第1項 道徳法

至福に召されてはいても罪に傷つけられている人間は、神の救いを必要とします。神の助けは、人間を導き、恵みによって人間を支えてくれる法を通して、キリストによってもたらされます。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2∙12-13)。

道徳法は神の英知のわざです。聖書的発想法では、これを父としての訓戒、神の教育法と定義することができます。人間に約束された至福に導く道としての行動規範を示し、神とその愛とに背かせる悪の道を禁じるものてす。そのおきては厳しいものですが、その約束はいつくしみ深いものです。

法とは、共通善に関する権限を持つ権威者によって公布された行動規範です。道徳法は、被造物の善のため、また被造物がその目的に到達することができるために、創造主の力と英知といつくしみとによって被造物間におち立てられた、合理的秩序を前提にしています。すべての法に秘められている基本的で究極な真理は、永遠の法に見いだすことができます。法は、すべてのものの創造主でありあがない主である生ける神の摂理に参与するものとして、理性によって明示、制定されたものです。「理性による秩序づけが法といわれます」。
「生きとし生けるものの間で、人間だけが神から法を受けるにふさわしいものであったことを誇ることができます。人間は理性を備え、理解し識別できる動物として、自交にすべてをゆだねられた創造主に服従しながら、自由意志によってその法に従うのてす」。

道徳法の表現形態はさまざまですが、それらはすべて関連し合っています。すなわち、神のうちに存在するあらゆる法の源である永遠の法、自然法、旧約の律法と新約の福音の法とを含む啓示された法、さらに民法や教会法などは、すべて関連し合っているのです。

道徳法の完成と統一はキリストのうちで行われます。イエス・キリストご自身が完徳の道であり、法の目標です。イエス・キリストだけが神の義を教え、お与えになるからです。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」(ローマ10∙4)。

1 道徳的自然法

人間は創造主の英知と善とに参与します。創造主は人間に自分の行為を支配し、真理と善とに基づいて自分を治める能力をおゆだねになりました。 自然法とは、人間が善悪と真偽とを理性によって識別することができるようになる本源的な道徳的感覚を映し出すものです。
「自然法は人間各自の魂に記され、刻まれています。それは、善を行うことを命じ罪を犯すことを禁じる人間的理性だからです。……そして、その命令が法の力を持つことができるのは、それがわたしたちの精神と自由とが服従しなければならないいと高き理性の声であり代弁者であるからです」3。

神的な自然法は、善を行って自分の目的に到達するために取るべき道を人間に示します。自然法は、道徳生活を規制する主要で本質的なおきてを示すものです。その基本となっているものは、すべての善の源であり判定者である神へのあこがれと服従であり、他人を自分と等しい者と思える感性でもあります。その基本的なおきては十戒に示されています。この法が自然法といわれるのは、非理性的事物の本性に準拠しているという理由からではなく、この法を命じる理性が人間本性に固有のものとして備わっているという理由からなのです。
「〔これらの規範は、〕人が真理と呼ぶこの光の書に記されているのです。そこにすべての正しい法が書かれ、そこから正しいことを行う人間の心のうちにそれが伝えられるのです。人の心に移動してしまうのではなく、そこに刻印を押すのです。指輪の印章がろうに押されても、指輪を離れないのと同じように」。
自然法は、「神がわたしたちのうちに置かれた知性の光にほかなりません。これによって、わたしたちはなすべきことと避けなければならないことを知ります。この光、もしくは法は、創造のときに神から人間に与えられたものです」6。

一人ひとりの心のうちに存在し、理性によって明らかにされた自然法のおきては普遍なもので、その権威はすべての人間に及びます。それは人間の尊厳を表し、その基本的権利と義務との土台を明らかにします。
「真の法とは、本性にかない、すべての人間に共通で、首尾一貫して不変の、正しい理性のことです。それは義務の遂行を促し、犯行から遠ざけてくれます。……この法を他のものと置き換えることは神への冒濱です。その中の一つの規定といえども実行しないことはゆるされませんし、これをことごとく廃棄するなどということはだれにもできません」。

自然法の適用方法は実にさまざまです。場所や時代や状況によって、さまざまな生活条件に適合した省察が必要になります。しかし自然法は、異なる文化の中でも人間相互を結びつけ、避けることのできない相違を超えて共通の原理を課す規範であることに変わりはありません。

自然法は不変であり、種々変動する歴史を通じて恒常的なものです。変わりゆく思想や風習の中でも生き続け、その進歩を支えます。自然法を表す諸規範は、本質的な点で効力を保ち続けます。その原理が否定されることがあったとしても、これを無くならせ、人間の心から取り去ることはできません。個人や社会生活の中でたえずよみがえるものです。
「主よ、あなたのおきてによって、また人間の心に刻まれたおきてによって、盗みは必ず罰せられます。悪意ですらそのおきてを消し去ることはできません」。

