第3編 キリストと一致して生きる

「キリスト者よ、あなたの偉大さをわきまえなさい。あなたは神の本性にあずかる者となったのですから。卑しいふるまいによって、昔の惨めな姿に戻ってはなりません。あなたの頭がだれであり、あなたがだれのからだの肢体であるかを忘れてはなりません。神があなたをやみの力から救い出して、神の光と神の国に移されたことを思い起こしなさい」。

信条は、神が創造のわざにおいて、さらに、そのあがないと聖化とによって人間にお与えくださったたまもののすばらしさを宣言します。信条で表明していることは、諸秘跡によって与えられます。キリスト者は「再生の秘跡」によって「神の子」(一ヨハネ3∙1)、「神の本性にあずか〔る者〕」(二ペトロ1∙4)となりました。キリスト者は、信仰によって自分の新たな尊厳を自覚しながら、以後はキリストの福音にふさわしい生活を送るよう召されています。そして、そのような生涯を送ることができるようになるキリストの恵みと霊のたまものとを、諸秘跡と祈りとによっていただきます。

キリスト・イエスはつねに御父の喜ばれることを行い、御父と完全に一致して生きられました。同様に、キリストの弟子たちは「隠れたところに〔あって〕見ておられる」(マタイ6∙6)御父のまなざしのもとに生き、「天の父が完全であられるように、完全な者」(マタイ5∙48)となるよう招かれています。

キリスト者は洗礼によってキリストと一体となり、罪に対しては死んでいますが、キリスト・イエスに結ばれることによって、神に対しては生きており、復活させられたかたのいのちにあずかります。キリスト者は、キリストに従いキリストと結ばれて、神に愛されている子供として神に倣い、愛によって歩むように努めることができ、思いとことばと行いとをキリスト・イエスの思いと一致させて、その模範に倣うことができるのです。

キリスト者は、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって……義とされ」(一コリント6∙11)、聖なる者とされ、また、聖なる者となるようにと召されて、「聖霊の神殿」(一コリント6∙19参照)となりました。この「御子の霊」はキリスト者に御父に祈ることを教え、キリスト者のいのちとなって、キリスト者を行動させ、愛の行いによって霊の実を結ばせてくださいます。聖霊は、罪の傷をいやし、わたしたちを心の底から新たにし、わたしたちを照らして、わたしたちが「光の子として」(エフェソ5∙8)、「あらゆる善意と正義と真実と」(エフェソ5∙9)をもって生きることができるように強めてくださいます。

キリストの道は「いのちに通じる」(マタイ7∙14)道ですが、逆に、「滅びに通じる」(マタイ7∙13)道もあります。教会のカテケージスは、福音書にある二つの道のたとえをつねに繰り返してきました。このたとえは、わたしたちの救いにとって倫理的な決定が重大であることを表しています。「二つの道があります。一つはいのちの道、もう一つは死の道です。二つの道の間には大きな違いがあります」。

カテケージスでは、キリストの道が与えてくれる喜びとその道が要求することとを明確に示すことが重要です。キリストに結ばれた「新しいいのち」(ローマ6∙4)のカテケージスとは次のようなものです。
――聖霊についてのカテケージス。聖霊はキリストに従う生き方についての内的教師であり、この生き方を勧め、導き、正し、強める、優しい賓客であり、友なのです。
――恵みについてのカテケージス。わたしたちは恵みによって救われ、わたしたちの行いは恵みによって永遠のいのちに至る実を結ぶことができます。
――真福八端についてのカテケージス。キリストの道は真福八端に要約されます。それは、人の心が渇望する永遠の幸せへ至る唯一の道です。
――罪とゆるしについてのカテケージス。人間は自分が罪びとであることを認めない限り、自分自身についての真理を知ることができません。それが正しい行いをするための条件だからです。そしてまた、神のゆるしについて知らされなければ、人間はその真理に耐えることができないでしょう。
――人間の諸徳についての力テケージス。このカテケージスは、善を行おうとする正しい心構えの魅力と美しさとを把握させます。
――信仰∙希望∙愛というキリスト教的徳についての力テケージス。このカテケージスは、聖人たちの模範に心を開いて倣わせるものです。
――愛の二つのおきてについてのカテケージス。十戒は、この二つのおきてをさらに詳しく説明するものです。
――教会的力テケージス。キリスト教的ないのちは、「聖徒の交わり」における「霊的善」のさまざまな交換においてのみ成長し、広められ、共有されるようになります。

このカテケージスの最初で最後の典拠はつねに、「道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14∙6)イエス・キリストご自身です。キリストを信じる者は、キリストを信仰の目で見つめてこそ、キリストが自分たちのうちでご自身の約束を実現されるということを期待できるし、自分たちを愛されたその同じ愛をもってキリストを愛してこそ、自らの尊厳にふさわしい行いをする者になれると期待できるのです。
「どうか考えてください。わたしたちの主イエス・キリストはあなたの真の頭であり、あなたはその肢体の一部なのです。キリストとあなたとの関係は頭と肢体との関係に等しいものです。キリストのすべてのもの、その精神、その心、そのからだ、その魂、そのすべての能力はあなたのものです。それらを自分のもののように用いて、神に仕え、神をたたえ、愛し、神に栄光を帰すようにしなければなりません。肢体が頭のものであるように、あなたはキリストのものです。だからキリストは、あなたが備えているすべてのものをご自分のもののように用いて、御父に仕え、栄光を帰することを熱望しておられるのです」。
「わたしにとって、生きるとはキリストなのです」(フィリピ1∙21)。