2 恵み

わたしたちの義化は神の恵みによるものです。恵みとは、わたしたちが神の子、神の養子、神の本性にあずかる者、永遠のいのちを受ける者になるようにとの招きにこたえるよう、神がわたしたちにお与えになる寵愛、無償の援助です。

恵みは神のいのちにあずからせるものであり、わたしたちを聖三位一体の親密な交わりのうちに入らせてくれるものです。キリスト者は洗礼によって、神秘体の頭であるキリストの恵みにあずかります。以後キリスト者は、神の「養子」とされた者としてひとり子と結ばれ、神を「父」と呼ぶことができます。霊のいのちを受け、霊はそのいのちに愛を吹き込み、教会を形づくるのです。

永遠のいのちへの召命は超自然的なものであり、まったく神の側からの無償の恵みによるものです。神だけがご自分を啓示し、ご自分を与えることがおできになるからです。この召命は、人間の知性や意志の力、否、すべての被造物のそれを超えたものなのです。

キリストの恵みは神がわたしたちにお与えになる無償のたまものであり、わたしたちの霊魂を罪からいやし、これを聖化するため、聖霊によって注がれた神のいのちにほかなりません。それは洗礼の際にいただいた成聖の恩恵ないし神化の恩恵であり、その恩恵がわたしたちのうちにあって聖化の働きの泉となるのです。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ〔られ〕ました」(ニコリント5∙17-18)。

成聖の恩恵とは、常住的なたまものであり、人が神とともに生き、神への愛のために行動できるようにするために人の霊魂自体を完成させる、持続的で超自然的な性質のことです。この恩恵は、神の招きに従って生き、行動するための恒常的な性質である常住の恩恵と、回心の初めや聖化の働きの過程で神が介入される助力の恩恵とに区別することができます。

恵みを受け入れることができるように人間を準備させることは、すでに恵みの働きです。恵みは、信仰による義化や愛による聖化へとわたしたちの協力をかきたて維持させるために必要なものです。神は始められたことを、わたしたちのうちに完成なさいます。「神は、わたしたちが望むようにと仕向けながら始められたことを、わたしたちの望みに合わせながら完成されるのです」。
「いうまでもなく、わたしたちも働きます。しかし、わたしたちは働いておられる神に協力しているにすぎません。わたしたちが働き始める前に神のあわれみがわたしたちに向けられているからです。実際、まず神のあわれみによってわたしたちがいやされれば、いやされたわたしたちは活気づけられるからです。まず神のあわれみによって呼びかけられれば、わたしたちは栄光を受けることができるようになります。まず神のあわれみによって敬謙に生きることができるようになれば、わたしたちはいつも神とともに生きることができるようになります。神なしに、わたしたちは何事もできないからです」。

神からの自由な働きかけに対しては、人間の自由な応答が求められます。神は人間をご自分にかたどって造り、自由意志と、ご自分を知りご自分を愛する能力とをお与えになったからです。霊魂は自由なしかたでなければ愛の交わりに入ることができません。神は人間の心に直接に触れ、それを動かされます。神は人間のうちに、ご自分だけが満たすことのできる真理と善への願望を植えつけられました。「永遠のいのち」の約束は、あらゆる望みを超えて、この願望にこたえるものです。
「あなたが最良のみわざを終えて七日目にお休みになられたのは、わたしたちもまた、あなたがわたしたちにお与えくださったので最良のものとなったわたしたちのわざを終えた永遠のいのちの安息日にはあなたのうちで休むことになると、あなたの書の声を通して前もって仰せになるためでした」。

恵みは何よりもまず、わたしたちを義化し聖化してくださる聖霊のたまものです。しかし、恵みにはまた、霊がお与えになる他のたまものも含まれています。それらのたまものは、わたしたちが霊の働きに参与して、他の人々の救いや教会というキリストのからだの成長に協力することができる者となるために与えられるものです。それぞれの秘跡に固有のたまものである秘跡的恩恵がそうであり、また、カリスマとも呼ばれる特別な恵みもこれにあたります。カリスマとは聖パウロが用いたギリシア語ですが、特別な好意、無償のたまもの、寵愛などを意味します。カリスマは、時には奇跡を行い、異語を語るような非凡な形で現れることがありますが、それがどのようなものであろうと、カリスマはすべて成聖の恩恵のためにあるものであり、教会の共通善を目指し、教会を築いていく愛を助けるものです。

特別な恵みとしては、身分上の恵み、つまり、キリスト教的生活の責務や教会内の役務遂行に伴う恵みを挙げることができます。
「わたしたちは、与えられた惠みによって、それぞれ異なったたまものを持っていますから、預言のたまものを受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕のたまものを受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」(ローマ12∙6-8)。

恵みは超自然的なものなので、わたしたちの経験的知識では把握できず、信仰によってしか知ることができません。したがって、自分の感じや働きなどを根拠に、自分は義化されている、あるいは救われているなどと判断することはできないのです。しかし、「あなたがたはその実で彼らを見分ける」 (マタイ7∙20)といわれたキリストのことばに基づいて、わたしたちの生活や聖人たちの生活に見られる神のたまもののことを考えれば、恵みがわたしたちのうちに働いて信仰をますます深めさせ、信頼に満ちた謙虚な態度に導いてくれているという確信を得ることができます。
このような態度についての優れた一例を、教会裁判官たちの狡猾な質問に対する聖ジャンヌ∙ダルクの回答に見ることができます。「自分が神の恵みのうちにいるかどうかを知っているか、と尋問された彼女は、『もし、わたしが恵みのうちにいないなら、神様がわたしを恵みのうちに置いてくださるようにお願いします。もし恵みのうちにいるなら、神様がわたしをその状態に守ってくださるようにお願いします』と答えました」。