創造主の最高のみわざである自然法は、選択を導く道徳的規範の体系を人間がその上に築き上げることができるための土台を提供してくれます。また、人間共同体を築くために欠くことのできない倫理的土台も敷いてくれます。さらに、民法に必要な基礎も提供してくれます。事実、民法は、あるいは自然法の諸原理から結論を導き出すという考察の面で、あるいは自然法に実際的で法的な性格を付加するという点で、自然法との深いかかわりを持っています。

自然法のおきては、すべての人から明確にそのままの形で読み取られているわけではありません。現在の状況下で罪びとである人間が宗教的∙道徳的真理を「揺るがぬ明確さをもって、何らの誤りなしに、容易に、すべての人が知る」ためには、神の恵みと啓示とが必要です。啓示された法と恵みに対しては、神によって準備された聖霊の働きにふさわしい土台を自然法が提供してくれます。

2 旧約の律法

創造主でありあがない主である神はイスラエルをご自分の民に選び、ご自分の法を啓示して、民をキリストの到来に備えられました。モーセの律法には理性によって自然に把握できる真理が数多く述べられていますが、それらの真理は救いの契約の中で宣言され、確証されています。

旧約の律法は、啓示された法の最初の形です。その道徳的おきては十戒に要約されています。十戒は、神にかたどって造られた人間の召命の土台を据えるものです。神への愛と隣人愛とに背くことを禁じ、その愛にとっては本質的なことを命じています。十戒とは、人間に神からの呼びかけと神への道を示し、人間を悪から守るための、すべての人の良心を照らす光なのです。神は、「人々が心の中で読み取らなかったことを、律法の石板にも書き記しておられます」。

キリスト教伝承によれば、聖なるもの、霊的なもの、よいものであるモーセの律法は、まだ不完全なものです。律法は養育係のようなもので、行わなければならないことを示しはしますが、これを実行するための霊の力や恵みをそれ自体が与えるものではありません。律法は罪を取り除くことができないので、罪に対しては隷属的な立場にある法にすぎません。聖パウロによれば、律法はとくに、人間の心の中で「情欲の法」を形づくる罪を告発し、明らかにする役割を負っています。それにもかかわらず、律法が神の国に向かう歩みの第一の道程であることに変わりはありません。律法は、選ばれたイスラエルの民や各キリスト者を回心と救い主である神への信仰とに備えさせます。また、神のことばとして永続する教えを明らかにするのです。

旧約の律法は、ある種の福音への準備です。「律法は、彼らにとっての教えでもあり、来るべき現実の預言でもありました」。律法は、キリストによって実現される罪からの解放のわざを予告し、前もって告げ知らせるものであり、霊に基づいた生き方を表すための表象や「予型」、象徴などを新約聖書に提供するものなのです。さらに律法は、それを新しい契約や天の国へと方向づける旧約聖書の知恵文学や預言書によって、より完成されたものになっていくのです。
「旧約の体制の下で愛と聖霊の恵みをもって永遠の霊的約束を希求する人々がいましたが、彼らはそのおかげで新約の法と結ばれていました。逆に、新約の下でも、新約の法の完全さからまだ離れている肉的な人々がいます。これらの人々を徳行に促すには、新約の下でも、罰に対する恐れやある種のこの世的な約束などが必要でした。とにかく、旧約の律法が愛を命じていたとはいえ、その律法によっては、ローマの信徒への手紙5章5節で述べられているような『愛をわたしたちの心に注ぐ』聖霊が与えられることはありませんでした」。

3 新しい法、または福音の法

新しい法、または福音の法と呼ばれるものは、自然な形や啓示された形で与えられた神法のこの世における完成した形です。これはキリストのわざであり、とくに山上の説教の中で明らかにされています。これはまた、聖霊のわざでもあり、聖霊によって心の中の愛の法とされるのです。
「わたしがイスラエルの家……と新しい契約を結ぶときが来る。……わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(ヘブライ8∙8,10)。

新しい法は、キリストヘの信仰によって信者に与えられた聖霊の恵みです。この法は愛の実践を伴うもので、わたしたちが行わなければならないことをキリストの山上の説教を用いて教え、それを実行させる恵みを秘跡を通して与えます。
「マタイによる福音に見られるような主が山上で行われた説教を敬謙に洞察力をもって黙想する人は、疑いもなく、この中にキリスト教的生活の完全な憲章を見つけるはずです。……この説教には、キリスト者の生活を導くすべてのおきてが含まれています」。

福音の法は旧約の律法を完成させ、磨き上げ、超越させ、完全なものにします。神の約束を真福八端の中で高め、「天の国」に方向づけることによって、完成させます。福音の法は、信仰をもってこの新しい希望を受け入れたいと願う貧しい人々、謙虚な人々、苦しむ人々、心の清い人々、キリストのために迫害される人々に向けられています。このように、福音の法は神の国の意表をつく道を示すものなのです。

