キリストに倣いて 1巻 テキスト+音読

1・キリストにならって、世のはかないものに心をかたむけないこと

「私にしたがう者は闇をあるかない」」(ヨハネ8・12)と主はおおせられる。これはキリストの御言葉である。私たちが、まことの光に照らされ、心のくらやみをぬけ出したいなら、そのご生涯と行いにならわなければならない。だから、私たちの第一のつとめは、イエス・キリストのご生活を黙想することである。キリストの教えは、全人類の教えに勝る。そして、その教えの精神をくみとれば、そこにかくれたマンナを見出すだろう。ところが、人はキリストの精神から遠ざかっているので、しばしば福音のことばを聞いても敬虔の念を起こさない。キリストの御言葉を十分理解して、それを味わおうとする人は、自分の全生涯を、キリストに一致させるように努めなければならない。あなたに謙遜の心がなく、そのため、三位一体に好まれないのなら、三位一体について議論して、何の役に立つだろうか。人を清い者、正しい者とするのは、深い言葉ではなく、徳にみちた生活であり、それが神の愛を呼ぶのである。私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい。もしあなたが、全聖書と全哲学とを知ったとしても、神への愛と神の恵みとを持たなければ、それが何になるだろう。神を愛し、神に奉仕する以外は、「むなしいことのむなしさ、すべてはむなしい」。世間を軽んじて、天の国に向かうことこそ、最高の知恵である。だから、はかない富を求め、それにのぞみをかけることは、むなしいことである。名誉を望み、高い地位を望むことも、むなしいことである。肉の欲に従い、将来重い罰を受けるにちがいないことを望むのも、またむなしいことである。長い寿命を望むばかりで、よく生きることを心がけないのも、またむなしいことである。今の生活だけに気をうばわれ、未来のことに備えないのも、むなしいことである。ただちに過ぎ行くものを愛し、永遠の喜びのある所に、望みを向けないのも、むなしいことである。「目は見るだけで満足せず、耳は聞くだけで満足しない」という、ことわざをしばしば思い出すがよい。あなたは、地上のものへの執着から、心をたち切り、見えないものに心を移すように努めよ。実に、肉の声に従う者は、良心を汚し、神の恵みを失うのである。

2・へりくだる

もとより、人は知ることを望んでいる。しかし、神へのおそれがなければ、学問、知識が何の役に立とうか。主に仕える素朴な農夫は、自分の救いをいいかげんにして、天体の運行をながめる高慢な学者より、たしかにすぐれている。自分自身をよく知っている人は、自分のみじめさを考え、人の賞賛を喜ばない。私がこの世にある全てのことを知っていても、愛徳をもたないなら、行いによって私を裁く神の御前に立つとき、それがどうして、私の役に立つだろう。むやみに物を知りたい望みをおさえよ。それはしばしば、あなたをぼんやりさせ、あなたをだますからである。知恵ある人は、その知識を人に知られ、知恵者と呼ばれることに満足する。知っても霊魂の役に立たない事柄は、相当多い。自分の救霊に役立つこと以外の心配する者は、非常におろかである。言葉は多くても霊魂を満足させないが、よい生活は、心をうるをし、清らかな良心は、神への信頼を起こさせる。あなたがどんなに多く、どんなに深く知っても、あなたの聖徳が、それに伴わなければ、ますます厳しく、裁かれるだろう。だから、あなたのおさめている芸術や学問で思い上がってはいけない。むしろあなたに与えられた知識の責任を思え。あなたが多くのことを知り、それを理解したと思っても、まだあなたの知らないことのほうが、さらに多いと知り、むしろあなたの無知を認めよ。あなたよりも優れている者は多いのに、なぜあなたは、他人より上であると思おうとするのか。何かを知り、何かを学んで、それを役にたてようと思うなら、人に知られないこと、無視されることを喜べ。深遠な有益な知識とは、本当に自分を知り、自分を無だと考えることに他ならない。自分を見下し、他人を尊重することが、知恵であり、徳行である。もし他人が、公然の罪とか、重大な過失をおかしているのを見ても、あなたはその人より自分の方が善良だと思ってはならない。あなたが、いつまで善に留まれるかどうかは、わからないからである。私たちは皆弱い、しかし、あなたよりも、弱い人間はないと思うがよい。

3・真理を知る

過ぎ去ることや、言葉ではなく、真理自身から、ありのままに、教えを受ける者は幸せである。私たちの理性と感覚とは、しばしば自分をあざむき、またその限られた能力をもってしては、しばしばあやまる。知らなかったといえば、自分の審判の日にさえ非難されないような、ひそかな、わかりにくいことについて、議論してもそれが何の役に立つだろう。利益になること、必要なことをおろそかにして、珍しいこと、害になることを、好んで扱うのは、狂気のさたである。それは目を持ちながら見ないに等しい(エレミア5・21)。哲学者の絶えざる論争が、私たちの何のかかわりがあろう。永遠の御言葉の声を聞くものは、人間の学説を必要としない。その唯一の御言葉からすべてが出る。そして、すべては、御言葉を私たちに語りかけている。それが私たちの内で語られる「本源」であって、それがなければ、正しく理解することも、判断することも、できないのである。すべてにおいて、ただ神だけを見、すべてを神に帰し、すべてを神において見る者は、心が定まり、安らかに神に留まることができる。「ああ、真理の神よ、絶えざる愛において私をあなたと一つにしてください。読むものも、聞くことも、私を疲れさせます。ただ私の望むこと、渇望することは、あなたのなかにあります。あなたのみ前にあっては、知恵者は沈黙せよ、どんな被造物も口を閉じよ、あなただけ私にお話しください」。自分のうちに心をひそめ、謙遜な心で生きれば生きるほど、人間は労せずして、多くのすぐれたことを理解する。天から理性の光を受けるからである。清い単純なしっかりした心の人は、山のような仕事にも、心を散らすことがない。なぜなら、すべてを神の光栄のために行い、自分を忘れ、自分の利益になることを求めないからである。あなたの心の、抑えきれない欲望ほど、あなた自身を束縛し、悩ますものはない。善良な信心深い人は、外で行うことを、まず心のなかで整える。そうすると、その行いは、悪い欲に流されず、むしろ正しい理性の導きのままに、その人の望みを動かすのである。自分に勝とうとする人ほど、おそろしい戦いに、耐えている人はないだろう。しかもそれが、私たちの第一のつとめである。つまり、自分に勝ち、日々さらに強くなり、そしていくらかでも徳にすすむことである。この世では、どんな完全なことにも、いくらか不完全なものが混じっている。探求にも、いくらかの暗さがあるのをまぬがれない。謙虚に自分自身を知ることは、学問の深い探求よりも、神に至る安全な道である。しかし、学問や知識も、おろそかにしてはならない。それらは、そのものとして、よいことであり、神の御旨によることだからである。しかし正しい良心と徳のある生活は、つねにそれより尊いことだ。多くの人はよく生きることよりも、知識を積むことに努めるので、そのため、しばしば過ちを生じ、せっかくの知識から、全くか、あるいはほとんど効果を得ない。議論するほどの熱心さで、悪を絶ち、善をつもうとするなら、これほどの社会悪、これほどの修道生活のゆるみを、見ることはなかったであろう。きっと審判の日には、私たちが何を読んだかよりも、何を行ったかを尋ねられるであろう。また、どんなうまく話したかではなく、どんな信仰を持って生きたかを問われるであろう。あなたが知っていたあの学者、あの先生たちは、生きていたときは学識をうたわれていたが、今はどこにいるだろうか。彼らの地位には、他の人がすわり、そしておそらく彼らのことを思い出すこともないだろう。生きている間には、彼らも、ひとかどの人物に思われていたが、今はもう、彼らのことを語るものさえいない。この世の栄光は、なんと早く影を消すことだろう。彼らの生活が、その学識にふさわしいものであったなら、彼らの読書も、研究も、役にたったであろう。神に奉仕することをおろそかにして、むなしい学問を追ったために、どんな多くの人々が滅びただろう。謙虚になるよりも、偉大なものになろうとして、妄想を追い、そしてふみ迷ったのだ。大きな愛を持ち、自分を小さいものだと考え、最高の名誉さえも、むなしいものだと思う人こそ、本当に偉大な人である。キリストを受けるために、地上のものをみな「土くれ」(フィリピ3・8)だと思う人こそ、本当に賢明な人である。自分の意志を捨てて、神の御旨を行う人こそ、本当の知恵者である。

