第1項 神の似姿である人間

人閭の召命は聖霊における生活によってまっとうされます(第1章)。それは、神への愛と人間同士の連帯とによって成り立っており(第2章)、救いの恵みとして与えられるものです(第3章)。

人格の尊厳は、神にかたどり、その似姿として造られたことに根ざしており(第1項)、神の至福にあずかるように召されることによって実現されます(第2項)。自由意志の決定によってこの完成を目指すのが人間の本分です(第3項)。人間は熟考して決定した行為によって(第4項)、神が約束され、良心が認める善に従うこともあれば、従わないこともあります(第5項)。人間は自らを啓発し、内的に成長します。すなわち、自分の感覚的∙精神的生命のすべてを成長の糧とします(第6項)。恵みに助けられ、徳を涵養し(第7項)、罪を避け、罪を犯したときには放蕩息子のように1天の御父の慈悲に自らをゆだねます(第8項)。こうして、愛の完成に至ります。

「キリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにします」。人間は、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)であるキリストにおいて、創造主に「かたどり、その似姿として」造られました。そして、あがない主であり救い主であるキリストにおいて、原罪によって人間のうちでゆがめられた神の似姿はその原初の美しさを取り戻し、神の恵みによって高貴なものとされたのです。

神の似姿は一人ひとりの人間の中に刻まれていますが、その姿は神の三つのペルソナ間の一体性のかたどりである人間相互の交わりの中で輝き出ます(第2章参照)。

不滅の霊的な魂を受けた人格は、「神がそのもの自体のために望んだ地上における唯一の被造物」です。人間は受胎のときから永遠の至福に向けられています。

人格は神の霊の光と力とにあずかります。創造主が定められた物事の秩序を理性によって理解することができますし、自分自身を自分の意志で自分の真の善に向かわせることができます。また、真と善とを求めたり愛したりしながら自己を完成させていきます。

人間には霊魂および知性や意志という精神的能力が備わっているので、「神の像の優れたしるし」である自由が与えられています。

理性によって、人間は「善を……行い、悪を避けるよう」にと勧められる神の声を認識します。一人ひとりの人間は良心のうちに響くこの神のおきてに従わなければなりません。神のおきては神と隣人とを愛することによって守られます。倫理生活の実行こそ、人間の尊厳を証明するものです。

しかし「人間は、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を濫用しました」。誘惑に負け、罪を犯したのです。善へのあこがれを持ち続けてはいますが、その本性は原罪の傷を負っています。人間は悪に傾き、誤りやすい者となりました。
「人間は自己の中で分裂しています。こうして人間の全生活は、個人的にも団体としても、善と悪、光とやみの間における劇的な戦いとして現れます」。

キリストは、受難によってわたしたちをサタンと罪から解放されました。わたしたちのために、聖霊による新しいいのちをかちとってくださいました。聖霊の恵みは、罪がわたしたちのうちで損ったものを回復してくれます。

キリストを信じる者は、神の子供となります。信者は神の子供とされて、キリストの模範に従うように変えられ、正しい行いをし、善を実践することができるようになります。その救い主と結ばれた弟子は、愛の完成である聖性へと到達します。恵みによって開花した倫理生活は、天の栄光のうちに永遠のいのちとして実を結びます。

要約

「キリストは……人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにします」。

人間は知性と意志とを持った霊魂を備えており、受胎のときからすでに神に方向づけられ、永遠の至福へと招かれています。そして、真と善とを求めたり愛したりしながら自己の完成に努めます。

「真の自由は人間の中にある神の像の優れたしるしです」。

人間は、「善を…一行い、悪を避けるよう」にと促す倫理的おきてを守らなければなりません。このおきては良心に刻まれています。

原罪によって本性を傷つけられた人間は、誤りやすく、自由を行使する際には悪に傾きやすくなっています。

キリストを信じる者は、聖霊による新しいいのちを持っています。そして恵みによって成長し開花した倫理生活は、天の栄光のうちに完成されることになっています。