福音の法は律法のおきてを完成させます。キリストの山上の説教は、旧約の律法の道徳的おきてを廃止したり価値を下げたりすることなく、その潜在力を引き出し、新たな要求を明らかにします。つまり、律法が有している神的∙人間的真理の全体を明らかにするのです。新しい外的な行為に関するおきてを付け加えはしませんが、行為の源である心を徹底的に改めさせようとします。人間が浄か不浄かを選ぶのはこの心においてであり、信仰と希望と愛が、そしてこれらとともに他の諸徳が培われるのもこの心においてなのです。こうして福音は、天の御父の完全さに倣い、神の寛大さに倣って敵をゆるし、迫害する者のために祈るという方法を通して、律法を完成に導くのです。

新約の法は施しや祈り、断食などの敬神の行為を、「人に見られたい」望みに逆い、「隠れたところで見ておられる御父」に向けて実践させます。その祈りは、「主の祈り」です。

福音の法には「二つの道」のうちのいずれかを決定的に選択することと、キリストのことばを実践することとが含まれていますが、その内容は次の黄金律にまとめられています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マクイ7∙12)。
福音の法全体は、イエスの新しいおきて、すなわち、イエスがわたしたちを愛されたように互いに愛し合う、というおきてに含まれます。

キリストの山上の説教には、さらに、ローマ12から15章、一コリント12から13章、コロサイ3から4章、エフェソ4から6章などに見られるような使徙たちの教えの道徳的な力テケージスを付け加える必要があります。この教えは、とくに、キリストヘの信仰に由来し、聖霊の特別なたまものである愛によって生かされる諸徳を示すという方法を使って、キリストの教えを使徒たちの権威をもって伝えています。「愛には偽りがあってはなりません。……兄弟愛をもって互いに愛し、……希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(ローマ12∙9-13)。このカテケージスは、良心の問題をキリストとの関係および教会との関係に照らして取り扱うことを教えます32。

新しい法は、愛の法と呼ばれます。それは、おそれによるよりも聖霊が注ぐ愛によって行動させるからです。それはまた、恵みの法とも呼ばれます。信仰と秘跡とに基づいて行動するための恵みの力を授けるからです。さらに、自由の法とも呼ばれます。わたしたちを旧約の律法の儀礼的∙法律的規制から解放し、愛に動かされて自発的に行動させ、「主人が何をしているかを知らない」しもべの状態から、「父から聞いたことをすべて知ら〔され〕た」(ヨハネ15∙15)キリストの友の状態、もしくは嫡子の状態に移させるからです。

新しい法には、おきてそのものだけではなく、福音的勧告も含まれています。神のおきてと福音的勧告とを区別するものとして伝統的に考えられているのは、キリスト教的生活の完成である愛に関する問題です。おきては、愛と両立しないものを退けることを目指すものであり、勧告は、愛に背きはしなくても、愛の成長を妨げうるものを退けることを目的とするものです。

福音的勧告は、飽くことなく自分を与え続けようとする愛の生き生きとした極地を示します。愛の飛躍を表し、わたしたちの機敏な霊的応答を促します。新しい法の完成は、本質的には神と隣人への愛のおきてのうちで達成されるものです。勧告はこの愛へ導くより直接的な道、より容易な手段を示すものであり、各自の召命に従って実践すべきものなのです。 「神は、一人ひとりがすべての勧告を守ることではなく、それぞれの個人、時、機会、能力などに応じて、愛が求めるところに従って、ふさわしいものだけを守ることを望まれるのです。実に、愛こそが、すべての徳、すべてのおきて、すべての勧告の、つまり、すべてのキリスト教的おきてや行動の女王のように、すべてのものに序列と秩序、時機と価値を与えるものなのです」。

要約

聖書によれば、法は、父としての神の訓戒であり、人間に約束された至福に導く道を示し、悪の道を禁じるものです。

法とは、「共同体の責任者によって公布された、理性による共通善への秩序づけです」。

キリストは法の目標です。キリストだけが神の義を教え、お与えになります。

自然法は、創造主にかたどって造られた人間を神の英知と善とにあずからせるものです。自然法は人間の尊厳を表し、その基本的権利と義務との土台を成しています。

自然法は、不変であり、歴史を通じて恒久的なものです。これを表す諸規範は、本質的な点で効力を保ち続けます。自然法は、道徳的規範や民法の作成のためには欠かすことのできない土台となるものです。

旧約の律法は、啓示された法の最初の形です。その道徳的おきては十戒に要約されています。

モーセの律法には、理性によって自然に把握できる真理が数多く含まれています。神がこれらを啓示されたのは、人々がそれを自分の心の中で読み取らなかったからです。

旧約の律法は、ある種の福音への準備です。

新しい法は、キリストヘの信仰によっていただいた聖霊の恵みであり、愛の実践を伴うものです。この法は、とくにキリストの山上の説教の中で明示され、秘跡を通してわたしたちに恵みを授けます。

福音の法は旧約の律法を完成させ、超越させ、完全なものにします。すなわち、律法の約束を天の国の至福によって、そのおきてを行為の源である心を改めさせることによって完成させます。

新しい法は、愛の法、恵みの法、自由の法です。

新しい法には、おきてそのものだけではなく、福音的勧告が含まれています。「教会の聖性は、主が福音の中で弟子たちに守るように教えた多くの勧告によって、特別な方法をもって育てられます」。