4・慎重に行う

どんな言葉も、たやすく信じてはならない。また衝動に従ってはならない。むしろ慎重に、思慮深く、神の御旨を見ながら、ことを判断しなければならない。ああ、悲しいことに、私たちは実に弱いものだ、隣人についても、良いことより悪いことの方をはるかに信じるし、また話しがちである。しかし完徳を目指す人は、他人の話を容易に信じ込まない。人間がどれほど悪に傾いていて、言葉を誤りやすい弱いものであるかを、知っているからである。あわてて事を行わず、また自分の意見を頑固に押し通そうとしないのは賢明なことである。他人の言葉をなんでも信じ込まず、聞いたり、信じたりしたことを、すぐ、人の耳にもらさないことも、すぐれた知恵である。知恵もあり、良心も正しい人と、相談せよ、そして、あなた自身の意見に従うより、あなたより学問のある人に、教えてもらうように努めよ。よい生活は、神による知恵と、敬虔とを、人にさずけるものである。心から謙虚になり、神に服従すればするほど、人は万事において知恵を深め、そして落ち着いてくる。

5・聖書を読む

私たちは、聖書のなかには美しい言葉ではなく、真理を探さねばならない。聖書は、記されたその精神をもって、読まなければならない。聖書には、文章の美しさよりも、むしろ霊魂の利益を探さねばならない。飾りのない信心書も、すぐれた神秘な本を読むのと同様に、読まねばならない。作者の名前や、文学的な価値を問題にせず、ただ真理への愛に動かされて読まねばならない。誰がそれを書いたかを問題とせず、何を語っているかに心をとめよ。人間は過ぎ去る。しかし、「主の真理は、永遠に留まる」(詩編百十六の二)。神はあらゆる人を使って、あらゆる方法で、私たちに話しかける。聖書を読むにあたって、単に読み過ごしてよいところを、深く探って議論しようとするから、好奇心に妨げられる。そこから役にたつものを、受けようと思えば、単純に、へりくだり、信仰をもって読み、学者になろうと思うな。清い生活を行う人に、すすんでたずね、黙って彼らの言葉を聞き、老人たちのいましめも退けてはならない。彼らが語る言葉には、それぞれ根拠があるからである。 

6・きりのない欲望

人は、限りなく何かを望むと、すぐに心が乱される。高慢な人や、けちな人は、やすらぎを知らない。心の貧しい謙遜な人は、それに反して、平和のうちに生きている。だが自分の欲望の声を、まだ消しきれない人は、しばしば誘惑を受け、小さなことに負けてしまう。心が弱く、肉の重さに引きずられ、感覚的なことに傾きやすい人は、世俗的な執着をぬけきるのが、むずかしいものである。だから、それをぬき出ようとすると、ゆううつになり、何か反対を受けると、すぐに怒る。しかも、望んだものを手に入れると、良心の呵責にせめたてられる。その欲は、望んでいた平和を与えてくれないからである。つまり心の平和は、欲望に従うことでなく、それに抵抗することにある。肉の声に聞く人、外のことにだけ従って生きている人には、平和がなく、霊的なことに従う熱心な人にだけ、平和がある。

7・空しい自負心とうぬぼれとを避ける

この世のものに依り頼む人は、愚かである。イエス・キリストを愛するために、他人に奉仕することや、またこの世で、貧しいものだと思われることを、恥じる必要はない。自分に依り頼まず、神に依り頼もう。あなたが、できるだけのことをすれば、神はあなたの良い望みを、助けてくださる。あなたの知識も、他人の知恵も頼みにせず、むしろ、謙虚な人々を助け、うぬぼれる人々を退ける神の恵みに頼みをかけよ。財産を持ち、有力な友人を持っていても、それを誇りにするな。むしろ、すべてのものを与え、その上、ご自身を与えようと望んでおられる神だけを誇りとせよ。体格が良くても、顔が美しくても、うぬぼれてはならない。それらは、ちょっとしたわずらいのために、醜く変わってしまう。あなたに手腕があり、才能があっても、慢心してはならない。慢心すれば、あなたがもっている自然のたまものを、与えてくださった神の怒りを買うだろう。他人よりも自分の方がよいと思うな。そう思えば、人間の心の底を知る神のみ前に立つとき、誰よりも悪いものと言われるだろう。自分の善行にうぬぼれてはならない。神のさばきは、人のさばきと違うから、人のほめていることを非難されることがよくある。何かよいところを、自分がもっているなら、他人は自分よりも、すぐれたところを持っていると思おう。それはさらに謙虚になるためである。自分は誰よりも劣っていると思えば、あなたは損を受けないであろう。しかし、自分は誰かにまさっていると思うと、大いに損を受けるだろう。謙虚な人には、絶えず平和があるが、慢心する人の心は、怒りとねたみで、しばしば沸き立つものである。

8・なれ親しむな

「誰にでも心をうちあけるな」(集会8・22)、ただ、神へのおそれと、知識とを、合わせ持っている人の意見を聞くがよい。あなたよりも若い人や、かかわりのない人とつきあうことは慎め。金持ちにへつらうな。権力者の前に出たがるな。謙虚な人、単純な人、清い人、敬虔な人とつきあい、神に心をあげるために役立つことを、話し合え。どんな婦人とも、親しくするな、よい婦人のためには、差別なく神に祈れ。神とその天使たちと親しむことだけを望み、そして人に知られることを避けよ。誰にでも、愛徳をもたねばならないが、しかし慣れ親しむ必要はない。知らない人の評判を聞いて、離れている間は尊敬しているが、いざ会ってみると、不快の念をうけることがよくある。また私との付き合いが、相手にも気に入っていると思い込んでいるのに、こちらの態度がよくないので、相手の重荷になっていることもよくある。

9・従順と服従

目上に素直に従って生活し、自分の思いのままに動かないことは、非常にすぐれたことである。他人の下についていることは、自分が支配することより安全である。多くの人は、愛のためというより、やむを得ず他人に従っている。そこで、こんな人々は、服従を重荷に感じて、不平をこぼしがちである。彼らが、心から神への愛のために服従しないなら、心の自由は得られないだろう。あなたは、どこに行っても、目上への謙虚な服従のうちにしか、平和を見出せないだろう。もっともよい所を見つけようと思って、場所を変え、見事に裏切られる人が実に多い。人は自分の考えに甘えがちであり、自分と同じように考える人のほうに傾くものである。しかし神がいっしょにおられるなら、私たちは、平和を保つために、ときどき、自分の意見を捨てなければならない。すべてを完全に知りつくすほどの知恵があるものはどこにいるだろうか?だからあなたは、自分の意見にあまりこだわらず、他人の意見を喜んで聞くがよい。あなたの意見のほうがよくても、それを神のために捨てて、他人の意見に従うなら、あなたは、それだけ霊的効果を受けるであろう。他人の忠告を受けることは、他人に忠告するよりも、安全だとよく言われる。自分の意見も、他人と同じようによい場合がある。しかし道理と理由があるのに他人の意見に従わないのは、高慢と強情のしるしである。

10・無駄な言葉をさける

できるだけ、他人との騒々しい付き合いをやめよう。よい意向でしても、あまり世間の問題にたずさわるのは、心を騒がせるもとである。私たちは、すぐ、世間の虚栄に汚されて、その奴隷になりがちである。私はあれこれのとき黙っていればよかった、あの人と付き合わなければよかった、と思うことがある。良心を汚すことなしに、口を閉じることは、滅多にないのに、なぜ私たちは、こんなにも話したり交際したりするのだろうか。私たちが、こんなに喜んで話し合うのは、その付き合いによって、互いに慰めあい、日々のわずらいに疲れた心を、癒したいからである。そして私たちは、自分の好きなこと、望んでいること、またその望みにそわないことについて、好んで、話したり、考えたりするものである。しかし残念ながら、求めても無駄だった、効果がなかった、と感じることが多い。外からの慰めは、神からの内部的ななぐさめを、少なからず損なうものである。だから、時を浪費しないように、警戒して、祈らねばならなぃ。話すゆるしがでた場合や、話すほうがよい場合には、霊魂に役立つことを、話すがよい。悪い習慣と、完徳への進歩を怠ることが、私たちをおしゃべりに引き込む理由の一つである。それに引き換え、霊的なことについて、敬虔な話し合いをすることは、私たちの霊的進歩に役立つ。同じ心で、信心を行おうとする人々との付き合いに恵まれる場合は、特にそうである。 

11・平和と、完徳に進む熱心とをえる方法

私たちが、他人の言葉や行い、また自分に関わりないことに、気をつかわないなら、私たちは深い平和を知るだろう。他人の問題に関わり合い、外からの気晴らしを求め、自分のうちに心をひそめることが、ごくまれか、あるいはごく少ない人が、どうして、長く平和に生きられよう。単純な人々は、幸いである。彼らは、豊かに平和を受けるからである。どうして聖人たちは、あれほど完全になり、あれほど、観想にふけることができたのだろうか。それは、彼らが、地上的な望みを、全く抑えようと努めたからである。そうしたから、彼らは、全ての心をあげて、神に一致し、自分の内心のことに、自由にたずさわれるようになった。私たちは、自分の欲望にしばられすぎ、世俗のはかないことに、気を使いすぎる。私たちは、一つの悪にさえ、なかなか勝てない。そして、日々完徳に進もうという確たる決心がないので、いつも冷たく生ぬるい。私たちが、自分自身を全く脱ぎ捨て、内部的などんな束縛も切り捨てるなら、そのときには、神のこともいくらか理解でき、神の観想を味わうこともできるだろう。唯一の最大の妨げは、欲望と世俗的な望みから抜け切れず、聖人の完全な道に入ろうと、努力しないことである。ちょっとした障害にあうと、私たちはすぐに落胆し、人間からの慰めを求めてしまう。勇士のように戦おうと努力すれば、天から、主の助けがきっと来る。私たちの勝利を得させるために、戦いの機会を与えたお方は、その恵みに依り頼んで戦う者を、助けようと常に待ち構えておられる。私たちが、宗教上の義務を、表面だけ守って、しかもそこから利益を受けようと思うなら、その信心は長続きしないだろう。悪の根元に斧を打ちこもう、そうすれば欲望から解き放たれ、完全な心の平和を味わえよう。一年に、一つずつの悪でも断ち切れたら、すみやかに完徳の道を進むだろう。それなのに、何年もの修道生活をへた今よりも、改心した当時のほうが、まだ清くて善良だったと気づく。私たちの熱心と進歩とは、毎日増やさなければならないはずだが、かつての熱心さを、いくぶんでもまだ保っているのさえも、大したことのように思われる。自分自身に対して、始めに逆らえば、後には、どんなこともやさしく、喜ばしく行うことができる。悪い習慣を断つのは、つらいことだが、自分自身の意志に、絶えず逆らうのは、それよりさらにつらいことである。しかし、小さな困難に勝てなくて、それよりも困難なことにどうして勝てよう。あなたの欠点に、はじめから逆らい、手がつけられないようになる前に、悪い習慣を、早く除き、失くしなさい。生活で自分でよく導けば、どれほど平和があり、また人々を、どんなに喜ばせるかをあなたが知っていたら、ああ、あなたは、霊的完徳に進むために、もっともっと一心になったはずだと、私は思う。

12・患難の利益

時々、苦しみや患難にあうことは、私たちにとって良いことである。そのときになると、自分がこの世をさすらう人間であり、この世のどんなものも頼りにならないと、しみじみ反省する。時々、人から反対され、よい意向や行為が誤解され、または充分に理解されないのも、よいことである。それは、私たちを謙虚にし、虚栄心から守る役に立つからである。私たちは、人から軽蔑され、悪評を受けるとき、良心の内部的な証人として、もっと熱心に、神を求めるものだ。人は、人間から慰めを求める必要を感じないほど、強く神のうちに根を張らねばならない。善意の人は、苦しめられ、誘惑され、よこしまな考えに悩まされるとき、まず神に依り頼む必要を痛感し、神の助けなくしては、どんな善もできないのだと悟る。その時こそ、悲しみ、嘆き、いま忍びつつある不幸を思って祈る。またその時、もはや、これ以上生きながらえるのを、つらいことだと感じ(コリント後1・8)、肉体の束縛を断ち切って、キリストとともに生きるために(フィリピ1・23)死がくることを待ち望む。またその時、完全な安らぎと、充実した平和は、この世にないことを、はっきりと知るのである。 

13・誘惑に抵抗する

この世に生きている限り、私たちはいつも、患難と誘惑とに、つきまとわれるだろう。だから、ヨブ記には「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」(7・1)と記されている。どんな人も、自分につきまとう誘惑に気をつけ、眠らずに「だれかを食い尽くそうと探し回っている」(1ペトロ5・8)悪魔の不意打ちを受けないように「祈りをもって」(1ペトロ4・7)警戒しなければならない。少しも誘惑を受けないほどの完全な清い人はいない。私たちは、誘惑を全く逃れることはできない。誘惑はわずらわしく、また厄介なものであるが、しばしば人の役に立つ。それによって、その人は、謙虚になり、清められ、教えられる。全ての聖人は、誘惑と患難とを通して完徳に達し、そして、誘惑に抵抗しなかった人々は、悪に落ちて滅びてしまった。誘惑や患難を少しも受けないほど、清い修道会もなければ、離れた場所もない。生きている限り、完全に誘惑をまぬがれることはありえない。私たちは罪のなかに生まれ、罪の源をうちに持っているからである。一つの誘惑、あるいは試練がすぎると、他のもう一つがくる。私たちは、いつも何かに苦しめられねばならない。私たちは、元の幸福を失っているからである。人々は誘惑から逃れようとするが、かえってそこに深くはまってしまう。逃げるだけで、勝てるとは限らない。勇敢に耐え忍び、心からへりくだることによって、常に敵よりも強者の位置に立つ必要がある。根元を引き抜かずに、外だけ良くなろうとすると、徳に進歩することが少なく、すぐまた、もっと強い誘惑を、前よりも激しく感じるだろう。自分の力だけに頼んで、かたくなに戦わず、神の助けにより頼み、不断の忍耐と根気とをもって、徐々に行えば、もっと容易に誘惑に勝てるだろう。誘惑にあうときは、しばしば良い人の意見を求めよ。そして、誘惑されている人につらく当たらず、むしろあなた自身がしてもらいたいような慰めを与えよ。誘惑のもとは、私たちの心の移り気なことと、神にたいする信頼の不足とにある。舵のない船が、あちこち波にもてあそばれるように、心が弱く、決心を変えやすい人は、いろいろな誘惑に悩まされる。「火は鉄を試す」(集会書・31・31)、誘惑は義人を試す。私たちは、自分の力量をよく知らないものだが、誘惑が、私たちの真価を知らせてくれる。だから、誘惑がはじまるときは、特に警戒しなければいけない。敵が心の門に入るのを許さず、敵が門をたたけば、すぐ出て行って、門の外に押し出すようにすれば、容易に敵に勝つことができる。ある詩人もこう言っている、「病気には、はじめに抵抗せよ、ぐずぐずして病気の根がはびこってしまえば、薬ではもう手遅れだ」と。禁じられていることが、頭に浮かんでから、次に想像力が働き、それから感覚が快楽を感じ、情欲となり、ついに承諾に終わる。はじめに抵抗しないと、悪い敵は、徐々にすべてを占領してしまう。抵抗を怠れば怠るほど、その人は日々弱くなり、敵はそれにつれて強くなる。ある人は、改心のはじめに、強い誘惑を感じ、またある人は、改心を成し遂げようとする間際に、誘惑に会い、またある人は、生涯にわたり、それに悩まされる。また、人間の身分と功徳をはかり、選ばれた者の救いのために、すべてを計らう神の摂理の知恵と正義とにより、なかには、ごく軽い誘惑しか感じない人々もある。だから私たちは誘惑を受けるとき、落胆してはならない。試練のときにお助けくださいと、一心に神にこい願わねばならない。聖パウロもそう教えている(1コリント10・13)。「神は誘惑と同時に、それに勝つ助力をくださる」ことは確実である。試練と誘惑のとき、心を神の御旨のまえに、へりくだらせよう。神は謙虚なものを救い、高めてくださるからである(1ペトロ5・6、詩編33・19)。完徳の道をどれほど進んだかは、誘惑と試練のときにわかる。そのとき、その人の功徳があらわれ、徳がますます光ってくる。試練にあっていないとき、熱心に信心生活をしても、それは大したことではない。しかし試練のとき、力づよく耐え忍べば、その人は大いに徳に進む望みがある。ある人は、大きな誘惑に勝ったのに、日々の小さな試練に負ける。それは、小さなことに負けるものが、大きなことに勝ったとうぬぼれないように、へりくだらせるためである。

14・邪推をさける

他人を裁かず、自分をかえりみよ。他人を裁くのは、無駄なことで、誤ることが多く、罪におちいることも多い。しかし自分自身を裁くのは、いつもためになることである。私たちは、好悪の感情によって、事を決めがちである。自愛心に目がくらんで、正しく裁く自由を失う。神が、いつも私たちの望みの唯一の対象であれば、自分の考えに他人が反対しても、それほど心を乱されることはないだろう。しかし往々、私たちを左右するものが、内に隠れていたり、外から来たりすることがある。ひそかに、意識せずに、自分のためばかりを計らって事を行っている人が多い。この人々は、事が思いのままにすすんでいる間は、平和に生きているように見える。しかし思いどおりにいかなくなると、すぐうろたえ、悲しむ。友人、同国人、修道者、信仰者の間でも、よく仲たがいが生じるのは、その感情と意見の相違のためである。長い習慣を捨てることは、なかなか難しい。まただれも、自分と違う意見を強いられることを好まない。もしあなたが、どんな人も承諾しなければならないイエス・キリストの教えよりも、あなた自身の考えと手腕とに、かたくなに重きを置くと、あなたは、ごくまれにしか、また長い年月の後しか、霊の光に照らされないだろう。神は、私たちが完全に服従し、神に対する愛のために人間的な考え方を越えることを、望んでおられる。

15・愛徳のために行う

どんなことにしろ、どんな人間的な愛のためにしろ、悪をすることは許されない。しかし、私たちの助けを待っている人のために、時には寛容な心をもって、善業を中止することもあれば、また、それ以上の善業に変えることもある。そのために、先の善業が失われるのではなく、よりすぐれた善業に変えられることになる。愛徳がなければ、外部的などんな善業も、役に立たないが、愛徳のためにすることは、どんなにとるに足らないことも、大いに効果があるものとなる。神は、行為そのものよりも、意向のいかんを重視される。多くを愛する人の行いは、豊かに実る。良く行う人は、多くを行う人である。自分のためよりも、団体に奉仕する人は、良く行う人である。また、何かをする場合、愛徳から出ているように見えても、邪欲から出ている場合がしばしばある。自分の性質、自分の意志、報酬または安楽への執着が、人間の行為に入り込んでいないことは、滅多にないものである。ところが、完全な愛徳の人は、どんな場合にも、自分自身のことを求めず、あらゆる場合に、神の光栄が現れることだけを望んでいる。その人は、だれも妬もうとしない。彼は、自分一人の楽しみを求めない。むしろ、どんな楽しみよりも、神において幸せになることを望む。その人は、どんな善も人間に帰せず、すべてを神に帰する。泉のように、すべては神から湧き出すものである。聖人たちは、目的を神に置いて、完全な平和を味わっている。まことの愛徳の炎を、一つでも持っている人は、地上のどんなことも、はかないと悟るだろう。

16・他人の欠点を忍ぶ

神の御旨があるまで、人は、自分と他人との欠点を忍ばねばならない。それは、あなたを試し、また寛容にするための、よい方法で、それがなければ、私たちの功徳は、大して価値はないと考えよ。またその場合には、神の助けによって、あなたが、それを快く忍べるよう、よく祈らねばならない。ある人に、再度注意しても、反省しないなら、口論するな。悪を善に変えることを知る神に、すべてを任せよ。それは、神のしもべのうちに、その御旨と光栄とが現されるためである。他人の欠点や短所を、忍耐強く忍ぶように努めよ。あなたにも、他人に忍ばせねばならない多くの欠点がある。自分で自分を、思いのままにすることさえできないのに、どうして、他人をあなたの思いのままにすることが出来よう。私たちは、他人に完全であってもらいたいが、自分自身の欠点を直そうとはしない。私たちは、他人が厳しくいましめられることを望むが、しかし自分がいましめられることは望まない。他人が十分自由にふるまえることは悲しむが、しかし自分の要求が拒否されることは望まない。多くの規則によって、他人が束縛されることは望むが、しかし自分の自由が束縛されることは忍べない。それは、他人を自分と同じはかりで計ることが、いかに難しいかを証明する。皆が完徳に達したら、神への愛のために、他人を耐え忍ぶことは無くなるだろう。しかし神は、「互いに重荷を担う」(ガリテヤ6・2)ことを、私たちに習わせるために、そうお定めになった。だれ一人として、欠点のない人、重荷のない人、自分に満足している人、自分の知識が十分であると感じている人はいない。私たちは、互いに忍びあい、慰めあい、助けあい、教えあい、戒めあわねばならない。従って、人の徳は、逆境のときに一層よくわかる。徳を行う機会は、人を弱気にしない。むしろそれは、その人の人となりを現す契機となる。

17・修道生活

他人と平和に仲良く生活したいなら、自分の心を抑えることを習わねばならない。修道院や、修道会のなかで、不平もなく、死ぬまで忠実に生活することは、決して小さいことではない。そこでよい生活をおくり、やすらかに、最後の目を閉じる人は幸せである。もしあなたが修道院で、しなければならないことを果たし、徳の進歩を目指したいと思うなら、自分はこのなかに亡命した旅人であると考えよ。あなたが、まことの修道生活をしたいなら、キリストへの愛のために、愚かな者にならねばならない。修道生活と剃髪とは、大して役に立たない。まことの修道者を作るのは生活を根本的に改めることと、邪欲を抑えることである。そのなかで、神と自分の救い以外の何物かを求めようとすれば、患難と苦しみ以外の何物も、見出せないだろう。また、皆の人のしんがりにつき、皆に服従しようと努めない人は、長く平和に生活することは出来ないだろう。あなたが、修道生活に入ったのは、命令するためではなく、奉仕するためである。あなたは、怠けて、おしゃべりをするためにではなく、苦しみ、そして働くために、召されたのだ。そこでは、かまの中の黄金(集会書27・6)のように、人間が試される。神への愛のために、心の底からへりくだろう、と望まない人以外は、だれ一人、そこで、生活し続けることが出来ない。

18・教父たちの模範

修道生活の完徳を輝かした教父たちの模範を考えよ。それに引き換え、私たちのすることが、どんなに小さな、無に等しい程のものであるかを思え。彼らに比較すると、私たちは何者だろう。聖人たちとキリストの友人たちは、飢えと渇き、寒さとうす着、働きと労苦、徹夜と断食、祈りと黙想、迫害と侮辱のうちで、主に仕えた。使徒、殉教者、諸聖者、童貞者、またキリストのあとをふんだ人々は、どれほどの患難を忍んだことだろう。彼らは、霊魂を永遠に保とうとして、この世において、それを憎んだ。教父たちは、砂漠において、どれほど、厳しい犠牲の生活を送っただろう。どれほど長い誘惑に耐え、悪魔に悩まされ、どれほど、熱心な不断の祈りを神に捧げたことだろう。厳しい断食を行い、霊的な完徳にたいして、どれほどの熱意をもっていたことだろう。邪欲を抑えるために、はげしく戦い、神の御前に、清く正しい意向を持っていた。昼は働き、夜は長い祈りのうちに過ごし、働いているときも、内的な祈りを決してやめなかった。彼らは、時間を有効に使った。神と過ごす時間は、どれほどあっても短いと思い、観想の甘美さを味わって、身体を養う必要さえ忘れた。彼らは、財産、地位、名誉、友人、親戚などを捨て、世間のことがらは、一切望まず、せいぜい、生活に必要なものだけをとり、必要なためとはいえ、体のことも考えねばならないことを嘆いた。彼らは、地上のものには貧しかったが、しかし神の恵みと徳に富んでいた。物質生活はいつも欠乏していたが、内部では神の慰めと恵みとで養われていた。世間からは遠い存在であったが、しかし神には近く、神の親しい友であった。自分を無価値なものと考え、自分はこの世では卑しい人間だと思っていたが、しかし神の御前には、愛された尊いものだった。彼らは、まことの謙遜によって、単純に服従の生活をし、愛と忍耐との道を歩んだ。そのため、日々徳に前進し、神の御前に大きな功徳を積むのだった。彼らは、全ての修道者の模範とされている。私たちは、数多い冷淡な人々のてつを踏んで、精神をゆるめるよりも、聖人たちの模範によって、完徳に励まされねばならない。修道会創立当時の修道者の熱心は、どれほどだったろう。祈る時はどれほど敬虔だっただろう。徳において、どれほど進歩を目指したことだろう。正しい規律を守り、創立者の指導に従い、彼を尊敬し、従順だった。今も残されている記録は、勇ましく戦って、世間を踏みにじった人々が、まことに完全な聖人だったことを物語っている。ところが今では、会憲を破らない人とか、自分ですすんで選んだ規律を忍耐する人が、偉大な人として数えられる有様である。ああ、私たちは何と生ぬるく、なまけものの人間だろうか、私たちは、こんなにも早く、当初の熱心を失ったのだろうか。心が疲れ、かつての熱がさめつつあるので、生きることさえ重荷に感じるのではないか。ああ、しばしば聖い人々の模範を見たあなたのうちに、徳に進もうとする望みが、消え失せることのないように。

19・よい修道者の修行

よい修道者の生活は、すべてに徳が及んでいなければならない。内部も、外部に見えるのと同じでなければならない。いやむしろ、内部の完徳のほうが、外部に見える以上に、優れたものでなければならない。私たちを見て、裁くのは神である。私たちは、どんなところにおいても、神を尊び、天使のように清く、神の御前を歩まねばならない。毎日、決心を新たにし、今日を改心の最初の日として、ふるい立たねばならない。そのためには、こう祈るとよい。「神なる主よ、よい決心と、あなたへの聖い奉仕において、私を助けてください。今日までは何一つできませんでしたが、今日からは、完徳に向けて、歩ませてください」。徳の進歩は、私たちの決心いかんにかかっている。真に完徳に進もうとする人は、不断に努めなければならない。固い決心を立てている者さえ怠りがちなのに、ごくまれに、しかも、弱い決心しか立てない者はどうだろう。決心を怠るには、いろいろの理由があるが、修行を、ほんの少し怠ってさえも、その損害を受けずにいられない。正しい人は、自分の好悪ではなく、神の恵みに基づいて、決心を立て、何事も始めるときにも、常に神に信頼する。人間は、さまざまなことを企てるが、計らうのは神である。また人がどんな道をたどるかは、その人の自由になることではない。ときに信心のため、または他人のためを思って、平常の修行を中止することがある。しかしその場合、後でそれを補うのは困難ではない。しかし倦怠とか、怠慢のために、修行をやめることがあるとそれは小さからぬ罪であり、遠からずその害を感じるだろう。できるだけ、そんなことがないように努めよう。しかし、私たちは、いくら努力しても、過失をおかしがちである。特に自分を完徳の道から遠ざける欠点について、いつも、何かはっきりした決心を立てよう。また自分の行いと考えとを、よく反省し、導かなければならない。この二つとも、私たちの霊的進歩にかかわりがある。絶えず潜心できないなら、せめて時々、少なくとも1日2度、朝と晩とに、それを行え。朝、決心をたて、夕方、良心を糾明し、言葉、行い、考えにおいて、どうであったかを調べよ。あなたはおそらく何度も、それらのことで、神と隣人とを侮辱したに違いない。悪魔の牙にたいして、勇士のように武装せよ。飲食を節せよ。そうすれば、他の邪欲を、もっと容易におさえることができよう。何もしないでいることのないようにせよ。読む、書く、祈る、黙想する、それとも皆のためになることを何か行え。しかし、体の苦行は慎重に行うべきで、誰でも、同じことをしてよいわけではない。共同でない修行は、外に見せびらかしてはならない。個人としての修行は、ひそかに行う方が安全である。共同の修行を嫌い、自分一人の修行に身を入れることは避けねばならない。むしろ、命じられた義務を忠実に果たしてから、まだ時間があるなら、自分一人の信心を行ってよい。同じ修行が、誰にでも適当とは言えない。この人にはあれ、あの人にはこれの修行が役に立つ。また季節季節によって、修行を変えるのもよい。ある修行は、祝日に、ある修行は平日に行うほうがよい。誘惑のときに必要な修行もあり、平和な、無事な時に、必要な修行もある。悲しい時にふさわしい考えもあり、主において喜んでいるときに、ふさわしい考えもある。1年の主な祝日の頃には、ある修行を新たにし、聖人の取り次ぎを、熱心にこい願わねばならない。祝日から祝日までの間には、よい決心を立て、この世を去って、永遠の祝日に行くように、心の準備をしよう。だから、特別な修行の季節には、一層努めて、霊的な準備を果し、一層敬虔に、生活しなければならない。また、私たちの労苦の報いを、主から受ける前日のように、会憲を、更に厳しく守らねばならない。その報いのときが伸ばされるなら、私たちは、まだ十分に準備ができず、定められたとき「私たちにあらわされる」(ローマ8・18)その光栄にふさわしくないのだと考えて、与えられた期間を利用して、より良く死の日に備えねばならない。福音史家ルカは言っている、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(ルカ12・37、44)。

20・孤独と沈黙とを愛する

自分を反省するために、適当な時間を作り、神から受けた恩恵を、しばしば考えよ、新奇なことから心を離れさせよ。頭を疲れさせる問題ではなく、心を熱心にする問題をきわめよ。あなたが、無駄な会話や用もない付き合いを避け、珍しいことや、噂話を聞こうとしなければ、黙想にふける十分な時間があるだろう。偉大な聖人たちは、努めて、交際を避け、隠れて神に仕えることを喜びとしたものだった。ある知恵者がいった、「私は人と付き合うごとに、人間として損害を受けた」(セネカ、書簡7・3)。私たちもしばしば、長いおしゃべりをした後で、それを痛感する。全然話さないことは、度を過ごさずに話すことよりもやりやすい。家でひそかに生きることは、外で自分を安全に守るよりもやりやすい。そこで、霊的なことにおいて、進歩したいと望む人は、イエスの模範にならって、群衆から離れねばならない。喜んで、隠れた生活を送ろうとする人なら、外に出ても安全である。喜んで沈黙を守ろうとする人なら、話しても安全である。喜んで服従する人なら、人の上に立って、誰よりも安全である。服従をよく習った人なら、誰よりも安全に、人に命令が下せるものだ。心のなかで良心の声を聞く人以外、安心して喜べる人はいない。しかし、聖人たちの安心は、常に神への畏敬をあわせもっていた。彼らは、完徳と神の恵みとに輝いていても、なおそれ以上に、善行をし、謙遜を養う努力を忘れはしなかった。かえって悪人の安心は、傲慢と自負心から出ているもので、結局は、彼らの損害になる。自分で、よい修行者だ、敬虔な隠遁者だ、と思っていても、この世にいる間は、自分自身に安心しきれるものではない。すぐれた人だ、と評判されてた人が、自分自身を過信しすぎて、ほろびの危険にさらされることもある。だから、多くの人にとっては、自分は安全だ、と過信しないように、高ぶらないように、また外部の慰めに、慎みなくおぼれないようになるために、何の誘惑を感じないより、時々誘惑にあうほうがためになる。ああ、はかない喜びを求めず、世間のことに関わらない人があれば、彼はどんなに清い良心を保つだろう。役に立たない心配を断って、救いのこと、神のことだけを考え、全ての信頼を神にかける人があれば、彼は、どれほど平和と静かさを保つことだろう。心から、聖い痛悔を起こそうと、一心に努めなければ、誰も天の慰めを受ける価値はない。あなたが心から痛悔しようと思うなら、部屋に退いて、騒々しい世間を避けよ。詩編に「あなたは、静かな部屋のうちにあって痛悔する」(4・5)と記されている。部屋で神を思うとき、あなたは外でしばしば失うことを見出すであろう。好んで、長く住めば住むほど、部屋は楽しくなる、しかし部屋を留守にしがちだと、自然にそこを嫌悪するようになる。改心のはじめから、好んで部屋に住んだのなら、後に、そこはあなたのなつかしい友となり、最も快いなぐさめの場となるであろう。沈黙と静寂とのうちにあって、敬虔な霊魂は、徳をすすめ、聖書の奥義を学ぶ。彼は、自分を洗い清めるために、この部屋で、夜ごとに涙を流すだろう。騒々しい世間を離れれば離れるほど、創造主に親しく近づくことができる。知人、友人から離れる人に、神は、その天使をつれて、近づいてくださる。霊的な善をないがしろにして、奇跡を行うより、隠れた生活のうちに、自分の霊魂を守る方がよい。修道者としては、ごくまれにしか外出せず、人に見られることを避け、また人を見ることさえ避けることが望ましい。なぜ、持ってはならないものを見ようとするのか?「世も、世にある欲も、過ぎ去って行く」(1ヨハネ2・17)。官能の快楽にひかれて、人は外出に誘われる。しかし、その時が過ぎ去れば、重い良心と、散漫な心以外に何を受けるだろうか。楽しい外出は、悲しい帰りになることが多い。夜の楽しい歓談は、悲しい朝を迎える。官能の快楽は、甘く忍び込み、最後にはその人をかみ殺す。他のところで見たいことは、ここでも見えるではないか。天地とその全てのものを見よ、それによって、他の全てが、成り立っている。永久に存在するものを、この世のどこに見つけられよう。見て味わえば満足する、と恐らくあなたは思うだろうが、実はそうではない。たとえ一べつのうちに、全宇宙を見られても、それははかない幻影以外の何ものだろうか。目を上げて、高く神を仰ぎ、あなたの罪と、怠りとの赦しを祈れ。はかない事柄は、はかない人々に任せよ。そしてあなたは、神から命じられたことに、一心に努めよ。あなたの後ろの扉を閉めて、愛するイエスを、あなたのそばに招け。あなたの部屋のなかで、イエスとともに止まれ。他のどこにも、それほどの平和を見出せないだろう。あなたが外出せず、世間の声に耳を貸さないなら、更に清い平和を保つだろう。ときどき、新しいことを、聞きたいと思う。それだけ、心が乱されるのだということを忘れるな。

21・悔い改め

徳に進歩しようと思うなら、神への畏敬を守り、過度の自由を避け、五感を制し、むやみに狂気するな。悔い改めの心を起こせ、そうすれば熱心を見出す。悔い改めは多くの善をもたらすが、乱れた生活は、すぐその善を失わせる。人間が、流されの身であり、霊魂は様々の危険にさらされていることを思えば、私たちがこの世で、喜びに満ち溢れて生活できると思うのは間違いだ、と考えてよい。私たちの心は浅はかで、欠点を直そうと心がけていないから、霊魂を傷つけることに対して鈍感である。そして、泣かねばならないときに、おろかにも笑う。まことの自由と正しい喜びは、清い良心と神への畏敬にある。自分の心を乱す原因を遠ざけ、悔い改めに専心する人は幸いである。自分の良心を汚し、また自分を惑わすことを遠ざける人は幸いである。勇ましく戦え、習慣は他の習慣によって負かすことができる。あなたが、他人に係り合うのをやめるならば、他人もあなたに行うことに、係り合わないだろう。他人のいざこざを引き受けるな、また目上の問題に口を入れるな。何よりも、自分自身を警戒せよ、そして、あなたが愛する人に言うより以上に、自分自身を叱責せよ。他人の指示を得ないにしても、そのために悲しんではならない。むしろ、あなたの生活が、神の下僕として、敬虔な修道者として、善良さと慎みに欠けていることを心にとめよ。この世で、多くの慰め、特に感覚的な快楽を多く持たないことこそ、安全な有益なことだ。また、内的な慰めを持たないか、あるいは、めったに感じないとすると、それは自分の責任だ。それは、悔い改めの心を求めず、世俗の空しい慰めを捨てきれないからである。あなたは、神の慰めを受けるに足らず、むしろ、多くの患難を受けなければならない人間だと認めよ。完全に悔い改めたとき、人はこの世の全てを、重苦しく、苦々しく感じるようになるだろう。徳のある人は、泣き、また嘆くに足りる理由をいつも見つけている。自分を思い、隣人を思っても、この世では、患難のない人はいないことがわかる。自分を厳しく反省すればするほど、悲しみ嘆く理由を見出す。正しい苦しみと、悔い改めのもとになるものは、私たちの悪と罪である。私たちは、天のことを、ごくまれにしか眺められないほど、この世の物に束縛されている。どれほど長生きできるかを考えず、いつ死ぬかを考えれば、あなたは、もっと熱心に欠点を改めようと努めるだろう。またもし、未来の、地獄や煉獄の罰を、深く黙想すれば、今の苦労と患難とを、甘んじて耐え忍び、この世のどんな苦しみも、おそれなくなる、と私は思う。しかしそれらのことに関心を持たないから、今も、世俗の楽しみにひかれ、冷淡で、徳に進もうとしないのである。私たちのみじめな肉体が、一寸したことで不平をもらすのは、先にいった精神が欠けているからである。だから、悔い改めの心を与えてくださるように、へりくだって主に祈り、預言者と共にこう言おう、「主よ、涙にぬれたパンで私を養い、あふれる涙を私に飲ませて下さい」(詩編79・6)。

22・人生のみじめさを思う

神に向かない限り、どこにいても、どこへ行っても、あなたはみじめな者である。ことが望み通りに行かないといって、なぜあなたは悩むのか。全てが、自分の望み通りに行くと言い切れるのは誰か?私もあなたも、この世のどんな人も、そうは言えない。この世で何の患難も心配も持たない者は一人もない。そして幸福な人とはだれだろう?それは、神のために何事かを忍んでいる人に違いない。心の弱い人、または身体の弱い人は、「あの人の生活はどんなにいいだろう。どんなに富に恵まれ、どんなに偉く、どんなに高い権勢と地位とを持っていることだろう」とうらやむ。しかし、あなたの心を、天に向けよ、そうすれば、地上のこれらの善が、すべて空しい不確実なもので、不安とおそれとをもって、所有せねばならない厄介なものだと知るだろう。人の幸福は、地上のものを豊かに持つことにあるのではない。適当にあれば充分である。この世に生きるのは、本当にみじめなことである。精神の道に、進もうと思えば思うほど、現在の生活を重苦しいものに感じる。それは、堕落した人生の欠点を痛切に感じ、それがはっきりと見えるようになるからである。食べること、起きること、寝ること、休むこと、働くこと、身体の必要に気を遣うことは、それらから解放され、すべての罪を逃れようとする、敬虔な人にとって、どんなにつらい悲しいことだろう。実に、内的に生きる人は、この世における身体上の配慮を、わずらわしく思う。そこで、預言者は、そこから解放されたいと切に祈って「主よ、身体上の配慮から、私を解放してください」といった(詩編25・17)。しかし、自分のこの惨めさに気づかない人は、哀れである。この惨めなはかない生活に、執着している人は一層哀れである。なかには、働きながら、あるいは、施しをうけながら、かろうじて生きられるものしか持っていないのに、この世に、いつまでも生きられるなら、神の国のことなど、思っても見ないほど、現世の生活に執着している人がいる。地上の快楽にひたりきって、物質的なことだけしか味わえないとは、なんと愚かな信仰のない人々だろう。この哀れな人々は、自分たちの愛したものが、どんなにつまらないものであったかを、痛い損害を受けてから、最後に思い知るだろう。しかし、神の聖人たちや、キリストの真実な友人たちは、肉を喜ばせるものや、この世で栄えるものを求めず、そのすべての信頼と希望とを、永遠の善に置いている。見えるものを愛して、低いものに引きずられないように、彼らの望みは、高い、不朽の、見えないものに向かっていた。兄弟よ、信頼して、霊的な道にすすめ、その機会と時とは、まだある。なぜあなたは、よい決心をのばすのか。立ってすぐ実行し、そして、「行うときは今だ、闘うのは今だ、自分の生活を改めるのは今だ」と言え。あなたが悲しむとき、患難に会うとき、そのときこそ、功徳を積むときである。あなたは、慰めに達するまでに、火と水とをくぐらねばならない(詩編65・12)。自分自身を厳しく扱わないなら、どんな欠点にも、勝てるはずがない。私たちは、この弱い肉体を持っている限り、罪をまぬがれず、また倦怠と苦痛とを感じないわけにはいかない。私たちは喜んですべての惨めさを脱ぎ去りたい。しかも原罪のために、清さを失い、同時に、真の幸福を失った私たちである。だから、悪の時代が過ぎ去って、「死ぬべきものが、不滅のうちによみがえるまで」(コリント後5・4)忍耐を保ち、神の憐れみを待たねばならない。常に悪に傾きがちな人間とは、何ともろいものだろう。今日、あなたは罪を告白し、明日また同じ罪を繰り返す。今あなたは、何かを避けようと決心する。しかし暫くすると、何の決心もしなかったように行動する。実に、私たちは、これほど弱く、これほど気が変わりやすいのだから、自分をさげすみ、何一つ自分にとりえがないと思うのが当たり前である。また神の恵みによって、やっと得たものを、怠りのために、一瞬にして失ってしまうこともある。朝のうちから、もうこれほど冷淡になっているなら、生涯の日暮れになってどうだろう。良心の平和と安全さとを、もう勝ち得たように、今から、休息を取ろうとする者は、禍なことだ。私たちの行為には、まだ聖徳の印さえ現れていないのだ。実際は、よい修行者のような聖徳を身につけることについて、将来、自分の欠点を改め、霊的により高くすすもう、という希望をもって、まだまだ教えてもらうことは多い。

23・死を黙想する

間もなく、あなたは死ぬだろう。だから、自分が、死に対して、どんな備えをしているかを考えよ。人は今日生きていても、明日はもう姿を消す。人の目の前から一旦姿を消せば、すぐさま忘れられてしまう。現在のことだけに心を向け、未来のことを、考えようとしない人間の心とは何とおろかで浅はかなものだろう。あなたは、行いと思いとにおいて、今日死ぬ人のように、行動しなければならない。清い良心を持っているなら、死は、それほど恐ろしいものではない。死を逃れようとするより、罪を避けようとする方が正しい。今日、死の備えができていないなら、どうして明日できよう。明日は、確かではない。その明日が来るかどうかが、どうして判るのか?自分の欠点を、これほどわずかしか改めようとしない私たちが、長生きして何の利益になろう。長寿は、私たちをより善くするものとは限らず、しばしば罪を増やすだけである。たとえ一日でも、この世で、善く生きられたら!人は改心してからの年数を数えるが、しかし、改善の結果は、はなはだ少ない。死が恐ろしいものなら、長生きすることは、更に危険なことだろう。自分の死の瞬間を、いつも心におき、毎日死の備えをする人は幸せである。いつか、誰かが死ぬのを見たら、あなたもそれと同じ道を歩かねばならないのだと考えよ。朝が明ければ、夕べは来ないと考えよ。夕べになれば、あくる朝があると思うな。いつも備えを忘れるな。死がいつ来ても、備えができているように生活せよ。多くの人は、不意の死に会う。「人の子は思わぬ時に来る」からである(マタイ22・44、ルカ12・40)。この最後のときが来れば、あなたは過去の生活について、今までと異なる考えを持つようになり、不熱心で、なおざりであったことを悔やむだろう。死のときに、かくありたいと思うように、生きている間に努めるのは、何と幸せな賢明な人だろう。全く世俗を軽蔑すること、徳に進もうと熱心にのぞむこと、規則を愛すること、苦行すること、服従すること、自分を捨てること、そして、キリストへの愛のためにあらゆる患難を忍ぶことは、善く死ねるという確信の根拠である。健康である間は、善いことがたくさんできるが、病気になって何ができるかはわからない。病気のとき、善に進むものは意外に少ない。各地の巡礼をして聖徳に達するものが少ないのと同様に。友人や親せきを頼りにするな。またあなたの救霊に関することを後回しにするな。あなたが思うより早く、人はあなたのことを忘れてしまうからだ。死後、他人が祈ってくれるのを頼みにするよりも、間に合うあいだに、今、自分で備え、善業を、あらかじめ天に送っておくがよい。あなたが今、自分のために備えをしておかないなら、将来、だれが、あなたの救いを心がけてくれようか。大事な時は今だ。救いの日は今だ。適当なときは今だ(コリント後6・2)。しかし悲しいことに、あなたは、永遠の生命を確保する功徳を得るために、この今を、よりよく利用しようとしない。自分を改めるために、一日でも、一時でも、欲しいと思う日が来るだろう。そのときが、あるかどうか分からないのに。ああ、愛する兄弟よ、もしあなたが、いつも死を念頭において生きるなら、どれほどの危険、どれほどの恐怖を、まぬがれるだろう。恐怖ではなく、喜びを持って死を迎えるように努めよ。今から、この世に死ぬことを学べ、そうすれば死のとき、あなたはキリストと共に生きるだろう。今から全ての物を軽蔑することを学べ、そうすれば、そのとき、自由にキリストに近寄れるだろう。今から苦行して、あなたの肉体を抑えることを学べ、そうすれば、そのとき、あなたは完全な信頼を持てるだろう。愚か者よ、なぜ、長命を保てると思っているのか、一日さえも、確実ではないのに。どれほど多くの人が、この錯覚に迷わされ、思いがけないときに、この世を去って行ったことだろう。ある人は刀で刺され、ある人は溺死し、ある人は高い所から落ちて頭を割り、ある人は食事のときに息絶え、またある人は遊んでいるときに頓死した。何度もあなたは、そういう話を聞いただろう。ある人は火で、ある人は剣で、ある人はペストで、ある人は強盗の手にかかって死んだ‥‥。こうして、どんな人も、最後は死である。人の命は、影のようにすぐ消えてしまうものだ。あなたが死んだのち、誰が、あなたを思い出し、あなたのために祈ってくれるだろう?愛する兄弟よ、今のうちに善を行え、あなたは、いつ死ぬか知らず、また死んでのち、どうなるかも知らない。時のある間に、不朽の富を集めよ。あなたの救いのこと以外は、何も考えず、神についてだけ、心を配れ。神の聖人たちを尊敬し、彼らの模範にならって、天の友人を作れ、そうすれば、あなたがこの世を去る時、彼らが、あなたを永遠の幕屋に迎え入れるだろう(ルカ16・9)。この世では、自分は地上のわずらいに関わりのない旅人であり、他国人である、と考えよ。自分の心を、いつも自由にし、高きに在す神に向けよ。あなたは、まことの不滅の国をここに持っていない(ヘブライ13・14)。祈りと、日々のあこがれと涙とを神に向けよ。そうすれば、身体が死んでのちのあなたの霊魂は、めでたく主に昇るだろう。アーメン。

24・罪人の審判と罰

あなたは、最高の目的を見よ。いつの日か、あなたは、すべてを見抜くお方、贈り物でごまかせず、口実が理由にならず、ただ正義に従って裁く、厳しい審判者の前に立たねばならないと思え。ああ、惨めな愚かな罪人よ、怒っている人の前でさえ震えるあなたは、あなたの全てを見抜いている神の御前に出て、何と答えるのか?なぜ、審判の日に備えようとしないのか?その日にはだれ一人として、他人からの庇護も保護も受けられない。人は各々、十分な荷を背負っている。今こそ、あなたの苦労には功徳がある。あなたの涙は神に受け入れられ、あなたの祈願は聞き入れられ、あなたの苦しみは償いと浄めになる。侮辱を受けて、受けた侮辱よりも、相手の悪事のために悲しみ、自分に反対する人々のために快く祈り、心からその罪をゆるし、相手の赦しを乞うに、やぶさかでない人、また、怒るよりも、むしろやさしくあわれみ、しばしば自分自身をせめ、肉体を全く霊に服させようとする忍耐を持つ人は、もはやこの世において、救いを得させる煉獄を通っている。来世の償いをするよりも、今、罪を償い、悪の根絶をするがよい。しかし、肉体にたいする、よこしまな愛のために、私たちは自分をあざむきがちである。かの火が燃やすのは、あなたの罪以外の何だろう。今、あなたが、自分自身にゆるければゆるいほど、そして自分の肉に従えば従うほど、いよいよ苦しい罰を受け、いよいよ多量の燃料を積む。人は罪を犯した五感をとくに罰せられる。怠け者は燃えるこけに刺されるだろう。美食の人は、恐ろしい飢えと渇きに苦しめられるだろう。淫行の人や快楽を追った人は、燃えるチャンと、臭い硫黄とのなかに沈められるだろう。また妬んだ人は、余りの苦しみに狂犬のようにほえたけるだろう。どんな悪にも、それぞれの罰がある。そこに行けば、高慢な人々は恥辱に覆われ、貪欲な人々は惨めな赤貧に落とされる。そこに行けば、苦しみの一刻は、この世での、つらい苦行の百年よりも苦しい。そこに行けば、滅びた人々のために、一刻の休みも慰めもない。この世では、時々、楽しい時もあり、友人の慰めを受けることもあるが。だから審判の日、聖人達とともに安全にいるように、今、あなたの罪を省み、それを痛悔せよ。そのとき聖人たちは、自分たちを苦しめ迫害した人々とは反対に、平和のうちに休むだろう(知書5・1)。そのとき、この世で、人間の裁きに、謙虚に従った人が、他の人の裁きに立つだろう。そのとき、貧しい人と謙虚な人とは、大いに安堵し、高慢な人は、どちらを向いても恐怖におののくだろう。そのときキリストのために、愚か者と軽蔑された人が、知恵者であったと知るであろう。そのとき、忍耐を持って、甘受した患難は喜びのもととなるだろう。「悪を行った口は、すべて閉じられる」(詩編106・42)。そのとき、信心深かった人は喜び、宗教に背いた人は、嘆き悲しむだろう。そのとき、苦行を行った人は、楽しく暮らした人よりも、喜び勇むだろう。そのとき粗末な服は輝き、贅沢な服は黒く濁るだろう。そのとき、貧しい住居は、壮麗な邸宅よりも賛美されるだろう。そのとき、世間の全権を握ったよりも、絶えざる忍耐のほうが役立つだろう。そのとき、世間のあらゆる狡知よりも、単純な従順の方が、はるかに称賛されるだろう。そのとき深い学問よりも、清い素直な良心のほうが、はるかに喜びをもたらす。そのとき、富を軽蔑したことが、この世のすべての宝を持つよりも価値があると知るであろう。そのとき信心深い祈りの思い出が、美味しい食事の思い出より以上に、あなたを慰めるだろう。そのとき長い饒舌よりも沈黙を守ったことが、はるかに喜びをもたらすだろう。そのとき、清い行いは、多くの雄弁よりも価値があるだろう。そのとき、厳しい生活と、つらい苦行とは、地上のどんな楽しみよりも、あなたを喜ばすだろう。だから今、小さい苦しみを忍ぶことを学べ、そうすればそのとき、さらに重い苦しみが避けられるだろう。あなたが後の世で課せられる苦しみを、まずこの世で受けよ。今、こんなわずかな苦しみを忍べない身に、どうして永遠の苦罰が忍べようか。今、わずかに不愉快なことでさえ、これほど忍べないなら、地獄の火はどうだろう。ほんとうにあなたは、この世で楽しみ、後の世でもキリストと共に幸福に生きる、という二つながらの幸せは許されないことである。あなたが、今日まで絶えず、名誉と快楽とのなかに生きたとしても、今、突然死ななければならないとすると、それらが、何の役に立つだろう。神を愛して、神に仕えること以外は、すべて空しいことである。心をあげて神を愛する人は、死も、苦しみも、審判も、地獄もおそれない。完全な愛は、神への安全な道を、霊魂の前にひらくものだ。それに反して、罪をおかして悔いない人が、死と審判とを恐れるのは当然である。神への愛が、あなたを罪から遠ざけえないとしても、少なくとも地獄を恐れて、罪を避けよう。

25・生活を熱心にあらためる

神に仕えるにあたっては、警戒を怠らず、勤勉であれ。そして、なぜ自分は修道会に入ったか、なぜ世俗を捨てたかを、しばしば考えよ。それは、全く神に生きるためであり、霊的な人となるためではなかったか。だから熱心に完徳を目指して進め、そうすれば、まもなくあなたは今までの労苦の報いを受けるだろう。そこには、もうどんな恐れも苦しみもない。あなたの労苦は、もうしばらくのことだ。その後には深い休息、いや永遠の幸福がある。あなたが、忠実に熱心に善を行い続ければ、疑いもなく神は、あなたに報いるに、忠実、寛大である。あなたは、報いに達するという確かな希望を、いつも持っていなければならない。しかし、熱心を失わず、高慢に陥らないためには、それが確実だ、と思い込まないほうがよい。恐怖と希望との間をいつも動揺していたある人が、ある日、煩悶に耐えかねて聖堂内の祭壇の前にひれ伏して祈り、心の中でこう考えた、「ああ、私が、最後まで善の道を続けられると知っていたら…」。するとすぐ心のなかに、天からの答えを聞いた、「それを知ってどうするつもりなのか。それを知っていたとしたら、こうしたい、と思うことを、今行え。そうすれば、お前の幸せな行末は確実だ」と。その人はすぐ慰められ、励まされて、神の御旨に自分をゆだね、心の不安はなくなった。その人は、もう、自分の行末がどうなるかを探ろうともせず、むしろ、すべての善業を始め、そして成し遂げるのは神で、自分は神の御旨にかなうことを一心にさがすことだと知った(ローマ12・2)。「主によりたのめ。そして善をおこなえ」と、預言者はいっている。また「この世で与えられた生活を営め、そうすれば、天の喜びにあずかる」(詩編36・3)と。霊の完徳と、心からの改心から、多くの人を遠ざけるのは、困難と、戦いの労苦を厭う心である。自分にとって、一番つらい行いにくいことに、勇ましく向かおうと努める人は、誰よりも徳の進歩が早い。人は誰でも、自分自身に打ちかって、心を抑えれば抑えるほど、徳に進み、より大きな恵みを受けるのだ。しかし、自分に勝ち、自分を抑えるとしても、皆が同じ程度の欲望を持っているわけではない。ただ、熱心な人は、多くの邪欲に悩まされていても、生活が正しくて徳に進む熱の足りない人より、完徳に向けて、力づよく進む。自分を改めるについて、特に二つのことが役立つ。堕落した人性が傾こうとする点を強く押し返して、自分にとって必要な善を、熱心に求めることである。また、あなたに気に入らない短所を、他人のうちに見つけるなら、その短所を、自分のうちに見つけ、それに勝つように、努めなければならない。自分を改めるためには、どんな機会も逃すな。だから、よい模範を聞いたり、見たりすれば、それにならうように励め。また、非難すべきことを見たなら、それを行わないように心掛け、もし、したことがあるなら、すぐ改めるように努力せよ。あなたが、他人を注視しているように、他人も、あなたに注視の目を向けている。熱心な、信心深い、品行のよい、規律正しい兄弟たちを見るのは、喜ばしいことだ。それに反して、召し出された道を反れ、規律を踏みにじって、生活している兄弟を見るのは、悲しく、見苦しいことだ。自分の召し出しの義務をないがしろにして、課せられていないことをしようとするのは、実に有害なことである。自分で定めた決心を、いつも記憶し、目をキリストの十字架に向けよ。イエス・キリストの御生活を黙想すれば、あなたは大いに恥じ入るところがあるはずだ。すでに長く神の道を知っているのに、いまだに自分自身の生活を、キリストに倣わせていないからだ。信心をこめ、注意して、主の御生活と御受難をかえりみる修道者は、自分にとって有益なことを、みな、そこに豊かに見出す。ああ、十字架上のイエスが、私たちの心に来られるなら、どれほどすみやかに、そして完全に、そこから教えを汲むことだろうか。本当に熱心な修道者は、命じられたことを、すべて快く受け入れ、遂行する。それに反して、義務を怠る冷淡な修道者は、苦しみに苦しみを重ね、八方から、悩みを与えられる。霊的な慰めを持たず、また外部の慰めを受けることも、禁じられているからだ。規律を守らない修道者は、危険のふちにのぞんでいる。安易なことだけを求める人は、いつも苦しみの生活をおくるだろう。このこともあのことも、その人は気に入らないからだ。厳しい規律のもとに、修道生活を営んでいる多くの修道者は、どうしているだろうか。外出することもめったにない、世俗を離れて、潜心のうちに生きている、粗食に甘んじ、粗末な服をつけ、一心に働き、長く祈り、しばしば、読書し、すべての規律をよく守っている。カルジオ会やシトー会、その他の修道会の修道者、修道女を見よ。彼らは、主に賛美を歌うために、毎夜おきでる。それほど多くの修道者が、神に賛美の歌を捧げているときに、あなたがその聖なる務めを怠るのは、恥ずべきことではないか。ああ、心と口とをもって、主なる神をほめたたえる以外の務めが、私たちにないものならば!食べ、飲み、寝る必要がなく、いつも神をほめたたえ、霊的なことだけを考えて、日を過ごせるならば!もしそうできたら、身体のために、心を使わねばならない今よりも、はるかに幸せだろう。そういう必要がなくなって、霊的な糧だけを求めるものならば!しかし、不幸にも、私たちがそれを味わうのは、ごく稀なことである。どんな被造物にも、慰めを求めないほど完徳に達すれば、人は、そのときはじめて、完全に神を味わい、どんなことがあっても、喜びのうちにある。そうすれば、どんな多くのものを持っていても大して喜ばず、少ししか持っていなくても、悲しまない。その人は、すべてにおいてすべてである神、つまり神においては、何物も滅びることなく、朽ちることなく、そのために、すべてのものが生き、その命令に万物が従う神の御手に、自分のすべてをゆだねている。いつもあなたの目的を考えよ。そして失った時は、二度と取りもどせないと思え。熱意と努力がなければ、いつでも徳をつめないだろう。冷淡になりはじめたら、その時から不満を知るだろう。しかし熱心に励めば、平和を見出し、神の恵みと、徳への愛のために、どんな苦労もたやすいと感じるだろう。熱心な努力の人は、どんなことにも備えている。悪と邪欲とに抵抗することは、肉体労働に汗水流すよりも、つらい仕事である。小さな欠点をさけない人は、徐々に、大きな欠点にすべり落ちる。一日を効果的に利用したなら、夕方になって満足するだろう。自分を警戒せよ、自分を励ませ、自分をせめよ、そして他人のことはどうであろうとも、自分のことを、おろそかにするな。自分に対して、厳しくあればあるほど、徳に進歩するだろう。アーメン。