6 ゲッセマネでの憂い

1・主イエス・キリストが御聖体の秘跡を制定され、最後の晩餐も終わったあと、聖母は御子にお会いになります。御二人は見つめ合ったまま、悲しみの剣で心を突き通されます。主は神の威厳と溢れるばかりの愛情をもって御母に話されます。「母上、一緒に苦しみましょう。二人で永遠の御父のみ旨と人間の救いを成就しましょう」。御母はその言葉に同意し、主の祝福を願います。祝福を頂いたあと、御母は控えの間に戻り、主の御殉難の全てを神の特別なお計らいにより見ることになります。このようにして御母は、御子のそばにつきっきりで協力することができました。主は十二人の使徒たちと共に高間を離れ、オリーブ山に向かわれます。主の一行がオリーブ山を登り、ゲッセマニの園に着いたところで、主は使徒たちに言います。「ここで待ちなさい。わたしが向こうへ行って祈っている間、あなたたちも祈りなさい」(マタイ二十六・三十六)。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(ルカ二十二・四十)。主は八人の使徒たちをそこに残し、聖ペトロ、聖ヨハネ、聖ヤコブを他の場所に連れて行きました。主は、永遠の御父の方に向かい御父を賛美し、人類の救いのため、御父のみ旨、すなわち、主の犠牲が行われることを祈りました。この時から、あらゆる慰めも助けも主から取り除かれたので、御受難はもっとも過酷なものになりました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ二十六・三十八)。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二十六・三十九)。主の御苦しみは、主の愛の大きさと、人々が主の御受難と御死去の功徳を気にしないことに比例しています。その苦しみは血の汗となって表されます。主の御苦しみにより獲得された恩恵は、拒まない人たちに与えられ、聖人や義人には多く与えられました。さて、御母は、高間で聖なる婦人たちが一緒でした。御母は神の啓示により、御子がゲッセマニの園で祈っておられる様子が大変よく見えました。御母は、婦人たちに誘惑に負けないためによく祈るように勧めます。そして御父に、あらゆる感覚的・霊的慰めを全く失くしてしまうようにお願いします。御父はその願いを叶えたため、御母は、御子の受ける同じ苦痛を受けることができました。御母は無限の苦痛により何回でも死んでもおかしくなかったのですが、御父は、御母がその苦痛により死ぬことをお許しになりませんでした。御子と共に死ねないことが、御母にとり一番の苦痛でした。「私の魂は悲しいです。私の愛しい御子が苦しみ、死のうとしているのに、御子の死に私があずかることが私に許されていないからです」。御母は御子と共に祈り、人々の堕落、永遠の救いか滅亡かの神秘を知り、血の汗を流されます。主が天使の訪問を受けたように、御母も天使の訪問を受けます。天使が伝えた御父のみ旨は全く同じでした。そして二人の祈りも悲しみも全く同じでした。イエスは三度目に三人の使徒たちのところに戻って来ると、三人は眠っていました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(マルコ十四・四十一)。これを聞いて使徒たちは起き上がり、主と一緒に八人の使徒たちのところに行きました。八人は悲しみにうちひしがれて眠っていましたが、起き上がります。兵士たちがこちらに向かって進んできます。主は彼らに会うため前に進みます。心の中で信心深く祈ります。「ああ、心の底から待ち望んだ苦痛、傷、侮辱、困難と恥辱に満ちた死よ、私のところに来なさい。早く来なさい。人の救いのために燃える愛の火は、最も潔白である私に会うことを望んでいます。全ての苦しみよ、私は、あなたたちの真の価値を知っているので、あなたたちを最高の威厳で高めます。死よ、来なさい。死に値しない私が死を受け入れるのは、私が死にうち勝ち、罪のために死刑となった人たちに命を与えるためです。私の友が私を棄てることを許します。友のために勝利するために、私は一人でこの戦いに臨みます」(イザヤ五十三・三)。祈っている主に、ユダは走りより、主の御顔に偽りの平和の接吻をして言います。「主よ、神があなたをお救いくださいますように」。御母は幻視により、主の捕縛の様子をそこに居合わせた人たちよりもっと明らかに見ました。祭司長の館で兵士たちや召し使いたちが、自分たちの創造主を侮辱する様子もよく見ました。御母は天使たちと婦人たちに、一緒に主を崇め、侮辱を少しでも償いように頼みました。御母は、主が囚人となり、最も残酷な仕打ちを受けることになると婦人たちに伝えます。婦人たちは御母を見倣い、跪いたりひれ伏したりして、創造主の無限の神性と人性を心の底から賛美します。聖母は主を賛美し・崇拝し、悪意の人々の不敬や暴力の償いをします。主が縄や鎖で縛られ、殴られているとき、御母も同じ苦痛を受け、それを喜んで耐え忍びました。
