ上がろうとするものは、よこしまな愛を滅ぼし、どんな被造物も望まず、どんなものにも愛情を持ってはならない」。

54・肉と神の恵みとのことなるはたらき

「子よ、あなたの肉と私の恵との働きに注意せよ。この二つは相反しているが、ほとんど意識できないほどである。霊的な人が、内的な光に導かれている時にだけ、その二つを区別できるだろう。全ての人は善を好み、その言葉と行いとに、いくらか善があると皆考えている。だから、その善に、人はだまされるのである。肉は狡猾で、人を引きつけ、おとしいれ、だます。そしてその唯一の目的は、常に自分である。ところが神の恵みは、単純に行い、悪をことごとく避け、罠をかけず、その最高の目的として、ただ神への愛を置き、そこに休みを見つける。肉は人から無視されること、抑えられること、服従させられることを好まず、進んで他人に服従し、その下につくことを望まない。ところが神の恵みは、自分を抑えようと努め、邪欲に逆らい、服従することを望み、負けることを喜び、自由に振る舞うのを避け、命令されることを好み、一人の上にも立とうとせず、常に神の下におり、生き、望み、神への愛のために、誰にも謙虚にへりくだろうとする。肉は、自分の利益のために働き、他人からどんな利益を受けるかを重視する。ところが、神の恵みは、自分だけの利益と楽しみを求めず、むしろ他人の利益を求める。肉は、名誉と尊敬とを喜ぶが、神の恵みは、名誉と尊敬とを、ただ忠実に神に帰する。肉は、辱めと軽蔑とを恐れる。しかし神の恵みは、イエスの御名のために辱められることを喜びとする(使徒5・41)。肉は、何もせずに、体を休ませることを好む。ところが神の恵みは、働かないでいることを嫌い、喜んで苦労をとる。肉は、珍しいもの美しいものを望み、安価な質素なものを嫌う。ところが神の恵みは、質素な粗末なものを喜び、荒布も古服も嫌わない。肉は、地上の富を渇望し、この世の利益を喜び、損害を嘆き、一言の侮辱さえ気にする。ところが神の恵みは、永遠のものに心を置き、地上のものに執着せず、物質的な損害に動ぜず、無礼な言葉にも憤らない。なぜなら自分の宝と喜びとを、何一つ失われることのない天に置いているからである。肉は、貪欲で、与えることより、受けることを喜び、自分だけの持物を好む。ところが神の恵みは、他人を愛し、他人に自分のものを分け、目立つことを避け、少しのもので満足し、受けるよりも与える方が幸せだと考える(使徒20・35)。肉は、被造物と自分の虚栄と遊楽とを好む。ところが神の恵みは、神と徳とに向かい、被造物を捨て、世間を離れ、肉欲をいとい、放心を抑え、人前に出るのを好まない。肉は、感覚の快楽となる世俗の慰めを探し求める。ところが神の恵みは、神にだけ慰めを求め、この世の全てを超え、最高の善を楽しみとする。肉は、万事を自分の利益のために行い、無報酬で奉仕するのをいとい、行ったことに相当する、いやそれ以上の利益や賞賛や報いを得ようとし、自分の行いや恩恵が尊重されることを望む。ところが神の恵みは、この世の事は何も求めず、神以外のどんな報いも要求しない。生活する上に必要なものであっても、永遠の報いに役立つものだけを求める。肉は、多くの友人知己を持とうとし、家門や家柄を誇り、権力にへつらい、富に追従し、自分に似たものをほめあげる。ところが神の恵みは、敵さえも愛し、多くの友人を持っていても誇らず、徳が伴わない限り、家門や家柄を重視せず、金持ちよりも貧しい人に好意を持ち、へつらうものよりも真実な人を喜び迎え、いっそう完徳にすすみ(コリント前12・31)、ますます神の子に似るようにと、常に良い人々にすすめる。肉は、不足なものや煩わしいことにすぐ不平を鳴らすが、しかし神の恵みは、忍耐強く欠乏を耐え忍ぶ。肉は、自分一個の利益に全てを帰し、自分のために戦い、自分のために議論する。ところが神の恵みは、本源である神に全てを帰し、善業を一切自分に帰せず、うぬぼれて過信せず、争わず、自分の意見が一番優れているとは思わず、自分が考え、そして理解すること全て、永遠の知恵とその判断に従わせる。肉は、秘密を探り、新しいことを聞きたがり、外に自分を見せびらかし、感覚によって多くの経験を得ようとし、自分の名声と賞賛を上げるような事に働きかける。しかし神の恵みは、新しいことや珍しいことを無視する。この世で起きる事は、過去の出来事の変形に過ぎず、真実に新しいことを永続する事は無いからである。そこで神の恵みは、感覚を抑え、虚栄心と見せびらかしをさけ、賞賛と感嘆に値することを覆い隠し、すべての知識から、神の光栄と賞賛となることだけを求めよと教える。神の恵みは、自分自身、あるいはそこから出るものが、賞賛されることを望まず、無償で全てを与える神の恵みだけが、賞賛されることを望む。神の恵みは、超自然的な光、神の特別な賜物であり、選ばれた者の印、永遠の救いの保障である。またそれは、地上から天への愛に自分をかけ上がらせ、肉のものから霊のものに変わらせる。つまり、肉に勝てば勝つほど、神の恵みは大きくなり、日々の新しい訪れによって、内的な人間が、神の型に沿って完成するのである」。

