3、これより後のことのための注

霊的浄化を通して進歩した人々は、この浄化の間、感覚的な部分が、霊から湧き出た味わいにひきつけられ、これを味わうことにより進歩してきた。このようにして同じ一つの霊的食物を、感覚と霊が結ばれ一つになり、それをとるようになった。

このことは、彼らを待っているきびしく、つらい霊の浄化をともに忍ぶ用意となる。なぜなら、感覚的部分の不完全や無秩序のすべての力と根は霊の中にあるからであり、善悪のすべての習性は、この霊の中で形成されるからである。したがって、霊が浄化されるまでは、感覚の逆らいと邪悪さは徹底的に浄化されることはない。

続いて訪れる霊の夜において、二つの部分は両方とも一緒に浄化される。このために、まず感覚から浄化される必要があった。なぜなら、霊の浄化は感覚の浄化に比べ非常に激しいからであり、激しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。つまり、前もって下級部分である感覚的な弱さが改められることがなく、また、感覚の浄化の後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた神との交わりによって剛毅を獲得することがないならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質も持つことはないからである。

彼らは進歩したとはいえ、まだ低い段階にいるので、まだ神について子供のように考え、子供のように話し、神についての知識も感覚も子供の持つものと同じなのである。というのは、まだ、霊魂と神の一致という完徳に達していないからであって、この一致に達すれば、大人のように、その霊の中に偉大な働きをするようになる。それは、彼らの働きや諸能力が人間的なものというよりも、むしろ、神的なものとなる。

それ故、神は、彼らをこの「古い人」から赤裸にし、新しい感覚のうちに、神に似せて創られた新しい人をこれに着せることを望まれ(コロサイ3・10)、彼らの諸能力も、愛好も感覚も、霊的なものも感覚的なものも、また外的なものも内的なものも、すべて赤裸にされる。