第2項 至福への召命

1 真福八端

真福八端は、イエスの説教の中核をなすものです。この告知はアブラハム以来の選ばれた民になされた神の約束を踏襲するものではありますが、その幸せの中身を単に地上的なものではなく、天の国を享受することに向けることによって、その約束を成就させるものなのです。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
あわれみ深い人々は、幸いである、その人たちはあわれみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、追害され、身に覚えのないことであらゆる悪ロを浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5∙3-12)。

真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光にあずかる信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにするものです。苦難の中での希望を支える逆説的な約束であり、目には見えなくともすでに与えられた祝福と報いとを弟子たちに告げるものです。そしてそれは、おとめマリアやすべての聖人たちの生活の中で始められています。

2 幸福ヘの願望

真福八端は、幸福への自然な願望にこたえるものです。この願望は神に由来するもので、その願望を満たすことができる唯一のかたである神が、人間をご自分に引き寄せるために、その心に植えつけられたものです。
「確かに、わたしたちは皆、幸せに生きたいと望んでいます。人間である以上、この主張に同意しない者はだれもいません。いい終わらない前に同意してしまうほどです」。
「主よ、わたしはどのようなしかたであなたを探したらよいのでしょうか。現実のわたしは、わたしの神であるあなたを探すときに、幸福な生活を探しています。わたしは自分の魂が生きることができるように、あなたを探しましょう。わたしの身体は魂によって生き、わたしの魂はあなたによって生きているのです」。
「神のみが満ち足らせてくださるかたです」。

真福八端は人生の目的、人間行為の究極目的を明らかにします。つまり、神がわたしたちをご自分の至福にあずかるよう招いておられます。この招きは一人ひとりの人間に個人的になされているだけではなく、約束を受け入れ、これを信じて生きる人々によって構成される新しい民、すなわち教会全体にもなされているのです。

3 キリスト教的至福

新約聖書は、神が人間を招いておられる至福の特徴を表すために、さまざまな表現を用いています。神の国の到来、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタィ5∙8)ということばにあるような形で神を見ること、主の喜びに入ること、神の安息にあずかること、などがそうです。
「そこで、わたしたちは憩い、見るでしょう。見て、愛するでしょう。愛して、たたえるでしょう。そこには終わりのないものがあるのです。わたしたちには終わりのないみ国に到達する以外のどんな目的があるでしょうか」。

神がわたしたちにこの世の生を与えられたのは、神を知り、神に仕え、神を愛して、天国に至るためなのです。至福とはわたレたちが「神の本性」(ニペトロ1∙4)と永遠のいのちとにあずからせていただくことです。至福の状態にある人間は、キリストの栄光と三位一体のいのちの至福とにあずからせていただくのです。

このような至福は人間の知性と力とを超えるもので、神の無償のたまものとしていただくものです。そのために、それは、神の至福に入るために人間を助けてくれる恵みと同じように、超自然的恵みといわれます。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る亅。いうまでもなく、「神を見た者は、生き続けることはできないであろう亅といわれているとおり、その偉大さと言語に絶する栄光ゆえに、御父は把握できないかたなのです。けれども、その愛といつくしみの心と全能とによって、ご自分を愛する人々には、神を見る特別な恵みもお与えになります。……「人間にはできないことも、神にはできる亅からです」。

約束された至福のことを考えると、わたしたちは決定的な倫理的選択の前に立たされます。自分の心を悪い本能から清め、すべてを超えて神を愛するようにと促されます。またわたしたちは、真の幸福は富や安楽にも、人間的栄光や権力にも、たとえそれが科学や技術や芸術のような有益なものであったとしても、人間の業績のうちにも、被造物のうちにもなく、あらゆる善と愛との源である神のうちにのみあることを教えられます。
「富が現代の偉大な神となっています。多くの人々、大多数の人間が本能のようにあがめるのはまさに富です。人々は幸せだけではなく、払うべき尊敬の度合いさえも財産に基づいて量ります。……それは、富さえあれば何でもできるという信念に基づいています。ですから、富は現代の偶像の一つなのです。名声もまたその一つです。……名声や、世間で知られ、もてはやされることもまた、善そのもの、最高の善、真の崇敬の対象とみなされます。それは、マスコミ的名声ともいえるものです」。

十戒をはじめ、山上の説教や使徒的カテケージスは、天の国に導く道をわたしたちに示してくれます。わたしたちはこの道を聖霊の恵みに支えられた日常の行いを通して一歩一歩進み、キリストのことばに養われながら、神の栄光のための実を教会の中で徐々に結ぶのです。

要約

真福八端は、アブラハム以来の神の約束を踏襲し、天の国に向けてその約束を成就させます。真福八端は人間の心に神が刻まれた幸福への願望にこたえるものです。

真福八端は、神が招いておられる究極目的琴わたしたちに教えてくれます。その目的とは、神の国、神を見ること、神の本性にあずかること、永遠のいのち、神の子となること、神のうちで安息することです。

永遠のいのちの至福は神の無償のたまものです。この至福は、これに導く恵みと同じように、超自然的恵みです。

真福八端はわたしたちをこの世の善に関する決定的な選択の前に立たせ,わたしたちの心を清めて、万事に超えて神を愛することを学ばせます。

天上の至福が、この世の善を用いる際の神の法にかなった識別基準を定めます。