55・肉の堕落と神の恵みの結果

「主なる神よ、私をあなたにかたどってつくられた神よ、救いに必要な偉大なものだと示されたその恵みをお与えください。罪と滅びに惹きつけるこの汚れた肉に勝つためです。私の肉体の中には、精神の法に反対し、感覚に服従させようとする罪の法(ローマ7・32)があるのです。私の心に注がれる至上の恵みに保護されなければ、私は肉の欲に抵抗できません。悪に傾く肉に勝つためには、あなたの恵み、偉大な恵みが必要です。人間の本性は、人祖アダムによって堕落し、以後罪によって汚され、その汚れの罰は全人類に染み込みました。こうして、あなたが、善いもの、汚れないものとしてつくられた人の本性は、悪となり、汚れた肉となりました。肉の欲をそのままにしておくなら、人間は、悪と俗世に引きつけられます。その火は、人間の理性ですが、それは深い霧に包まれています。それは善悪を区別でき、真と偽りを見分けることができますが、しかし、善と認めることを実行しきれず、真理に満ちた光もなく、心の愛情も健全ではなくなっています。ですから、神よ、私は、霊の人(ローマ7・22)に従うとき、あなたの法を喜び、あなたの掟が善であり、義であり、聖であることを知り、全ての悪と罪とを避けねばならないことがわかります。しかし不幸にも私の肉体は、罪のほうに従い、理性よりも邪欲に引きずられます。悪よりも善を行いたいという意志はあっても、それを実行する力がないのです(ローマ7・18)。いろいろ善いことを行おうと覚悟しても、弱さを助ける恵みがないので、最初の妨げに負けて退き、失望して倒れます。同様に私は、完徳の道を知り、行うべきことも知っていますが、堕落した肉の重さに押されて、完全なものに昇れません。ああ主よ、善を行い、すすめ、それを完成させるために、私にとってどれほど、神の恵みが必要でしょう。それがなければ、私には何事も出来ません(ヨハネ15・5)。だが神の恵みによって力づけられると、私には何でもできます。実に神の恵みこそ天のものです。それがなければ、私たちの功徳はなく、それがなければ自然のどんな賜も無価値です。主よ、それがなければ、芸術も、富も、善も、強さも、才能も、雄弁も空しいものです。自然本来の賜は、人の善悪にかかわらず、与えられますが、神の恵みは、選ばれた人々に与えられる特別な賜物です。神の恵みは寵愛のしるしであり、これをもてば、人間は永遠の生命に迎え入れられます。神の恵みは、まことにすぐれたもので、それなしには、預言の特能も、奇跡も、崇高な観想も、無価値に等しいのです。そればかりではなく、信徳も、望徳も、その他のあらゆる徳も、愛徳と恵みを伴わなければ、あなたに受け入れられません。心の貧しいものを徳に富ませ、財産のあるものを心の貧しいものとする神の尊い恵みよ、私の心に下ってください。私の霊魂が疲れ、味気無さに倒れてしまわないように、あなたの慰めをもって、私を満たしてください。主よ、御前に受け入れられる者にしてください。私の肉が、他のどんな願いを拒まれられたとしても、私には神の恵みだけで十分です(コリント後12・9)。誘惑され、患難にあっても、それさえあれば、私はどんな災いも恐れません。神の恵みは私の力であり、私に忠告し、力づけるものです。どんな敵よりも強く、この世のどんな知者よりも賢いものです。神の恵みは真理の師、規律のもと、心の光、悩みの解消であり、悲しみを追い、おそれを退け、信心を養い、罪を泣かせます。それがなければ、私は投げ捨てられる無用な枯れ木、枯れ草にすぎません。主よ、神の恵みを常に私の先に立たせ、私に伴わせ、善業に従事させてください。御子イエス・キリストによって、アーメン」。

56・自分を捨て、十字架を担ってキリストにならえ

「子よ、あなたは、自分を捨てれば捨てるほど、私と親しく一致する。外部に何も望まなければ心の平和を得るように、自分から離脱すれば、神との一致が得られる。自分自身の完全な放棄と、なんの不平もなく、御旨に委託することを、私は望む。私に従え(マタイ9・9)。私は道であり、真理であり、生命である(ヨハネ14・6)。道がなければ歩めず、真理がなければ知ることなく、生命がなければ生きられない。私はあなたが歩むべき道であり、信ずべき真理であり、希望すべき生命である。私は迷いのない道であり、あざむき得ない真理であり、終わりない生命である。私は、まっすぐな道であり、最高の真理であり、まことの生命、幸福の生命、永遠の生命である。私の道に止まるなら、あなたは真理を知り、真理があなたを解放し(ヨハネ8・32)、永遠の生命を得るだろう。生命に入ろうと思うなら、私の掟を守れ(マタイ19・17)。真理を知ろうと望むなら、私を信じよ。完徳に達しようと望むなら、持ち物全てを売れ(マタイ19・21)。私の弟子であろうとするなら、自分を捨てよ(ルカ9・23、14・27、マタイ16・24)。永遠の生命を得たいなら、現在の生命を無視せよ。天において高められることを望むなら、この世で小さいものとなれ、私と共に御国に入ろうと望むなら、私の十字架を負え。実に十字架の僕だけが、幸福と真の光の道を見いだすものである。「イエスよ、あなたの歩んだ道は、世間の軽蔑を受けている狭い道ですが、私もそれを歩き、世間から軽蔑され、あなたにならう者になりたいのです。実に『弟子は先生以上のものではなく、下僕は主人以上のものではない』(マタイ10・24)のです。あなたの下僕は、救いを得るために、あなたの生活にならって修行します。読むことも聞くことも、私にあなたのことを語ってくれない者は、私を慰めず、充分喜ばせないのです」。「子よ、あなたは以上の事を悟ったのだから、それを実行すれば、幸せである。『私の掟を保ってそれを守る者は、私を愛する者である。私は、私を愛する者を愛し、彼に自分をあらわすだろう』(ヨハネ14・21)。『そして彼を私と共に、父の御国に座らせるだろう』(黙示録3・21)」。「主イエスよ、仰せられた通り、お約束された通りになりますように。私はあなたから十字架を受けました。確かに御手から受けました。そしてご命令どおりに、それを最後まで荷うつもりです。よい修道者の生活は十字架ですが、同時に天国への道でもあります。私たちは、事を始めたのですから、退くことも、道を変えることも許されません。だから兄弟たちよ、ふるい立って、共に進もう。イエスは私たちと共においでになる。私たちはイエスのために、この十字架を担った、だからイエスと共に担い続けよう。案内者であり先導者であるお方は、同時に助け手でもあり。王が先頭に立ってすすみ、私たちのために戦ってくださる(エズラ24・20)。いさましくキリストに従おう、誰も恐れてはならない。戦って、勇敢に死ぬ覚悟をしよう。そして十字架を捨てて、光栄を汚すことのないようにしよう」(マカベ前9・10)。

57・過ちをおかしても、落胆してはならない

「子よ、不幸のときの忍耐と謙遜とは、幸運のときの慰めと信心よりも、私を喜ばせる。あなたについて言われた、あるいは、された些細なことのために、どうしてそれほど悲しむのか。それ以上のことであっても、あなたはそのために、どうしてそれほど悲しむのか。あなたはそのために心を騒がしてはならない。しかし今は、そういうことを見過ごせ。それは、はじめてのことでも珍しいことでもなく、長生きするなら最後のことでもあるまい。自分の望みに反することが起こらないと、あなたは自分では弱くないつもりになっている。そんな時には、他人に有益な進言をし、他人を力づける言葉も知っている。ところが、突然戸口に患難がおとずれると、さっきの進言と力強さとは消え失せる。小さな患難のときにもよく経験する自分の弱さを考えよ。つまり、そういうことが起きるのも、あなたの霊的な救いのためである。そんなときには、十字架上の私の苦しみを思い出せ。不幸にあっても落胆せず、長くそれに閉じ込められないように気をつけよ。喜んですることができないなら、せめて忍耐して不幸を忍べ。耳に痛いことであっても、また憤りが起こっても、自分をよく抑え、年齢も身分もあなたより下にある人々をつまずかせるような言葉を吐かないように注意せよ。あなたの心に起こった嵐は、すぐおさまる。そして内部の苦しみは、神の恵みによって和らげられるだろう。しゅである私は、いつもあなたのそばにいる(イザヤ49・18)」、私に信頼し、敬虔にこい願えば、私はいつもあなたを助け、常よりも豊かに慰めるつもりである。心を落ち着かせ、大きな試練に耐える心構えをせよ。悩みといざないを感じても、万事が終わったのではないと思え。あなたは、神ではない。人間である。天使ではなく肉である。天における天使、楽園における人祖さえもできなかったことなのに、どうしてあなたが、徳にとどまれようか。人間を回復させ、悲しむ人々に喜びを与える(ヨブ5・11)のは私である。弱さを認める者を、神性に与らせるのは私である」。「主よ、私の口に、蜜よりも甘いあなたのお言葉が祝されますように(詩編19・10)。これほどの患難と試練のなかにある私を、そのお言葉で慰めて下さらなければ、私はどうなったでしょう。救いの港にたどりつけるなら、どれほどの苦しみを忍んでも、それが何でしょう。主よ、善い最後を私にお与えください。私をこの世から安らかにゆかしてください。私の神よ、私を忘れないでください(二エズラ13・22)。真直な道を通って私を御国に導いて下さい。アーメン」。

