1 教会のいのちの源泉、頂点であるエウカリスチア(感謝の祭儀)

聖体(エウカリスチア)の秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、聖体(エウカリスチア)によって、共同体全体とともにキリストの奉献にあずかります。

「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです」。

エウカリスチア(感謝の祭儀)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」。

「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」

また、聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるときに先だって、永遠のいのちに前もってあずかっています。

要するに、エウカリスチアはわたしたちの信仰の要約であり、頂点なのです。「わたしたちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアはわたしたちの考え方を強固なものにします」。