2・イエスは厳重に縛られ、ゲッセマニの園から祭司長アンナの官邸に連行されます。兵士たちは、全能者のお許しになるぎりぎりまで、自分たちの創造主の人性に怒りをぶつけます。救い主は、敵を全滅できる御力を隠し、救いがもっと実るために、不信心な激怒をぶつけられるままになりました。兵士たちは、アンナに死刑囚として主を引き渡します。涜聖祭司アンナは、大広間の椅子でふんぞり返り、威張っていました。傲慢な態度でこの祭司長は主に質問します。主の御答えを捻じ曲げ、主を嘘つきとして決めつけるためです。主は答えます。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」。イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(ヨハネ十八・二十~二十三)。その時、聖ペトロと聖ヨハネはアンナの官邸のなかに入ります。寒かったので、聖ペトロは、たき火の側に来ると、女召し使いは聖ペトロの悲しげな様子に目を止め、側によって来て、聖ペトロが主の弟子であることに気づき言います。「お前もあの男の弟子の一人ではないのか?」、聖ペトロは弱気でまごつき、恥ずかしくなり、怖くなって「私は弟子ではない」言いました。主はカヤファの官邸に連行されます。聖ペトロはついて行きましたが、そこで二度も主を否認します。聖ペトロの否認は、主にとり、殴られることよりもっと辛いことでした。主は聖ペトロのために御父に祈り、三度目の否認のあとで聖ペトロを赦してくださるように御母の仲介もお願いします。全てを見ている御母は、愛、感謝、崇敬と礼拝に没頭しておられ、聖ペトロの不始末を泣き悲しみ、主が聖ペトロを過失から起き上がらせることを確かめるまで祈り続けます。祭司長たちやその僕たちは、連れてこられた主を見て笑いころげます。主は、彼らの手の中にあり、逃げ隠れできません。祭司長カヤファは、嫉妬と憎しみにより、主を殺してやりたい気持ちで一杯です。律法学者たちやファリサイ人たちが、主を取り囲み、彼らの買収した承認を呼び出し、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めます(マタイ二十六・五十九)。偽証人たちは証言しますが、お互い食い違い、証拠は得られません。主イエス・キリストは、讒言、そしりに対して沈黙のままです。主の沈黙に我慢できなくなったカヤファは言います。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。主は沈黙のままです。主の謙遜な沈黙はカヤファを激怒させます。カヤファは威張りくさって質問します。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」。主は心の中で神を崇拝し、神の御名に対する尊敬のため答えます。「あなたが言ったとおり、私は神の子です。あなたたちはやがて、私が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見ることになります」。この御返事が自分の疑問を解決であることを考えず、怒り狂い、神の名誉を守るしぐさとして自分の法衣を破って言います。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか」。祭司長は、キリストが神の御子であるという確かな事実を否定しました。自分の職権により、この偉大な真理を認め宣言しなかった祭司長こそ神を冒涜する罪を犯しました。祭司長や聖職者たちに扇動され人々は言います。「こいつを死刑にしろ、殺せ、殺せ」。悪魔の怒りに動かされ、人々は最も柔和な主に襲いかかります。御顔をひっぱたき、蹴りつけ、御髪をむしり取り、御首に平手打ちをくわせます。聖母は、これらすべての侮辱、非難と軽蔑を目撃し、主の御体が受ける同じ苦痛を、同じ時に受けます。これは御父の特別なお計らいによるものです。聖母のひどい苦しみと悲しみは、何度も死をもたらすほど大きいものでしたが、神の御力により助けられ、御子と共に苦しみ続けることができました。救い主である御子の御心を十分に理解できたのも聖母だけです。主が、ひどい仕打ちを受けたことで、この祭司長たちと聖職者たちの怒りはだいぶ静まりました。真夜中を過ぎていたので、この悪人たちは、主を牢に閉じ込め、鍵をかけしっかり見張りました。