6 過越の会食

ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。

教会は祭壇を囲んでエウカリスチアを行いますが、その祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に主の食卓であるという唯一の神秘の二つの面を表しています。というのは、キリスト教の祭壇は、わたしたちの和解のためにささげられたいけにえとして、またわたしたちに与えられる天の糧として、信者のただ中に現存されるキリストご自身の象徴だからです。聖アンブロジオは、「キリストの祭壇はキリストのからだを表すものでなくて、何でしょう」といい、また他のところでは、「祭壇は〔キリストの〕からだを表し、キリストのからだは祭壇の上にある」といっています。典礼の多くの祈りは、いけにえと聖体拝領との一体性を表現しています。たとえば、ローマ教会は奉献文の中で次のように祈ります。
「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、今、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」。

「皆、これを取って食べなさい」聖体拝領

キリストは、エウカリスチアの秘跡でわたしたちがご自分をいただくよう強く促しておられます。「はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6∙53)。

キリストの招きにこたえるために、この重要で聖なる時に備えなければなりません。聖パウロは良心の究明を勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主のからだのことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11∙27-29)。大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。

この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にありません。「主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」。また、聖ヨハネ∙クリゾストモの聖典礼では、信者たちは同じ精神でこう祈ります。
「ああ、神の御子よ、あなたの神秘的な晩さんで、今日、聖体をいただかせてください。わたしはこの秘密をあなたの敵対者に話さず、あなたにユダの接吻もいたしません。むしろあの盗賊のように、主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください、と叫びます」。

信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません。

信者に必要な準備ができている場合、ミサにあずかるときに聖体を拝領することは、エウカリスチアの意義にかなっています。「司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主の御からだを拝領することは、ミサ聖祭へのより完全な参加であって、せつに勧められることです」。

教会は信者に、主日と祝祭日に聖典礼にあずかり、少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に、ゆるしの秘跡を受けた後、聖体を拝領することを義務づけています。しかし教会は、主日と祝祭日、あるいはもっと頻繁に、いや、毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています。

キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの聖体拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、「しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます」。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。

聖体拝領の実り

聖体拝領は、キリストとわたしたちの一致を強めます。聖体拝領のすばらしい実りは、イエス・キリストとの親密な一致です。キリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)といわれます。キリストのうちにあって生かされるいのちの源泉は、エウカリスチアの会食です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6∙57)。
「主の祝日に御子のからだを拝領するとき、信者はいのちの保証が与えられたという、よい知らせを互いに伝え合っています。それは、天使が〔マグダラの〕マリアに『キリストは復活なさったのだ』と伝えたときと同じです。今も、いのちと復活とがキリストをいただく者に与えられるのです」。

通常の食べ物がわたしたちの肉体的いのちにもたらすものを、聖体拝領は感嘆すべきしかたでわたしたちの霊的いのちにもたらします。復活して「聖霊によって生き、また生かす」キリストのからだを拝領することにより、洗礼の際に受けた恵みのいのちが維持され、成長し、新たにされます。このキリスト教的いのちの成長は聖体拝領によって養い続けられる必要があります。聖体は、死の時までのわたしたちの旅路の糧であり、死の時には臨終の糧として授けられます。

聖体拝領は、わたしたちを罪から離れさせます。聖体拝領でいただくキリストのからだは「わたしたちのために渡される」からだであり、飲む血は「多くの人の罪のゆるしのために流される」血です。したがって聖体は、わたしたちをキリストに一致させるときに必ず、犯した罪から清め、これから先罪を犯さないように守ってくれます。
「いただくたびに、主の死を告げ知らせるのです。もし主の死を告げ知らせるのならば、わたしたちは罪のゆるしを告げ知らせているのです。もし、御血がいつも罪のゆるしのために流されるのであるとすれば、わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです」。

からだの糧が体力の消耗を回復させるのと同じく、聖体は、日常の生活で弱まりがちな愛を強化します。そして活力を取り戻したこの愛は、小罪を消します。キリストはご自分をわたしたちに与えて、わたしたちの愛を再び燃え立たせ、被造物に対する乱れた愛着を断ち切り、わたしたちをご自分に深くつなぎ止めてくださいます。
「キリストは、わたしたちへの愛のゆえに死なれたのですから、わたしたちがいけにえをささげてその死を記念するとき、聖霊の到来によって、愛が与えられるよう願うのです。そして、キリストがわたしたちのために、進んで十字架につけられることを選ばれたその愛によって、わたしたちもまた聖霊の恩恵を受けて、世をはりつけにされたものとみなすことができるように、また、世に対してはわたしたちがはりつけにされたものとなることができるように、へりくだって祈るのです。……たまものとして愛を受けて罪に対して死に、神に対して生きるためです」。

エウカリスチアは、わたしたちのうちに愛を燃え立たせることによって、わたしたちが今後大罪を犯さないように守ってくれます。わたしたちは、キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られます。エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。

神秘体の一致;エウカリスチアは、教会をつくります。聖体を拝領する人々は、キリストにより親密に結ばれます。それゆえに、キリストはすべての信者を教会というただ一つのからだに結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、わたしたちはただ一つのからだを形づくるように召されました。エウカリスチアはこの招きを実現します。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10∙16-17)。
「もし、皆さんがキリストのからだ、またその肢体であるならば、主の食卓の上に置かれてあるのは皆さんを表す秘跡で、皆さんは皆さんを表す秘跡を受けます。皆さんはいただくものに対してアーメン(まことにそのとおりです)と答え、そう答えながらそれに同意しているわけです。あなたはキリストのからだということばを聞き、アーメンと答えます。ですから、あなたのアーメンが真実であるように、キリストの肢体でありなさい」。

エウカリスチアは、貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません。
「あなたは主の御血を味わったのに、自分の兄弟を認めてさえいません。この食卓に加わるのにふさわしいと認められた者を、あなたの糧を分かち合うのにふさわしくない者とあなたは考えているので、この食卓を汚しているのです。神はあなたをすべての罪から解放し、この食卓に招かれました。それなのに、それでもあなたはあわれみ深い者とはなっていません」。

エウカリスチアおよびキリスト者の一致。この神秘の偉大さを前にしで聖アウグスチヌスは「ああ、何とすばらしい敬神の秘跡、何と崇高な一致のしるし、何と尊い愛のきずなリと叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓をともにすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が再び訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです。

カトリック教会と完全には一致していない東方の諸教会では、エウカリスチアが非常な愛をもって挙行されています。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、とくに使徒継承の力により祭司職とエウカリスチアを持っていて、それらによって今なお緊密にわたしたちと結ばれています」。だから「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ∙イン∙サクリス)は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められることでもあります」。

宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。とはいえ、これらの教団は「聖さん式において、主の死と復活の記念を行い、キリストと交わる生命が示されることを公言し、また、キリストの栄光の到来を期待している」のです。

さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘跡を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません。