第2項 キリスト教の葬儀

すべての秘跡、とくにキリスト教入信の秘跡の目的は、神の子らの最後の過越、すなわち死を通して神の国のいのちに入らせる過越にあります。そのとき、本人が信仰と希望とをもって行っていた「死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む」という宣言が成就されるのです。

1 キリスト者の最後の過越し

死のキリスト教的意義は、わたしたちの唯一の希望の源であるキリストの死と復活という、過越の神秘に照らして明らかにされます。キリスト・イエスに結ばれて死ぬキリスト者は、からだを離れて主のもとへ向かう存在となるのです。

キリスト者は死の日に秘跡的生活の終点に達しますが、そのとき、洗礼によって始められた新しい誕生が完成され、聖霊の働きによって形づくられた「御子の似姿」が完全に実現され、エウカリスチアにおいて前もってあずからせていただいていた神の国のうたげに実際に参加させていただきます。しかし、婚礼の衣装をまとうためには死後の清めが必要な場合があります。

教会は、この世の旅路をたどるキリスト者に秘跡を授けて、母として彼らを腕に抱いていましたが、旅路の終わりには当人に付き添い、「御父のみ手に」ゆだねます。キリストにおいてその恵みの子を御父にささげ、栄光のうちに復活するであろうからだの種子を希望のうちに埋葬します。この奉献はエウカリスチアのいけにえによって完全な形で行われます。その前後に行われる祝福が、準秘跡です。

2 葬儀

キリスト教葬儀は、教会の典礼祭儀です。そこで教会の奉仕職が目指すのは、故人との生きた交わりを表すと同時に、参列者を葬儀に集まった共同体の仲間に加え、彼らに永遠のいのちを告げ知らせるということです。

葬儀のやり方にはいろいろな方法がありますが、どれもがキリスト教的死の過越としての特徴を表すものです。また祭服の色などに関しても各地方の状況と伝統とに順応した方法がとられることになっています。

ラテン典礼の葬儀式次第には、三種類の葬儀の方法が提示されています。それは、三つの場所(家、教会堂、墓地)での式次第で、家族、土地の風習、文化、民間信仰などがそれらの場所に寄せる思いの度合いに沿えるものとなっています。式の展開はすべての典礼伝承に共通で、四つのおもな部分から構成されています。

共同体による迎え入れ。式は信仰を表すあいさつによって始められます。死者の近親者が「慰めの」(新約聖書の、希望における聖霊の力という意味の)ことばで迎えられ、集まって祈る共同体は、さらに「永遠のいのちのことば」を待ちます。共同体の一員の死(あるいは命日、七日目、三十日目など)は、「この世」の視野を超えて、復活されたキリストヘの信仰の真の視野に信者を導き入れるべき出来事です。

葬儀の際のことばの典礼のためには、参列者の中には教会にあまり来ない信者や、故人の友人でキリスト者でない人々がいるだけに、とくに入念な準備が必要です。説教は、雄弁な弔辞の形式を避け、復活されたキリストの光によってキリスト教的死の神秘を明らかにすべきです。

エウカリスチアのいけにえ。葬儀が教会堂で行われる場合には、エウカリスチアがキリスト教的な死という過越の現実の中心となります。このとき、教会は故人との生きた交わりを表します。つまり、聖霊において、キリストめ死と復活のいけにえを御父にささげながら、教会の子供である故人が罪とその結果から清められ、過越をまっとうして神の国の食卓にあずかることができるように、御父に願い求めます。このように行われるエウカリスチアによって、信者の共同体、とくに故人の家族は、故人が生きた一員として属するキリストのからだと一致し、故人のために、また故人とともに祈りながら、「主に結ばれて眠った」者と一致して生きることを学ぷのです。

死者への告別(多くのラテン系のことばでは、「神のもとへ」という意味の語が用いられています)とは、教会によって故人が神にゆだねられることです。それは、「キリスト者の共同体が自分たちの一員の遺骸が埋葬される前に行う最後のあいさつ」なのです。東方教会の伝承は、死者に別れの接吻をしてこれを表します。 この最後のあいさつで、「この世からの出発と別れのための歌が歌われますが、それは、たとえ死んでも、わたしたちは互いに離れることはなく、交わりと再会があるからなのです。わたしたちは皆、同じ道を歩み、同じ場所で再会します。わたしたちは、決して離れることがありません。キリストのために生きているからです。そして今、キリストに向かって歩みながらキリストに結ばれているわたしたちは……、皆、キリストに結ばれて一緒になるのです」。