5 秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存

キリスト者が、異なる時代を経て多様な典礼を持つにもかかわらず、当初から実質的には変わらない一っの形式でエウカリスチアを行ってきたのは、受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11∙24-25)といわれたキリストの命令に従うためでした。

わたしたちはキリストの命令を、そのいけにえの記念を行うことによって果たします。そうすることにより、御父がわたしたちに与えてくださったもの、すなわち、自然の産物であるパンとぶどう酒が聖霊の力とキリストのことばとによってキリストのからだと血になったものを、御父にささげます。こうしてキリストは、実際に、また、神秘的に現存するようになられます。

したがってわたしたちは、エウカリスチアを以下のように理解しなければなりません。
――御父への感謝と賛美
――キリストおよびそのからだである教会の、いけにえによる記念
――キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存

御父への感謝と賛美

エウカリスチアは、十字架上でキリストによって成就された救いの秘跡ですが、また、創造のわざに感謝してささげる賛美のいけにえでもあります。このエウカリスチアのいけにえにおいて、神に愛されている全被造物がキリストの死と復活を通して御父にささげられます。教会は、神が被造界と人類とのうちになされたすべてのよいこと、美しいこと、正しいことに感謝するために、キリストを通して賛美のいけにえをささげることができます。

エウカリスチアは御父への感謝のいけにえであり、神のすべての恵みに対する教会の感謝、すなわち創造、あがない、聖化によって成し遂げられたすべてのことについての感謝を表す神への賛美です。エウカリスチアという語はまず、「感謝」を意味します。

エウカリスチアはまた、教会がすべての被造物に代わって神の栄光を歌う賛美のいけにえです。この賛美のいけにえは、キリストを通してしかささげることができません。すなわち、キリストが信者たちをご自分と、ご自分の賛美ならびに執り成しに一致させてくださるのです。こうして御父への賛美のいけにえは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに受け入れられます。

キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念

エウカリスチアはキリストの過越の記念、そのからだである教会の典礼の中で行われるキリストの唯一のいけにえの再現、秘跡的な奉献です。すべての奉献文には、制定のことばの後、アナムネシスないし記念と呼ばれる祈りがあります。

記念とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味します。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。

新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられた犠牲は、つねに成し遂げられた状態にあるのです。「『わたしたちの過越であるキリストがいけにえとなられた』(一コリント5∙7)十字架の犠牲が祭壇の上で祭儀執行されるたびごとに、わたしたちのあがないのみわざが行われます」。

エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですので、いけにえでもあります。エウカリスチアのいけにえとしての性格は、その制定のことばに明らかです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22∙19-20)。エウカリスチアにおいて、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたそのからだと「罪がゆるされるように、多くの人のために」(マタィ26∙28)流された血とをお与えになります。

したがって、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを現在化し、記念し、その実りを分け与えるので、いけにえなのです。
「わたしたちの神であり、主〔であるキリスト〕は、十字架の祭壇の上で死なれ、一度で永久に父である神にご自分をささげて、救いのわざを完成されました。しかしキリストの祭司職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7∙24,27)、『引き渡される夜』(一コリント1∙23)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを残されたのです(人間のためにはこれが必要でした)。このいけにえによって、十字架上で一度血を流してささげたものが表され、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によってわたしたちが毎日犯す罪がゆるされるのです」。

キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつてご自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」。「そこで、ミサ聖祭で行われるこの神聖ないけにえには、十字架上の祭壇で『一回限り血を流して自らをささげられた』のと同じキリストが現存し、血を流さずにささげられます。……このいけにえは真のなだめのいけにえです」。

エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、その頭の奉献をともにします。キリストとともに、教会全体がささげられます。教会は、御父のもとであらゆる人のために行われるキリストの執り成しにあずかります。エウカリスチアでは、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などはキリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。 ローマのカタコンベでは、教会はしばしば礼拝の姿勢で腕を大きく広げて祈る婦人の姿で描かれています。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らをささげ、執り成します。

教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教会の中でペトロの務めを果たす教皇はすべてのエウカリスチアの祭儀に結ばれており、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、その名が唱えられます。地域の司教は、司祭が司式するときでも、つねにエウカリスチアの責任者です。エウカリスチアでその名が唱えられるのは、司祭団に囲まれ、助祭の補佐を受けている司教が部分教会の頭であることを意味するためです。信者の集まりは、自分たちのために自分たちとともにエウカリスチアのいけにえをささげるすべての役務者のためにも執り成しを行います。
「司教もしくは司教が委任した者の司式で行われるエウカリスチアだけが、有効であるとみなされます」。
「司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来られるときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられます」。

キリストの奉献には、今この世に生きる人たちだけではなく、すでに天の栄光に入った人たちもともに参加します。教会は、いと聖なるおとめマリアに結ばれ、マリアやすべての聖人たちを記念しながらエウカリスチアのいけにえをささげます。エウカリスチアを行うとき、教会はいわばマリアとともに十字架のもとにたたずみ、キリストの奉献と執り成しとに結ばれるのです。

エウカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を煩わさないでおくれ。ただ一つ、お願いがあります。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」。
「次に、わたしたちは〔奉献文の中で〕、亡くなった聖なる教父や司教たちのため、またわたしたちに先だって亡くなった人々全体のために祈ります。聖にしてこれほどに尊いいけにえがささげられている間になされる執り成しの祈りが、彼らのために大いに役立つだろうと信じているからです。……たとえ亡くなった人々が罪びとであったにせよ、彼らのために神に祈りをささげ、……人々の友である神に亡くなった人々やわたしたちに対するあわれみを願って、わたしたちの罪のためにいけにえとなられたキリストをおささげするのです」。

聖アウグスチヌスは、わたしたちが行うエウカリスチアでのあがない主のいけにえにつねにますます完全にあずかるようにと促すこの教えを、次のように要約しました。
「あがなわれた国全体、すなわち聖者たちの集いと共同体が、大祭司〔キリスト〕によって普遍的なささげものとして神に奉献されます。この大祭司は、しもべの姿をとった者として、わたしたちがこれほど偉大な頭の肢体となるように、わたしたちのために苦しみを受けて、自らをささげものとして奉献してくださいました。……『数は多いが、キリストに結ばれて一つのからだを形づくっている』ことこそ、キリスト者の奉献です。これこそ、信者たちが熟知している祭壇の秘跡として、教会がたえず行っている奉献です。この秘跡において教会が神にささぼるもののうちに、教会そのものがささげられるということが教会に示されるのです」。

キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存

「死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8∙34)。このキリストが、さまざまなしかたで教会に現存されます。ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、「二人または三人が〔ご自分の〕名によって集まるところには、その中に」(マタイ18∙20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、「とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる」のです。

聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、「いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的となります。至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。「この現存を『現実の』現存といいますが、それはそれ以外の現存が『現実』ではないのでそれらを除外するという意味ではなく、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的現存の崇高さのゆえなのです」。

パンとぶとう酒がキリストのからだと血に変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます。教父たちは、この変化を行うキリストのことばと聖霊の働きとの効力に対する教会の信仰を確固として主張してきました。たとえば、聖ヨハネ∙クリゾストモは次のように述べています。
「供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架につけられたキリストご自身です。キリストの姿を表している司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです」
また聖アンブロジオは、この変化についてこう述べています。
「これは自然によって形づくられたのものではなく、祝福によって聖別されたものであり、祝福によって自然そのものが変えられるから、祝福の力が自然の力に勝つ」のだとわたしたちは確信すべきです。「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与えるほうがやさしいわけではないのです」。

トリエント公会議は、カトリック信仰を要約してこう宣言しています。「わたしたちの救い主キリストは、パンの形態のもとにささげられたものがご自分の真のからだであると仰せられたので、神の教会が変わることなくつねに信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言します。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」。

聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを裂いてもキリストが分割されることはありません。

聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストヘの信仰を表します。「カトリック教会はこれまで、聖体の秘跡に対する礼拝をミサの間だけではなくミサ外でも行ってきましたし、現在も行っています。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆が喜ぶ中でそれを行列しながら運ぶのです」。

聖体を保存するための聖櫃はまず、ミサに出席できなかった病人などにミサ後に聖体を持参できるように、そのときまでうやうやしく安置するためのものでした。しかし、聖体におけるキリストの現存に対する信仰が深められるにつれて、教会はパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝する意義をますます理解するようになりました。したがって、聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時に、聖体にキリストが真実に現存されることが明白に表されるような形で作られる必要があります。

キリストがこの比類のないしかたで教会につねに現存することを望まれたのは、まったく当然のことです。キリストは、目に見える姿では弟子たちから去られましたが、わたしたちのもとに秘跡的に現存することをお望みになりました。また、わたしたちの救いのために十字架上でご自分をささげるにあたり、ご自分のいのちを捨てるまでにわたしたちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)、その愛を思い起こさせる形見をわたしたちに残そうと望まれました。キリストは、わたしたちを愛し、わたしたちのために身をささげられたかたとして、エウカリスチアによる現存という形をとって、その愛を表し共有するしるしのもとで、わたしたちの間に神秘的にとどまっておられるのです。
「教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエスに出会うためには時間を惜しんではなりません。わたしたちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように」。

「キリストの真のからだと真の血の現存は、『感覚によってではなく、ただ神の権威に支えられた信仰によってのみ把握される』と聖トマスは述べています。聖チリロはこれはあなたがたのために与えられるわたしのからだであるというルカ22章19節のことばを解説して、こういいます。『真であるか否かを問わずに、むしろ、主のことばを信仰をもって受け入れなさい。真理であるかたは偽りを話されません』と」。
「これらの形の下に隠れてはいても、
現存する神であるあなたを、わたしはひれ伏して礼拝します。
わたしの心をまったくあなたに従わせます。
あなたを見つめていると、なすべきことが分からないからです。
視覚も触覚も味覚も、あなたを把握できません。
聴覚だけによって信ずべきことが分かるのです。
わたしは、神の御子が語られたすべてのことを信じます。
真理であるかたのことばより真実なものは何もないのです」。