58・深遠な奥義や、計り知れない神の御旨を、みだりにさぐってはならない。

「子よ、その深遠さにおいて神の知恵に属する御旨について、議論することをさけよ。なぜこの人はこれほど神の恵みから見捨てられているのか、なぜあの人はあんなに恵まれているのか、この人はなぜこれほどの苦しみを受け、あの人はなぜあれほどに重んじられているのか、などと詮索してはならない。これらは全て、人間の理解をこえるものである。神の御旨を探るには、どんな知恵も議論も及ばない。従って、敵なる悪魔が、そういうことをあなたにほのめかし、あるいは、物好きに人から尋ねられたなら、預言者の言葉をかりてこう答えよ、『主よ、あなたは正義であり、あなたの判断は正しい』(詩編118・137)と、そしてまた、『神の裁きは真実で、人の言い訳を必要としない』(同18・10)と。私の裁きは、論ずべきものではなく、おそるべきものである。それは、人の知恵に及ばぬところだからである(ローマ10・3)。また聖人の功徳についても、どの聖人がすぐれているか、神の国においてどの聖人が一層高いかなど、探るべきもなく論ずべきでもない。こういう議論は、喧嘩や無用の論争をひきおこし、高慢と虚栄心をうながし、ここから妬みと不和が生じる。ある人が、この聖人の高さを支持すれば、ある人は他の聖人を称えるようになる。それを知ろう、探ろうとするのは何の効果もないばかりか、かえって聖人たちを不快がらせるものである。私は不和の神ではなく、平和の神である(コリント前14・11)。この平和は、自分の意見に固執することではなく、真の謙遜にある。ある人は、熱心な信心によって、あれこれの聖人を慕う。しかしこの愛慕は、神からのものではなく、むしろ人間的なものである。聖人たちをつくったのは私である。私が、彼らに恵みを与え、光栄に与らせた。私は、各人の功徳を知り、先立って私の喜ばしい祝福(詩編20・4)を与えた。私は、愛する者を永遠から知っていた。そして世間の中から彼らを、恵みを下して呼び出した。彼らの方から私を選んだのではない(ヨハネ15・16、19)。私は彼らを、恵みによって呼び出し、慈悲によってひきつけた。私は様々ないざないを通して、彼らを永遠の救いに導き、すぐれた慰めを与え、不屈の志をそそぎ、その忍耐に栄光を与えた。私は、彼らのうち、一席のものも、末席のものも知り、限りなく愛している。すべての聖人において賞賛されるべきは私だけである。私は、何物にもまさって、彼らの各々において、祝され、称えられるものである。彼らが功徳を積むまえに、私は彼らを光栄に上げ、光栄に予定した。だから、私の小さいものの一人を軽蔑すれば、大きなものも崇めていないことになる。小さい聖人も大きな聖人も私がつくった(知書6・8)。そしてある聖人に与えねばならない賞賛を与えない者は、天の国にある他の聖人をも、私をも、尊ばないものである。彼らは愛の結びによって一つのものであり、同じ感情を持ち、同じ意志をもって、互いに愛し合う。また彼らは、これが最もすぐれたことであるが、自分と自分の功徳より以上に私を愛している。彼らは自分への愛を超越して私への愛を保ち、この愛において喜びと休息とを味わっている。彼らを私から引き離すもの、この高さから彼らを引き下ろすものは何一つない。永遠の真理に満たされた彼らは、尽きることの知らない愛徳の火に燃えている。だから、自分自身の楽しみを愛する事しか知らない肉の人、官能の人は、聖人たちの状態について議論する資格がない。この人々は、永遠の真理にふさわしいことではなく、自分自身の好みによって、聖人たちをあるいは否定し、あるいは肯定する。こうした人々は、とくに天の照らしをあまり受けず、完全な霊的な愛をもって愛することを知らない人々は、無知のために語る。彼らは、本能的な愛情や、人間的な友情によって、あれこれの聖人たちを慕い、天のことが地上のことと同様に行われていると考える。しかし、不完全な人間が考えることと、天の照らしを受けた人が考えることとの間には、比較にならぬ隔たりがある。従って私の子よ、あなたの理解の及ばぬこういうことを、好奇的に探るのを止めよ。むしろ、あなたが神の国において、せめてその末席にでも運ばれるように心掛けよ。天においてどの聖人がもっともすぐれているかを知る人があったとしても、その知識のために、私の前にへりくだり、深く御名を賛美しないなら、その知識は何の役にも立たない。要するに、自分の罪の多さ、徳の少なさ、自分の徳が聖人たちとどれほど隔たっているかを反省する者は、聖人たちの誰が大きい、誰が小さい、と議論する人よりも、はるかに神に喜ばれる。無益な探求をして聖人たちの秘密を探るよりも、敬虔な祈りと涙のうちに、聖人たちの取り次ぎを願うこそ益あることである。人々が議論を避けるなら、それは聖人たちを一層喜ばせることである。聖人たちは自分の功徳を誇らず、どんな善も自分に帰せず、すべてを私に帰する。私は無限の愛をもって、それらすべてを彼らに与えた。彼らは、神への愛に満たされ、豊かな喜びに溢れ、その光栄にも、その幸福にも、何一つ不足がない。どんな聖人も、光栄の高さに至っていればいるほどへりくだり、私に近づき、私から愛される。だから聖人たちは、栄冠を神の御前に置き、子羊の御前にひれ伏し、世々に生きるお方を礼拝した(黙示録4・10)と記されているのを、あなたは読んだであろう。ある人は、神の御国において、誰が一番高いかを探ろうとするが、その自分は最も小さい者のうちの一人にさえ数えられているかどうか。天において一番末席にあることさえ、偉大なことである。なぜなら、そこではすべて偉大なものであり、すべて神の子と呼ばれ(マタイ5・9)、事実、そうだからである。罪人として百歳まで生きても永遠の死を受け、幼く死んでも天において千人の聖人の上に上げられる者もある。そこで、弟子たちが、天の国で誰が一番偉大かと尋ねた時、『あなたたちが、子供の状態に立ち返らないなら天の国には入れないだろう。誰でも、この子供のようにへりくだる人が、天の国で偉大な人である』(マタイ18・3-4)と答えた。自ら進んで、幼児のようにへりくだることを好まない者は、禍である。天の国の門は低く、彼らは入れない。また、この世において、すべての楽しみをもった金持ちも禍である。貧しい者は神の国に入っても、彼らは外に残って嘆き悲しまねばならない。謙遜な者よ、喜べ、貧しい者よ、喜べ、神の国はあなたたちのものである。あなたたちが真理の道を歩み続けるならば」。

