9、この夜はどれほど霊を照らし、霊に光を与えるためのものであるかについて

この幸福な夜は、霊に闇をもたらすものであるとはいえ、それはただ、すべてのことに関して、霊に光を与えるためにそうするのである。また、霊をへりくださせ、惨めな状態に置くとはいえ、それはただ、霊を高揚し、高くあげるためにのみそうするのであり、さらに、霊を貧しくし、自然的愛情や執着のすべてから空にするとはいえ、それはただ、霊が上のことも下のことも、すべてを霊的の自由さをもって味わうようになるほど、神的に拡がることができるためにそうするのである。霊は、自然的な愛好からは、純潔で、赤裸でなければならない。それでこそ、霊の広やかさをもって、自由に神的英知と交わることができるのであって、霊魂は、その清らかさゆえに、すべてのもののあらゆる甘味さを一層すぐれた方法で味わうようになる。この浄化なしには、どんなにしても、この豊かな霊的甘味の豊満を余すところなく味わうことも、感じることもできない。なぜなら、霊魂がたった一つの愛着を持っていてさえも、あるいは、霊が何か特殊なものに捉えられているならば、もう、それだけで、あらゆる味わいを含んでいる愛の霊の、繊細さや、親密な甘味さを、感じることも味わうことも、それに与ることもなくさせるのに十分だからである。

霊魂は暗夜においてすべての苦しい浄化を忍ぶのであるが、それは、この神的影響によって、霊魂を霊的生命に生まれ変わらせるためである。霊魂は、この苦悶のさなかに救いの霊を生み落とす。なおこの他に、この観想の夜を通して霊魂は、内的な平和と静けさに達するために準備を整えるのであるが、この平和は、聖書に「あらゆる人知を越えるもの」(フィリピ4・7)と記されているように、非常に快いものであって、霊魂に、今までもっていた平和を残らず投げ捨てさせるほどである。実際、今まで持っていた平和は不完全だらけであったから、本当の平和ではなかった。ただその霊魂にとっては平和と見えただけである。