第3項 社会正義

社会が社会正義を実現するのは、各団体や各個人がそれぞれの本性や召命をまっとうするために必要なものを手に入れるための諸条件を満たすときです。社会正義というものは、共通善と権威の行使とに関連しているものなのです。

1 人間の尊重

社会正義は、人間の超越的な尊厳を尊重することなしには得られません。人間こそが社会が目指すべき究極の目的なのです。 人間の尊厳の「防御と増進は、創造主によってわたしたちの手にゆだねられた問題であり、歴史のあらゆる時点における男女は、〔……その問題について〕厳しい債務を負っているのです」。

人間を尊重することには、神によって創造されたものとしての尊厳に由来する諸権利を尊重することが含まれています。これらの権利は社会に先だって存在し、社会より上位にあるものです。また、あらゆる権利の倫理的正当性の土台となるものです。これらを軽んじ、あるいは実定法で認めないならば、社会は自らの倫理的正当性を損ないます。人間の権利が尊重されていない場合は、権威者は他人を従わせるために、実力または暴力を頼みにするほかはありません。善意の人々にこれらの権利を想起させ、過度なあるいは誤った要求とこれらの権利との相違を明らかにするのが教会にゆだねられた務めなのです。

人間を尊重するということには、「各自は隣人を例外なしに『もう一人の自分』と考えなければならず、まず隣人の生活と、それを人間にふさわしく保つために必要な手段とについて考慮すべきである」という原理を尊重するということが伴ってきます。いかなる法も、それ自体としては、真に兄弟的な社会を建設するための障害となる、恐れ、偏見、傲慢、利己主義などを消滅させることはできません。このような態度は、一人ひとりを「隣人」、兄弟姉妹とみなす愛がなければ無くなることはありません。

他人の隣人となり、積極的に奉仕する義務は、その人が貧しい状態に陥ったときには、いっそうの急務となります。
「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25∙40)。

この義務は、わたしたちとは違う考えを持っていたり行動をとったりする人々に対するときにも当てはめられます。キリストの教えはわたしたちに害を及ぼした人々をゆるすことまで求め、新しいおきてである愛のおきてをあらゆる敵に適用させるものです。福音の精神に基づく救済は敵そのものに対する憎しみとは相いれるものではありませんが、敵が行った悪い行為に対する憎しみとは相いれないわけではありません。

2 人間間の平等と相違

唯一の神にかたどって造られ、同じ理性的霊魂を与えられたすべての人間の起源と本性とは同一です。すべての人間はキリストの犠牲によってあがなわれ、同じ神的至福にあずかるよう召されています。したがって、皆、平等の尊厳を持っているのです。

人間は本質的には、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です。
「基本的人権に関するすべての差別は、それが社会的差別であろうと、文化的差別であろうと、あるいは性別∙人種∙皮膚の色∙地位∙言語∙宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければなりません。

人間は生まれたときには、自分の肉体的∙精神的発達に必要なすべてを備えてはいないのです。他の人々の助けを必要とします。相違は、年齢、身体的能力、知的∙倫理的能力、各自が経験した交流、富の配分などに由来して現れてきます。「タラントン」は同等に配分されているのではありません。

以上の相違は神の計画に基づくもので、神は各自が自分に必要なものを他の人から受け、特別な「タラントン」を持つ者がこれを必要とする人々にその恩恵を分かつことを望んでおられるのです。相違は寛容、好意、分かち合いを促し、しばしばこれを義務づけます。相違はまた、諸文化が相互に豊かにし合うための刺激ともなります。
「わたしは一人の者にすべての徳を与えはしません。……この人とあの人には違った徳を与えます。……ある者には愛、他の者には正義、この者には謙虚、あの者には生き生きとした信仰です。……この世の財物で人間の生活に必要なものに関しては、きわめて不平等に配分し、おのおのが必要とするすべてのものを持つことを望みません。というのは、人間が相互に愛を実践する機会を必ず持てるようになるためです。……わたしが望んだのは、人間が相互に相手を必要とし、わたしから受けた恵みとたまものとを配分するためのわたしの奉仕者となることです」。

無数の男女を打ちのめす不正な不平等も存在します。それは明らかに福音とは対立するものです。
「人間の平等な尊厳は、生活条件がもっと人間らしく、公正なものとなることを要求します。一つの人間家族に属する人々、または諸民族の閭における経済的、社会的な大きな不平等は醜聞であり、社会正義、平等、人間の尊厳、社会的および国際的平和に反します」。

「友愛」あるいは「社会愛」とも呼ばれる連帯原理は、人間的∙キリスト教的兄弟愛から直接に要求されるものです。
「現代かなり広まっている危険な〔誤りの最たる〕ものは、まず人間相互の親しみや愛の忘却です。それは、すべての人間の起源が同じであり、すべての人間が同じ理性的本性を備えているゆえに、また、イエス・キリストが罪びとである人類のために十字架の祭壇で永遠の御父にささげられたあがないの犠牲のゆえにも、いかなる民族に属しているかを問わずあらゆる人間に課されているものなのです」。

連帯はまず、財の配分と労働の報酬とによって表されます。連帯にはまた、緊張が除去され、紛争が話し合いで容易に解決されるような、いっそう公正な社会秩序を作り上げるための努力も含まれています。

社会∙経済問題は、さまざまな形の連帯、たとえば、貧しい人々同士の連帯、富んでいる人々と貧しい人々との連帯、労働者同士の連帯、雇用者と被雇用者との連帯、諸国間および諸国民間の連帯などによってしか解決できません。国際的連帯は、倫理的秩序が要求するものです。世界平和は、一面では連帯に依存しているのです。

連帯の力は物的善の範囲を越えるものです。教会は、信仰の霊的宝を広めながら、さらに物的なものの発展に寄与し、しぱしばこれに新しい道を開きました。こうして、キリストの次のことぱがあらゆる時代にわたって裏づけられるものとなっています。
「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6∙33)。 「二千年来、教会の魂の中で生き生きと受け継がれてきた人類の共同責任という考えがあります。これが人々を英雄的な愛に駆り立ててきましたし、今も農業修道者や奴隷解放者、病気の治癒に携わる人たち、信仰∙文化∙科学の伝達者たちの心を駆り立てています。彼らはあらゆる時代、あらゆる国民の中で、人間としてまたキリスト者としてのふさわしい生活が可能で容易になるための社会条件を築いてきたのです」。

要約

社会が社会正義を実現するのは、各団体や各個人にとって必要なものを手に入れるための諸条件を満たすときです。

人間を尊重するということは、他の人を「もうひとりの自分」とみなすことです。それは、人問の尊厳に由来する基本的人権を尊重することが前提条件となります。

人閭は、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です。

人間間に相違があるのは神の計画に基づくもので、神はわたしたちが相互に必要とし合うことを望まれます。相違が愛を促進させるべきなのです。

人間は等しい尊厳を備えているので、過度の社会的∙経済的不平等を減少させ、不当な不平等を取り除くための努力をする必要があります。

連帯はきわめてキリスト教的な徳です。物的なものの分かち合いをしながら、それ以上に霊的宝の分かち合いを実践するのです。