第1項 個人と社会

人類の召命とは、神の似姿を示し、御父のひとり子の似姿に変えられることです。この召命は個人的なものです。なぜなら、一人ひとりが神の至福にあずかるよう召されているからです。しかしまた、これは全人類の召命でもあります。

1 人間の召命の共同体的生活

すべての人間は同じ目的、すなわち神ご自身へと招かれています。神の三つのペルソナ間の一致と、人間が相互間に打ち立てなければならない真理と愛における兄弟的交わりとの間には、ある種の類似があります。隣人愛は神に対する愛と切り離すことができません。

人間には社会生活が欠かせません。社会生活は人間にとって何か余分のものではなく、その本性から要求されるものです。他の人と交わることにより、また互いに役立ち合ったり対話したりすることによって、人間はその諸能力を発揮させていきます。こうして、自分の召命にこたえるのです。

社会とは、個々の人間よりも優先される一致の原理によって有機的に結ばれた人間の集合体です。社会は可見的、また精神的な集団として、時の中で存続していきます。過去を受け継ぎ、未来を準備します。杜会を通して、一人ひとりの人間は「相続人」となり、自分の独自性を開花させる「タラントン」を受け、それを実らせなければなりません。当然一人ひとりには、それぞれが属する共同体に役立ち、共通善のために働く指導者たちを尊敬する義務があります。

各共同体はそれぞれの目的によって性格づけられ、特有の規則に従わなければなりませんが、「あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間(ペルソナ)であり、また人間(ペルソナ)でなければなりません。

家族や国家のような共同体は、一般の共同体よりもより直接的に人間の本性に対応するもので、人間にとっては必要なものです。社会生活にできるだけ多くの者を参加させるためには、「一国内と国際間とを問わず、経済、文化、社会、スポーツ、レクリエーション、職業、政治などの目的をもった」団体や組織の創設を奨励すべきです。この「社会化」はまた、個々人の能力を超える目標に到達するために人々を結束させるという自然的性向を表すものでもあります。この社会化が、個人の資質、とくに主導性と責任感とを培い、権利の保証を助けるのです。

社会化にはまた、危険も伴います。国家の過大な干渉が、個人の自由と主導性を妨げることもあります。教会は、補助性の原理と呼ばれる教えを打ち出しました。この原理に従えば、「上位の共同体は下位の共同体からその役割を奪い、その内的生活に干渉すべきではなく、むしろたえず共通善の観点から、必要なときにはこれらを支え、これらの相互の活動を調整するために援助すべきです」。

神はすべての権限をご自分だけに留保することを望まれませんでした。それぞれの被造物に、固有の本性の能力に応じて行使できる役目をお与えになります。社会生活においては、この統治様式を見習わなければなりません。神の世界統治のあり方は人間の自由を大いに尊重するものですが、これは人間共同体を統治する人々の英知の源となるはずのものです。統治者たちは神の摂理の奉仕者として行動すべきです。

補助性の原理はあらゆる形式の集産主義とは反対のもので、国家の干渉については限界を設けます。この原理は個人と社会との間の関係の調和を目指し、真の国際的秩序を打ち建てることを意図したものです。

2 回心と社会

社会は、人間の召命の実現には欠かすことができないものです。その実現のためには、「物質的∙本能的次元を内面的∙精神的次元のもとにおく」という、正しい価値の序列を尊重すべきです。
「人間社会は、まず第一に、とくに精神的現実とみなすべきものです。人間は、社会によって、真理の光明の中で知識を交換するのであり、権利を行使し義務を果たすことができるのであり、共々に励み合いながら精神的善を追求するのであり、美をその正当なすぺての表現において気高く味わい合うのであり、自分自身の最良のものを他の人々にも通じたいという恒久的な心構えを抱くのであり、たえず精神を富まそうと努めるのです。文化活動、経済活動、社会組織、政治的活動と政体、法制、および絶え間なく進展する社会生活の他のすべての表現をつねに活気づけ、方向づけるのです」。

手段を目的に倒置することにより、目的に達する手段にすぎないものを究極目的とみなし、あるいは、個人を一定の目的に達するための単なる手段とみなしてしまうことは、「立法者である神のおきてにかなったキリスト教的生き方を困難にし、ほとんど不可能にする」不正義の構造を生み出します。

だから、個人の精神的∙倫理的能力と内的回心の絶え間ない要求とに訴えて、本当に個人に奉仕するような社会的変革を実現する必要があります。内的回心のためにもっとも大切にすべきことは、罪を犯させるような制度や生活条件があれば、善を妨げることなくかえって助長するという正義の規範に合わせるために、その適切な改善を止めさせることなく、かえって義務づけることなのです。

神の恵みに助けられなければ、人間は「悪に屈する憶病さと、悪と闘っていると錯覚しているだけで実際は事態を悪化させているだけの暴力との間にある、狭い道を見いだすこと」ができません。これは愛徳の道、すなわち神と隣人への愛の道です。愛は、もっとも重要な社会的おきてです。愛は他人とその権利とを尊重します。愛は正義の実践を要求し、愛だけがわたしたちにそれを実践できる力を与えてくれます。愛は自分をささげる生き方を促します。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つ」(ルカ17∙33)のです。

要約

神の三つのペルソナ閭の一致と、人間が相互間に打ち立てなければならない兄弟的交わりとの間には、ある種の類似があります。

人間はその本性に従って成長するために、社会生活を必要とします。家族や国家のような共同体は、一般の共同体よりもより直接的に人間の本性に対応します。

「あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間(ペルソナ)であり、また人間(ペルソナ)でなければなりません」。

自主的な団体や組織への広範囲な参加が奨励されなければなりません。

補助性の原理に従えば、国家も、より広いいかなる社会も、個人や中間団体の主導性や責任に取って代わるべきではありません。

社会は諸徳の実践を助長すべきものであって、これを妨げてはなりません。正しい価値の序列が大切にされるべきです。

罪によって社会環境が悪化されたところでは、内的回心と神の恵みとに諦えなければなりません。愛は正しい改革へと駆り立てます。社会問題の解決ま福音をおいて他にはありません。