1 義化

聖霊の恵みは、わたしたちを義とする力、すなわち、わたしたちを罪から洗い清め、イエス・キリストを信じることを通しで、また洗礼を通して、神の義を与える力を持っています。
「わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ6∙8-11)。

わたしたちは聖霊の力によってキリストの受難にあずかり、罪に対して死んだ者となり、新しいいのちに生まれて、キリストの復活にあずかります。わたしたちは教会というキリストのからだの肢体、キリストというぶどうの木に結ばれた枝なのです。
「わたしたちは霊によって神にあずかる者となります。霊にあずかることによって、神の本性にあずかるのです。……したがって、霊が住まわれる人々は神化されます。

聖霊の恵みの第一の働きは回心であり、これによって義化が行われます。イエスが宣教を開始するにあたって、「悔い改めよ。天の国は近づいた」 (マタイ4∙17)と告げておられるとおりです。人間は恵みの働きに動かされて、神に向きを変え、罪から離れて、ゆるしと義とを神からいただきます。「義化とは、単に罪がゆるされるだけではなく、……内的人間の聖化と一新です」。

義化とは、神の愛に背く罪から人間を引き離し、その心を清めることです。それは、ご自分のほうから進んでゆるしをお与えになる神のあわれみの結果です。それは人間を神と和解させることであり、罪の奴隷の状態から解放し、いやすことです。

義化とは、イエス・キリストヘの信仰によって神の義を受け入れることでもあります。ここでいう義とは、神の愛の正しさのことです。義化とともに、信仰、希望、愛が心に注がれ、わたしたちは神のみ旨に従うようになります。

義化とは、キリストの受難を通してわたしたちに与えられる功徳です。キリストは十字架上で神のみ心にかなう生きた聖なる供え物としてご自分をおささげになり、その血がすべての人の罪を償う供え物となったのです。義化の恵みは信仰の秘跡である洗礼を通して与えられますが、その恵みによってわたしたちは神の義にかなう者に変えていただきます。神がそのあわれみの力によって、内面からわたしたちを正しい者となさるのです。それは、神とキリストの栄光、およぴ永遠のいのちのたまものをお与えくださるためです。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今このときに羲を示されたのは、ご自分が正しいかたであることを明らかにし、イエスを信じる者を羲となさるためです」(ローマ3∙21-26)。

義化は、神の恵みと人間の自由との間の協力関係を確立させます。それは、人間の側からは、回心を促す神のことばへの信仰による同意と、その同意に先だって人間を守ってくださっている聖霊の勧めに対する愛による協力とによって表されます。
「神が聖霊の照明をもって人の心に触れるときに、人はまったく何事もしないのではありません。それを拒むこともできるのに、その霊感を受け入れるのです。しかしながら、神の恩恵なしに自分の自由意志だけでは、神の義に自分を向けることはできないのです」。

義化は、イエス・キリストにおいて表され聖霊によって与えられる、神の愛のもっとも卓越したわざです。聖アウグスチヌスは、悪人が義とされるということは「天地の創造よりも偉大な」わざだと考えています。「天地は過ぎ去っても、選ばれた人々の救いと義化は永続するから」です。聖アウグスチヌスはさらに、罪びとの義化は、義の状態で造られた天使の創造にまさるとさえ考えています。神のより深いあわれみを示すものだからです。

聖霊は内なる教師です。「内なる人」を生まれさせる義化は、その人間全体を聖化させるのです。
「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隸として、不法の中に生きていたように、今これを羲の奴隸としてささげて、聖なる生活を送りなさい。……今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠のいのちです」(ローマ6∙19,22)。