2、これら進歩した人々が陥りやすい他の不完全について続けて論じる

これらの進歩した人々は、二様の不完全をもっている。その一つ目は、まだその霊魂には植物の根のように不完全な愛好と習性が霊の中に残っていることである。感覚の浄化もそこまでには達し得なかった。感覚的浄化と霊的浄化の違いは例えるなら、枝を剪定することと樹木の根を掘り取ることの相違、または、新しいしみを取ることと、しみ込んだ古いしみを抜くこととの相違である。なぜなら、感覚の浄化は、霊の浄化のための観想のはじまりにすぎないからであり、この浄化は霊を神と一致させることに役立つよりは、感覚を霊に適合させることに役立つものであるからである。しかし、たとえ本人は気づかないとしても、霊にはまだ古い人のしみが残っている。これらのしみが、強力な漂白剤ともいうべき、霊の浄化によって取り去られないならば、霊は、神的一致の純潔にまで達することはできない。

これらの人々は、また、罪の結果、すべても人間につきものの精神のにぶさと、生来のがさつさ、ならびに霊の散漫と、常に外に出ようとする傾向を持っている。これは、霊の浄化による苦しみと束縛を通して照らされ、洗練されなければならない。このような習性的な不完全は、感覚の浄化を通りすぎた人であっても霊の浄化を通り越していない人には、誰にでもある。しかし、この状態では、愛による神との一致という完全な段階に達することはできない。

もう一つの不完全は、霊的な宝を非常に浅薄に、また感覚に影響されやすい状態で持っているため、大きな不都合や危険に陥りやすいことである。なぜなら、彼らは、感覚の中にも霊のうちにも、あまりにもたくさん、神との交わりや霊的な知覚を見出すからである。それで、度々、想像的示現や霊的示現を見る。悪魔はよく、この知覚や感情を、非常に大きな喜びとともに霊魂に刻印し、暗示を与えるので、簡単に霊魂を恍惚とさせ、まどわせる。霊魂は、信仰のうちに、これらすべての示現や感情に強く抵抗し、自己防御するだけの慎重さを備えていない。というのも、悪魔はここで多くの人々に、空虚な示現や偽りの預言を信じさせるからである。また、このような状態において、悪魔は、神や聖人方が自分と語っておられるのだと思い込ませようと努める。それで、彼らは度々自分の幻想を信じてしまう。ここで悪魔はよく、彼らをうぬぼれと傲慢で満たすので、彼らは、虚栄と思い上がりに引き付けられ、脱魂、その他の聖人と思わせるような外的な行いによって、人目を引こうとする。その結果、聖なる畏敬を失い、神に対して不敬不遜になる。そのうちのある人々は、このような虚偽や錯覚は増す一方で、彼らが再び徳と真の霊の純潔な道に戻ることは全く疑わしくなるほど、虚偽や錯覚の中に年を重ねてゆく。このような惨めな状態に陥るのは、この道を進み始めたときに、霊的な知覚や感情に余りにも安心しきって自分をまかせたからである。

こういう人々につきものの不完全は、どんなに一層いやしがたいものであるかについて、余りにも言うべきことが多いのが、ここでは言わない。ただ霊的浄化がどれほど必要か、次のことだけを言っておく。つまり、感覚的浄化を通り過ぎた人々の中で、たとえ、どんなに努力し、成功したと思われた人でも、多くの自然的な愛好や不完全な習性を持たなくなった人は、一人もいないということである。したがって、神との一致に達するためには、霊的浄化が必要なのである。

その上、下級部分である感覚的部分もまだ、霊的交わりにあずかっているため、その交わりは神との一致のために要求されるほどには激しくも純粋でも、強くもあり得ない。従って、この一致に達するためには、第二の霊の夜に入ってゆくことが霊魂にとって必要である。そこでは、感覚や霊を、これらすべての知覚や味わいから完全に赤裸にして、暗く純粋な信仰の中を歩ませなければならない。この信仰こそ、霊魂が神と一致するための適切、特有の媒介である。ホセアが、「私は信仰によってお前をめとろう―すなわち、信仰によってお前と一致しよう」(2・20)と言っている通りである。