4 キリスト教的聖性

「神を愛する者たち、つまり、計画に従って召された者たちには、万事が益となるように神がともに働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8∙28-30)。

「どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教的生活の完成と完全な愛に至るよう召されています」。すべての人が聖性へと召されています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5∙48)。 「信者はキリストから受けたたまものの量に応じてこの完徳を獲得するよう努力し、こうして……万事において御父の意志を行いながら、神の栄光と隣人への奉仕に全力を尽くさなければなりません。これによって、教会の歴史がおびただしい数の聖人の生涯によって明らかに示しているように、神の民の聖性は豊かな果実を実らせるでしょう」。

霊的進歩は、つねにキリストとのいっそう親密な一致を目指すものです。この一致は、「聖なる神秘」である秘跡によってキリストの神秘に、そして、キリストに結ばれて聖三位の神秘にあずかるものなので、「神秘的」と呼ばれます。すべての人々に無償の恵みが与えられているということを明らかにするために、この神秘的いのちの特別な恵みないし非凡なしるしはただ幾人かの人だけにしか与えられないかもしれませんが、神はすべての人々を、ご自分とのこの親密な一致にお召しになっておられるのです。

完徳への道は十字架を通り越すものです。聖性は、自己放棄と霊的戦いなしには得ることができません。霊的進歩は修行と禁欲とを伴うものであり、それを通して真福八端の平和と喜びのうちに生きるように徐々に導かれていくのです。
「上る者は終わることのない始めを始めから始めへと上るのであって、決して止まることがありません。上る者は、すでに知っていることをたえず望み続けているのです」。

わたしたちの母である聖なる教会の子らが、イエスとの交わりの中でその恵みによって果たしたよい行いの報いとして、最後まで竪忍する恵みと補償とを父なる神に期待するのは正しいことです。信者たちは同じ生活規則を守り、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21∙2参照)に神のあわれみによって集められる人々の、「幸いなる希望」を分かち合うのです。