59・希望と信頼とを神におく

「主よ、この世での信頼をどこに置きましょうか。この世にあるもののうちで、私の慰めとなるものは、どこにあるのでしょう?無限の慈悲である主なる神以外の、どこにあるのでしょう。あなたなしに、私はどんな良いことを行ったでしょう。またあなたと共にあって、ないものがあったでしょうか?私は、あなたなしに富むよりも、あなたと共に貧しくあることを望みます。私はあなたなしに天を持つよりも、あなたと共に、この世を歩み続けることを望みます。あなたのおいでになるところに、天があり、あなたのおいでにならないところに死と地獄とがあります。あなたは私の切に望むものです。だから、あなたを呼び求めて、嘆き叫びつつ、従って行かねばなりません。私の必要な時、神であるあなた以外の誰に、信頼をもって助力を願うことができましょう?あなたは私の希望(詩編141・6)、私の信頼、万事において私の慰めです。人はみな自分の利益を求めます(フィリピ2・21)。しかしあなただけは、私の救いと霊的進歩だけをのぞみ、私の利益のために、万事を計らってくださいます。あなたは常に、愛する者に試みをお与えになります。その試練の時も、天の慰めで私を満たして下さるときと同様に、あなたは愛され、賞賛されますように。愛する主なる神よ、あなたに拠り所と信頼とをおかせ、あなたに、私の不幸と患難とを捧げさせてください。あなた以外の者は、いずれも弱くはかない物であることを私は知っています。主よ、あなたが私を保護し、助け、慰め、強め、導いてくださらないと、友人が数多くあっても、なんの役にもたたず、有力な後援者も助けにならず、賢明な忠告者のすすめも効果なく、学者の著書も慰めにならず、どんな貴重なものも救われず、どんな避難所も安全ではないのです。平安と幸福をもたらすように思われるものも、あなたがおいでにならないと無に等しく、私を幸福にしてくれません。あなたは、すべての善の目的であり、生命の尊さであり、教えの深遠です。何よりも、あなたをより頼みとすることこそ、下僕の深い慰めです。私はあなたを仰ぎます(詩編140・8)。私の神よ、慈悲の父よ(コリント後1・3)、私はあなたにより頼みます(詩編24・2)。天の祝福をもって私の霊魂を祝し、聖としてください。私があなたの住居か、永遠の光栄の座となりますように。神聖のこの住居に、みいつをけがすものが何一つないように、偉大な慈悲と、限りない憐れみをもって、私をかえりみてください。死の影の地を遠くさすらう哀れな下僕の祈りを聞き入れ、このはかない世の、数多い危険の中で、あなたの小さい下僕の霊魂を守り、保護してください。こうして、あなたの恵みをもって、永遠の光明の国にいたる平和の道に、導いてください。アーメン。