5、歌の第一行目をあげ、この闇に包まれた観想が、なぜ霊魂にとって夜であるばかりでなく、苦しみ、拷問であるのかの説明

なぜ、霊魂を照らし、その無知から浄めるものである「神の火」が、霊魂にとって「暗い夜」であり、苦しみであり、拷問であるのか。

第一の理由は、神の英知は霊魂の能力を超越するので霊魂にとって闇なのである。ちょうど光のように、それが明るければ明るい程、それは、ますます目を眩ませ、見えなくさせてしまう。また、太陽を見つめれば見つめるほど、ますます視力を眩ませ、その能力の弱さを越えたものであるが故に視力を奪ってしまう。同じように、この観想の神的光が、まだ完全に照らされていない霊魂に襲うと、その霊魂に霊的な闇を生じさせる。なぜなら、この光は、ただ単に霊魂を超越しているばかりでなく、更に、それを奪い取り、その自然的知性の働きを暗くしてしまうことさえするからである。それについてダビデも、「神の近くに、そしてそのまわりには闇と雲とがある」(詩97・2)と言っている。しかし、実際にそうであるのではなく、ただ、私たちの薄弱な理性にとってはそうなのである。

第二の理由は、霊魂の卑しさと不純によるもので、そのために、神の英知は霊魂にとって、苦しくつらいものである。なぜなら、この神的な注賦的観想は、極めて優れた多くのすばらしいものを持っているのに引き換え、それを受ける霊魂は、まだ浄化されていないため、非常に悪い無数のみじめさを持っているからである。それで、二つの相反するものは、霊魂の主体の中に同時に存在することはできないのであるから、必然的に、霊魂を苦しめ悩ませることになる。この純粋な光は、霊魂から、その不純なものを追い払うことを目的として霊魂をおそうので、霊魂は、まるで神が自分に敵対しておられ、自分は神に敵対するものとされたように感じるほど、自分は惨めで、不純であることを痛感する。これは霊魂にとって、非常な悲しみであり、苦痛である。また、この神的な観想は、霊魂を強固にし、制御してゆこうと、かなりの力をこめて霊魂を襲うので、霊魂はその弱さ故に、ほとんど気絶するばかりに苦しむ。

霊魂の弱さと不純とが、これほどであるとは、全く驚くべきことであり、憐れむべきことである。神の手は、それ自体、あれほどやさしく、軽やかであるのに、霊魂はそれを非常に重いもの、自分に逆らうもののように感じるのである。しかし、神の手は、重荷を負わせることも、押さえつけることもなさらず、ただ、憐れみ深くこれに触れられるだけなのである。なぜなら、神が、これらのことをなさるのは、すべて、霊魂に恵みを与えようとしてのことだからであって、決して、霊魂を罰しようとしてのとこではないからである。