3、これより後のことのための注

感覚的浄化を通して進歩した人々は、この浄化の間、感覚を甘美な交わりによって養ってきた。つまり、感覚的な部分が、霊から湧き出た霊的な味わいにひきつけられ、これを味わうことにより霊と結び合わされることにより進歩してきた。こうして、同じ一つの霊的食物を同じ皿から、感覚と霊が結ばれ一つの結合体として、それをとるようになる。このことは、彼らを待っているきびしく、つらい霊の浄化をともに忍ぶ用意となる。なぜなら、この浄化において、霊魂の霊的な部分と感覚的な部分があますところなく浄化し尽くさなければならないからであって、それは、一方の浄化がなければ、もう一方の浄化も決して完全には行われないからである。というのも、感覚にとって効果ある浄化は、霊の浄化が本格的に始まるときに行われる。したがって、感覚の夜は、浄化と呼ばれるよりも、むしろ欲求の確実な刷新または制御と呼ばなくてはならない。その理由は、感覚的部分の不完全や無秩序のすべての力と根は霊の中にあるからであり、善悪のすべての習性は、この霊の中で形成されるからである。したがって、これらが浄化されるまでは、感覚の逆らいと邪悪さは徹底的に浄化されることはない。

それで、続いて訪れるこの霊の夜において、二つの部分は両方とも一緒に浄化されるわけである。このために感覚は、第一の夜の刷新と、そこから生じた静かな夙の時期を通らなければならなかったのである。それは、感覚が霊と結び合わされて、一層勇敢に苦しみを忍び、確実に浄化されるためである。なぜなら、これほど激しく、激しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。前もって、下級部分の弱さが改められることがなく、また、感覚の浄化の後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた神との交わりによって剛毅を獲得することがないならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質を持つことはないに違いないからである。

彼らは進歩したとはいえ、まだ低い段階にいるので、神との交わりも接し方も大変低く、自然的である。というのも、彼らの霊が、まだ洗練されていず、明らかに照らされていないからである。それで彼らは、聖パウロが言っているように(1コリント13・11)、まだ神について子供のように考え、子供のように話し、神についての知識も感覚も子供の持つものと同じなのである。というのは、まだ、霊魂と神の一致という完徳に達していないからであって、この一致に達すれば、大人のように、その霊の中に偉大な働きをするようになる。それは、彼らの働きや諸能力が人間的なものというよりも、むしろ、神的なものとなるからである。それ故、使徒が言っているように、神は、彼らをこの「古い人」から赤裸にし、新しい感覚のうちに、神に似せて創られた新しい人をこれに着せることを望まれ(コロサイ3・10)、彼らの諸能力も、愛好も感覚も、霊的なものも感覚的なものも、また外的なものも内的なものも、すべて赤裸にされる。そして、理性を闇の中に、意志を無味乾燥の中に打ち捨て、記憶を空にし、霊魂の愛好を極度の苦しみと苦味と身動きのできない状態の中におき、以前、霊的な宝について感じていたような味わいや感覚を霊魂から奪いとってしまわれる。なぜなら、この剥奪は、愛の一致という霊の霊的形相を霊魂内に導入し、定着させるために要求される条件の一つとなるからである。こういうことはみな、霊魂が第一の歌の中で述べているように、主が、闇に包まれた純粋の観想を通して、霊魂の中で行われることである。この歌は、第一の感覚の夜について説明されているものではあるが、霊魂はこれを主として第二の霊の夜のことと解している。というのも、これが、霊魂の浄化の主要な部分であるから。それで、この目的の故に、ここにもう一度、この歌を記して説明することにする。