8 いばらの冠

聖母は、御子と同じ御苦しみと御悲しみをお感じになり、聖母の御体全体で、主と同じ痛みをお受けになりました。御母の深い悲しみは、母としての愛や御子を神として愛することだけではなく、罪のない主が、不信のユダヤ人たちやアダムの子孫たちを永遠の死から救おうとしているのに、救おうとしている彼らが主に侮辱の限りを尽くしているからです。人々は、主を偽りの王として、引き裂かれた汚らわしい紫のマントをかけ、御頭に茨の冠をかぶせます。この冠は棘のある枝を輪にしたもので、硬く鋭い棘は頭蓋骨、耳や目にも突き刺します。杖の代わりに葦の棒を持たせ、主を偽りの王としてからかいます。「神が、ユダヤ人の王であるお前を救うように」。兵士たちは主の御顔を平手で打ち、唾をはき、葦の棒を御手から取り上げ御頭を叩きます。そのあと主はピラトのもとに連れて来られます。ピラトは哀れな姿に成り果てた主を群衆に見せて言います。「見なさい。この人を」。主は、頭に茨の冠がかぶせられ、顔は血まみれ、からだじゅうは傷だらけのひどい状態でした。しかし群衆はあわれむどころか、口をそろえて言います。「十字架につけろ」「死ぬべきだ、死ぬべきだ、死刑だ、死刑だ」。ピラトは、群衆の中で手を洗い言います。この男に自分は関係ない。私は手を洗い、この男の血に染まらない」。ピラトは大声で救い主の死刑を宣告します。それをユダヤ人たちは答えます。「その血は、我々と子孫が浴びよう」。御母は、ユダヤ人たちの言葉に貫かれます。

☆参考 御子と御母の苦しみが一つであったことの他書の記載
<福者アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタにおける イエズスのご受難>から抜粋
十字架の道行きのとき…御母は、ずっと離れて、ついてこられるようにみえたが、ほんとうは、私と一致していた。私たちの心は、ただ唯一の愛に苦しみ、私たちの涙には、同じにがみ、同じ苦しみ、同じおもいやりがあった。
十字架の下で…1・御母マリアは、イエズスとともに、どれほどお苦しみになったことだろう。十字架上のイエズスも、マリアと一つの心、一つの魂、一つの苦しみ、一つの愛となっていた。2・ふたりのもっとも清いみ心には、同じ苦しみと、同じ望みがあった。それは、これほどまでにそむいてきた残酷なこの世界を、ご自分のうちに迎えいれて、永遠に守ってあげることだった。ああ、なんと底知れぬイエズスの愛!そして、御母のこの愛!私は、同じ愛、同じ苦しみ、同じ喜びにあずかっていた。3・御母は、いつまでも立ちつくしておられた。そのみ姿は、イエズスと同じ十字架につけられて、同じ苦しみを苦しみ、同じ殉教をなしとげ、同じ愛のきわみをきわめ、同じ救いの使命に協力する人の姿であった。
御子がいきをおひきとりになったあと御子をうけとったとき…イエズスは、愛にかられて、御いのちを与えられた。その御母もまた、御子イエズスを愛したその愛で私たちを愛し、御子の使命を、ご自分の使命として果たしつづけておられる。