3 救いの営みにおけるエウカリスチア

パンとぶどう酒のしるし

エウカリスチアの祭儀を行うときにもっとも大切なのはパンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨のときまで行い続けます。パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上に、創造主のたまものである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。教会は、「パンとぶどう酒」をささげた祭司メルキゼデク王の行為(創世記14∙18)は自分たちのささげものの前表だと考えています。

旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパ∙ンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることをつねに想起させます。さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」(一コリント10∙16)には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。

多くの人々に食べさせるためにイエスがパンを祝福して裂き、弟子たちを介して配られたときのパン増加の奇跡は、ご自分のエウカリスチアでの唯一のパンがあり余るほどのものであることを前もって表すものです。カナで水がぶどう酒に変えられた奇跡は、すでにイエスの栄光化の時を告げるものです。それは御父の国での婚礼の会食の実現を表していますが、そのとき、信者たちはキリストの血となった新しいぶどう酒を飲むことになるのです。

受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体(エウカリスチア)に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6∙60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6∙67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6∙68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです。

エウカリスチアの制定

キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移るときが来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛のおきてを授けられました。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れずご自分の過越に彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチアを定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」、これを再臨の日まで行うよう命じられました。

共観福音書と聖パウロは、エウカリスチアの制定について述べています。他方、聖ヨハネは、カファルナウムの会堂でのイエスのことばを伝えています。それは、ご自分が天からくだったいのちのパンであるという、エウカリスチアの制定を予告することばです。

イエスはカファルナウムで予告されたとおり、ご自分のからだと血を弟子たちに与えるために過越祭のときを選ばれました。 「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』といわれた。……二人は行って……、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスはいわれた。『苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。いっておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。』……それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えていわれた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにしていわれた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22∙7-20)。

イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩さんを行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えられました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩さんで先取りされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先取りするものです。

「これを、わたしの記念として行いなさい」

ご自分が「来られるときまで」(一コリント11∙26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。

教会は当初から、キリストの命令に忠実に従いました。エルサレムの教会に関する次のような記述があります。 「彼らは、使徒の教え、相互の〔愛の〕交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。……毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」(使徒言行録2∙42,46)。

キリスト者が「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒言行録20∙7)。そのころから今日に至るまで、エウカリスチア(感謝の祭儀)は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心を成しています。

こうして、旅する神の民はエウカリスチアが行われるごとに、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の饗宴に向かって、「狭い十字架の道を」進んで行きます。