7、この夜の中で霊魂が忍ぶ意志の他の苦悩の試練について

この霊の夜において、意志の苦悩や試練もまた絶大である。時々は、霊魂に、自分が今陥っているいろいろの悪を突然思い出させ、果たして自分は救われるのかどうかという不安で、霊魂を貫くほどである。さらに、これには、過去の何もかもうまくいっていた頃の思い出が加わる。というのも、これらの人々は、大抵の場合、この夜に入るとき、神において多くの慰めを持っていたのであり、神に多くの奉仕をしてきたのだから。それで、自分が今は、あのような幸福からは、はるかに遠ざけられているのを見、もう二度とそこには達することはできないと思うと、以前のあの思い出は彼らにとって、さらに激しい苦しみのもととなる。

この夜が霊魂にもたらす大きな祝福のゆえに、霊魂は非常な幸福を感じているとはいえ、今忍んでいる苦しみと自分の救いが全く不確実であることのために大いに苦しむ。なお、この上に、この暗夜が霊魂にもたらす孤独と、打ち捨ての状態が原因となって、霊魂は、どんな教えにも、どんな霊的指導者にも、慰めや支えを見出せない。霊魂は、暗い地下牢の中に手足を縛られてつながれている人のようで、何をすることもできず、動くことも、見ることもできない。また、それが、上からのものであろうと、下からのものであろうと、何らの恩恵を感じることができないということが加えられる。ただし、それは、ここで霊が浄められて、謙遜になり、素直になり、神の霊と一つになることができるほどに繊細に、単純に、デリケートになるまでのことである。それは、神の憐れみが、その霊魂に与えようと思われる愛の一致の度合いに応じてのことであって、浄化の厳しさの程度とその期間の長短も、これに比例する。しかし、もし、その浄化が本当の浄化であるならば、それがどんなに厳しいものであっても数年間は続く。

とはいうものの、浄化の過程には、一息つくことのできる暇もあって、その時には、神の憐れみによって、この闇の観想は、浄化という形ややり方で霊魂を襲うことを止め、かえって、霊魂を照らすようにして、愛深く霊魂を襲う。その時霊魂は、たやすく、豊かに楽しむことのできる霊的な交わりのうちに、平和の大いなる甘美さと、神の愛深い友情を感じ、味わう。時々は、このような慰めが非常に大きいので、霊魂は、自分の試練はもう終わってしまった、と思い込むほどである。

しかし、一番安全で、警戒しない時に、再び霊の夜がその霊魂を襲う。その時の苦しみの程度は、以前よりも一層悪く、もっとひどく、もっと暗く、もっと悲惨である。そして、この苦しみは、以前より長期間続く。ここで霊魂は、再び、自分にとって、すべてよいものは永久に終わりを告げてしまったのだ、と信じるようになる。

煉獄にいる霊魂たちが、自分たちは、いつかはそこから出られるはずだということや、その苦しみは終わるはずだということに対して、なぜ、大きな疑惑に襲われるのか、ということの理由は、まさにこれである。煉獄の霊魂が神を愛することは非常に大きいが、自分がこんなにも惨めなのを見て、神が自分を愛しておられるなどとは信じられないし、また、愛されるだけの理由があるとも、将来そうなるとも、考えられない。かえって、神からだけではなく、すべての被造物からも、永久に憎まれる理由があると考え、自分がこんなにも愛し望んでいる方から捨てられるのにふさわしい理由が自分の中にあるのを見て、深く悲しむ。